【第1章】 第6話
巨大な石の階段を登り切った先。
底知れない暗闇の中に、大理石で造られた広大な空間が静かに口を開けている。
天井近くのひび割れたステンドグラスから、青白い月光が斜めに差し込んでいた。
魔王城最深部、謁見の間。
光の帯の中を、微細な石の粉塵が雪のようにゆっくりと舞い落ちていく。
ガルスは荒い息を吐き出しながら、階段の最後の一段を踏み越えた。
泥と血にまみれた革靴が、霜の降りた大理石の床に重い音を立てる。
大回廊で彼を苛んでいた、肌を焼くような剣気の残滓はもうない。
代わりにこの空間を支配しているのは、分厚い氷盤の底に沈み込んだような、絶対的で重い静けさ。
呼吸をするたび、肺の奥を氷の刃物で撫でられるような鋭い冷気が忍び込んでくる。
むき出しの石壁に覆われた空間には、長年放置された古城特有のカビの匂いに混じり、全てを凍てつかせる冬の匂いが満ちていた。
ジャラ……ズズン。
腰元の『黄金の恩賞袋』が、不気味な重低音を響かせる。
その鈍い痛みが、ガルスの意識を数ヶ月前の薄暗い記憶へと引きずり込んでいく。
◇
それは、新たなる魔王が最果ての玉座に君臨して数ヶ月が経った頃。
名もなき一介の傭兵だったガルスが、空前絶後の額が懸けられた「魔王討伐」の賞金首に名乗りを上げ、王城の薄暗い裏口へと呼び出された日の記憶。
「……これが、魔王討伐の支度金だ。持っていくがいい」
豪華な衣服を着た王国の財務大臣は、顔を背け、香水の染み込んだハンカチで鼻を覆っていた。
その態度は、勇気ある志願者への敬意などではない。
まるで疫病に感染した汚物でも扱うかのように、その革袋をガルスの足元の石畳へと無造作に投げ捨てたのだ。
美しい金糸の刺繍が施された、分厚い革袋。
ガルスは忌々しげに舌打ちをしながら、その袋を拾い上げる。
革袋の表面に触れた瞬間、極寒の氷を直接掴んだような鋭い冷たさが指先を貫いた。
「……何だ、この重さは」
ずしり、というよりも、ズズン、という表現がふさわしい。
ただの硬貨の塊とは思えない、異様な密度と質量。
彼は太い指で結び目を乱暴に引き解き、中を覗き込んだ。
そこには、彼が今まで見たこともないほどの量の金貨がぎっしりと詰まっていた。
しかし、その黄金の輝きは、ひどく不吉な色に染まっている。
金貨の表面には、べったりと赤黒い血がこびりつき、乾いて黒ずんだ粘液のようなものが付着していた。
(こいつは……)
その粘液から放たれるのは、鉄の匂いでも腐臭でもない。
鼻の奥をツンと刺す、甘ったるい薬品の臭い。
暗殺者が好んで使う、即効性の猛毒の香りだった。
「ひひっ、どこの誰を殺すのに失敗した金かは知らねえが……随分と気前のいい押し付け方じゃねえか」
ガルスは、分厚い唇を歪めて薄ら笑いを浮かべる。
王侯貴族のドロドロとした権力闘争の残骸。
強烈な怨念と呪いが染み付いたこの袋は、宝物庫に置いておくには不吉すぎる「呪物」と化していたのだろう。
厄介な呪物の処分と、使い捨ての猟犬である自分への前金。
その二つを兼ねて、国の上層部がこの忌まわしい袋を押し付けてきたのだと、彼は傭兵としての本能で即座に理解した。
だが、彼にとってそんな裏事情などどうでもよかった。
呪われていようが血まみれだろうが、金は金だ。
彼は袋の口を縛り直し、自らの腰の太い革ベルトに何重もの鎖で固く縛り付けた。
その瞬間、袋の重みが彼の腰骨に深く食い込み、鈍い痛みを走らせる。
ジャラ……ズズン。
それは単なる物理的な重さではない。
袋に染み付いた猛毒と、暗殺者の殺意、そして誰かを陥れようとした人間の醜悪な欲望。
それらが混ざり合い、沈殿した「死者の未練」が、物理的な質量を持って彼にのしかかってきたのだ。
皮膚の下の血管が圧迫され、心臓の鼓動が不規則なリズムを刻み始める。
それでも、彼はその痛みを手放そうとはしなかった。
その日から、ガルスの思考は完全にこの袋の呪縛に囚われていった。
袋の中の金貨は、弾丸として使っても使ってもなぜか底を突くことがない。
代わりに、彼が敵を殺し、血を流すたびに、袋の重量は増し、硬貨に込められた呪詛は深くなっていった。
血を吸い、死を喰らう『黄金の恩賞袋』。
それが、彼をこの最果ての玉座へと導いた元凶。
世界で最も高価な賞金首、魔王の首という究極の対価を求めて。
◇
激しい明滅。
過去の幻影が泥のように崩れ落ち、視界が再び現在の冷たい空間を結ぶ。
ジャラ……ズズン。
腰元の袋が、現実へと彼を引き戻すように重く鳴った。
ガルスは荒い息を吐き出し、部屋の最奥へと視線を向ける。
並び立つ巨大な石柱の奥、光の届かない空間の底に、数段高くなった大理石の台座がある。
そこに据えられた、冷酷なほどに直線的な意匠の玉座。
一人の男が、巨大な彫像のように腰を下ろしている。
漆黒の重鎧。
光を一切反射しないその装甲は、まるで周囲の闇を凝縮して固めたかのよう。
兜の奥に隠された双眸は、微塵の揺らぎも見せない。
ガルスは無言のまま、泥で汚れた革靴を前方へ踏み出す。
彼と魔王を隔てる空間は、あとわずか数メートル。
冷たい風が、ステンドグラスの破片を揺らして微かな音を立てた。




