【第1章】 第9話
白銀の刃が、重力と遠心力を味方につけて真下へと振り下ろされる。
圧倒的な死の軌道。
その無慈悲な線上に、宙を舞った『黄金の恩賞袋』が吸い込まれていく。
泥と血糊にまみれ、本来の意匠すら判別できない分厚いなめし革。
その表面に、ラインハルトの大剣の冷たい刃先が触れた。
その刹那、玉座の間を支配していた物理法則が完全に狂いを乗じた。
刃が革を切り裂く感触はない。
金属と呪具が接触した場所から、網膜を灼くほどの強烈な紫色の閃光が弾け飛ぶ。
それは魔力の衝突による爆発ではなく、極限まで圧縮された「記憶」と「呪い」の奔流が、堰を切って逆流し始めた合図だった。
大気を叩き潰す轟音が、急速に遠のいていく。
大理石の床の冷たさも、カビの匂いも、眼下で恐怖に顔を引き攣らせるガルスの姿も。
現在のすべてが、水に溶けた絵の具のようにドロドロと輪郭を失い、視界が純白に塗り潰される。
兜の奥、ラインハルトの鼓膜を、全く別の音が叩き始めた。
無数の人間が発する、鼓膜を圧迫するような喧騒と熱気。
軽快な弦楽器の音色。
グラスが触れ合う、高く澄んだ音。
鼻腔を満たすのは、香草を擦り込まれた肉の脂の匂いと、芳醇な赤ワインの香り。
そして、それらを上塗りするように漂う、貴族たちの甘ったるい香水の匂い。
(……)
ラインハルトの思考が、強烈な目眩と共に過去の深い淵へと引きずり込まれる。
純白の視界が徐々に色彩を取り戻し、彼の目の前に一つの光景を強制的に結像させた。
天井から吊るされた巨大なクリスタルのシャンデリアが、何百もの蝋燭の光を乱反射している。
そこは、王城の最も奥深くにある大宴会場。
魔王討伐の偉業を成し遂げ、凱旋した勇者を讃えるために開かれた、歴史上最も華やかな祝賀会。
自身の視点は、現在の漆黒の兜越しではない。
生身の眼球が、その光景を真っ直ぐに捉えている。
真新しい群青色の礼服に身を包み、広大な空間の中心に立っていたあの夜。
「我が国の誇り、いや、全人類を救った真の救世主よ!」
目の前に立つのは、豪奢な王衣を纏った国王その人。
彼は満面の笑みを浮かべ、両手を大きく広げて称賛の言葉を紡いでいる。
周囲を取り囲む貴族たちもまた、一斉に拍手喝采を送り、英雄の誕生に沸き返っていた。
だが、その光景の表面に張り付いた「熱」は、ひどく嘘寒かった。
王の口元は笑みの形を作っているが、その瞳の奥には、得体の知れない巨大な猛獣の檻を覗き込むような、濁った恐怖の色が沈殿している。
拍手を送る貴族たちの肩は不自然に強張り、絹のドレスが擦れ合う音が、まるで威嚇する蛇のひずみ声のように響く。
彼らが讃えているのは、命を懸けて世界を救った一人の人間ではない。
自らの平穏な日常をいつ脅かすとも知れない、「強すぎる暴力」という名の災害。
集合無意識の悪意【ルサンチマン】が、華やかな会場の空気に目に見えない毒の糸を張り巡らせていた。
「英雄殿。そなたの多大なる功績に報いるため、特別な恩賞の品を用意した」
王の横から、ふくよかな体付きをした財務大臣が歩み出る。
彼の手には、金糸の刺繍が施された真新しい革袋が重々しく掲げられていた。
現在、目の前の宙を舞っている泥まみれの呪具。
その、本来の汚れなき姿。
「民からの、ささやかな感謝の印だ。どうか、その手でお受け取りを」
大臣の額から、じわりと脂汗が滲み出ている。
彼はラインハルトと決して視線を合わせようとせず、革袋を恭々しく差し出した。
記憶の中のラインハルトが、無防備な右手を伸ばす。
美しいなめし革の表面に、指先が触れた──。




