【第1章】 第7話
分厚い大理石の床を踏みしめる音が、凍てついた玉座の間に反響する。
一歩、また一歩。
ガルスは泥と血にまみれた革靴を前方へ押し出していた。
天井近くのひび割れたステンドグラスから、青白い月光が斜めに差し込んでいる。
その光の帯の中心、数段高くなった大理石の台座の上に、目標は存在していた。
漆黒の重鎧が、巨大な彫像のように玉座へと腰を沈めている。
光を一切反射しないその表面は、周囲の闇を極限まで凝縮して削り出したかのよう。
距離が縮まるにつれ、肌の表面に微小な針を無数に突き立てられるような、物理的な圧迫感が増していく。
呼吸をするたび、肺の奥を氷の刃物で撫でられるような鋭い冷気が忍び込んできた。
最強の魔王が放つ、無意識の魔力圧。
ただそこに座っているだけで、空間の質そのものを暴力的に歪ませている。
(……化け物が)
ガルスの分厚い唇の端から、血の混じった唾液が滴り落ちる。
彼の巨躯は、見えない巨人の手で頭から押さえつけられているかのように、わずかに前傾姿勢を強いられていた。
太い足の筋肉が、重圧に悲鳴を上げて小刻みに震え始める。
胃袋の底が凍りつくような生理的な拒絶反応。
だが、彼の濁った瞳の奥で、猛禽のようなギラギラとした光が消えることはない。
彼の右手の指の間には、泥と血糊にまみれた硬貨が数枚、がっちりと挟み込まれている。
親指の腹が、冷たい金属の縁を強く擦る。
爪の間にこびりついた汚れが剥がれ落ちた。
ジャラ……ズズン。
腰の太い革ベルトに縛り付けられた『黄金の恩賞袋』が、不吉な重低音を立てた。
皮膚に深く食い込むベルトの痛みが、彼の脳髄を黄金への執着という名の猛毒で満たしていく。
彼は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、震える両膝を強引に真っ直ぐに伸ばした。
(俺を誰だと思ってやがる。……金さえ積まれりゃ、神だろうが悪魔だろうが喉笛を掻き切ってやるんだよ)
玉座まで、残り十数歩。
ガルスは右腕をゆっくりと胸の高さまで持ち上げ、親指の腹に限界まで力を込める。
王国の紋章が潰れた呪貨の表面に、不吉な紫色の魔力光が這い回り始めた。
◇
玉座の上。
ラインハルトは微動だにしない。
兜の奥の暗闇から、光の欠片もない冷徹な双眸が、眼下まで迫った巨漢を静かに見下ろしている。
大回廊の壁画を削り取った時の凄絶なまでの残滓は、すでに彼の内側の分厚い氷盤の下に完全に封じ込められていた。
彼の視線が、男の構えた右腕へとゆっくりと移動する。
太く、無骨な指の間に挟まれた数枚の金属片。
泥と血にまみれてはいるが、その形状と大きさは、彼の脳裏に焼き付いているものと完全に一致している。
ラインハルトは、兜の奥で微かに目を細めた。
男は、その硬貨を素手で握りしめている。
かつて王城の大宴会場で、彼自身の指先を貫き、神経を焼き切ろうとした即効性の猛毒。
その凶悪な致死性は、長い時間と無数の血を吸い続けた結果、すでに物理的な効力を完全に失っているのだ。
毒という化学的な物質から、人間の欲望と未練を喰らう純粋な『呪い』への変質。
だからこそ、目の前の傭兵は硬貨を素手で触れても肉体が腐り落ちていない。
ラインハルトの視線が、男の右腕から、その腰元へと静かに滑り落ちる。
どす黒い染みで覆い尽くされた、分厚い革袋。
重力に逆らうようにして、かすかに紫色の瘴気を漂わせている。
袋の表面に辛うじて残る、金糸の刺繍の残骸。
それが何であるかを、ラインハルトの視覚が完全に捉えた。
平和という名の果実を手にした人々が、都合の良い英雄を不要な異物として排斥するために用意した、裏切りの対価。
祝賀会の夜、血の海と化した大理石の床の上で、暗褐色に染まっていったあの呪具。
網膜の裏側に、押し殺したような囁き声と、無数の剥き出しの殺意がフラッシュバックする。
『黄金の恩賞袋』
(……そうか)
ラインハルトの胸の奥で、冷たい歯車が噛み合う音がした。
この名もなき傭兵は、自らの意志で魔王の首を獲りに来たわけではない。
かつて自分が血を流して守った王国。
その上層部が持て余した忌まわしい呪物。
それが、底なしの強欲を持つこの男を『都合の良い宿主』として生かし、ここへ運ばせたのだ。
袋に沈殿した無数の殺意と未練が、本来の持ち主である自分のもとへ帰還するために。
ピキリ。
凍てついた玉座の間に、ひどく乾いた音が微かに響いた。
ラインハルトの傍らに突き立てられた大剣の柄。
そこに添えられていた鋼鉄の篭手が、わずかに軋みを上げたのだ。
彼は指先一つ動かさない完全な彫像であったはずだった。
しかし今、柄を覆う鋼の指先が、極めて微細な振動を始めている。
分厚い鉄の装甲に隠された筋肉の繊維が、限界を超えて引き絞られ、無意識のうちに反発の悲鳴を上げている。
それは恐怖ではない。
眼前の男に対する怒りでもない。
自らを裏切り、毒を盛り、あまつさえその呪いを別の者に押し付けて送り込んでくる人間の、底なしの業。
その果てしない醜悪さを目の当たりにし、完全に殺しきったはずの感情の残骸が、氷の底から泥のように泡立っているのだ。
鋼の篭手が、ギリギリと嫌な音を立てて大剣の柄を握り込む。
革の擦れる音が、張り詰めた空間の密度をさらに一段階引き上げた。
「……死に損ないの王様が。その首、俺が金に換えてやる」
ガルスの口から、血生臭い息と共に低い唸り声が吐き出される。
彼は右足で大理石の床を強く踏みしめ、右手の親指に全神経を集中させた。
紫色の魔力光が、硬貨の縁で限界まで圧縮され、爆ぜる寸前の火花を散らす。
兜の奥深く。
光の届かない暗闇の中で、ラインハルトはゆっくりと立ち上がる準備を始めていた。
重厚な金属の継ぎ目が、かすかにこすれ合う。
玉座を支配する絶対零度の静寂が、今まさに、純粋な暴力の衝突によって引き裂かれようとしていた。




