第45話:最後の留守番
庁舎の中は、第七管理区の管理塔よりもずっと人間くさかった。
古い紙の資料。
錆びた金属部品。
壁に貼られた手書きのメモ。
埃をかぶった棚。
ひびの入ったカップ。
布の掛かった椅子。
端末や制御装置も並んでいるが、その間に生活の痕跡が残っている。
誰かがここで暮らしていた。
いや、今も暮らしている。
それが分かる部屋だった。
老人はゆっくり歩き、中央の椅子へ腰を下ろす。
動作は遅い。
腕も、足も、今にも折れそうに細い。
けれど目だけは、妙にはっきりしていた。
老人「わしはエルネスト・ヴァルド。この第三管理区の管理者……と言えば聞こえはよいが、実際は留守番のようなものじゃ」
愛斗「喜早 愛斗だ」
瑠香「星乃 瑠香です」
ネリュア「ネリュア・ドリュサじゃ」
アズ「……アズリナ・ドリュアス」
エルネストは、それぞれの名を聞くたびに小さく頷いた。
名前を記録しているようにも、ただ噛みしめているようにも見えた。
エルネスト「久しぶりじゃな。人間の声を聞くのは」
瑠香が尋ねる。
瑠香「……他に、誰もいないんですか?」
エルネストは静かに頷いた。
エルネスト「この管理区には、もう誰もおらん。第七にも、第九にも、第十二にも、おそらくはおらん。わしも、もうすぐ向こう側じゃ」
その言い方には、諦めがあった。
けれど、絶望はなかった。
もう絶望する時期すら通り過ぎた人間の声だった。
ネリュアが、わずかに目を細める。
ネリュア「お主、生きてはおる。じゃが、命の火が細いの」
エルネスト「精霊か。なるほど、そういうものも来たか」
愛斗「驚かないんだな」
エルネストは笑った。
エルネスト「驚くには、少々長く生きすぎた。それに、わしが予測していたわけではないが、先祖は予測しておった」
愛斗「先祖?」
エルネストは古い端末に手を伸ばす。
指が震えている。
それでも、操作は迷いがなかった。
壁の一部に、薄い映像が浮かび上がる。
そこに映ったのは、手書きの古い記録だった。
文字はほとんど読めない。
けれど、絵は理解できた。
四人の影。
門。
二つの月。
そして、世界を渡るように描かれた細い線。
絵の脇には、数字があった。
『約250年後』
エルネスト「わしの先祖は言っておった。世界が死んでから、およそ二百五十年後。異なる世界より、四つの影が来る、と」
世界が死んでから。
その言葉が、部屋の空気を少しだけ重くした。
俺は聞き返す。
愛斗「世界が死んだって、どういう意味だ?」
エルネストはすぐには答えなかった。
代わりに、窓の外を見た。
壊れた街。
倒れたロボット。
光だけが残る建物。
それらを見てから、静かに言う。
エルネスト「見たままじゃよ。人が消え、土が痩せ、空が変わり、機械だけが残った。世界は急に終わったのではない。長く、ゆっくり、息をするのをやめた」
瑠香が肩を抱く。
エルネスト「詳しい話は、いずれできるかもしれん。だが今のお主らに必要なのは、歴史ではあるまい」
その通りだった。
俺たちに必要なのは、まず水と食料だ。
情けない話だが、世界の真相より先に胃袋の問題がある。
ネリュアの呼吸はまだ細い。
瑠香も、アズも疲れている。
俺自身も、喉の奥が乾いて、頭が少し重い。
愛斗「食べられるものはあるか?」
エルネストは頷いた。
ただし、その表情は明るくなかった。
エルネスト「わしの手元に、少しだけ残っておる」
彼は席を立ち、棚へ向かった。
ゆっくりと扉を開け、小さな箱を取り出す。
中には、古い缶詰のようなものが二つと、透明な袋に入った固形食が数本入っていた。
エルネスト「これが、今ここにある最後の食料じゃ」
最後。
その言葉に、誰もすぐには手を伸ばせなかった。
エルネストは苦笑する。
エルネスト「遠慮はいらん。わしの身体は、もうろくに食べ物を受けつけん。残しておいても、ただ古くなるだけじゃ」
愛斗「でも、あんたは」
エルネスト「若い者が食え。年寄りの意地に付き合って倒れられても困る」
言い方は軽い。
だが、そこには本気があった。
俺は小さく頭を下げる。
愛斗「……助かる」
エルネストは缶詰の開け方と、固形食の包装の外し方を教えてくれた。
中身は、味の薄い豆の煮込みのようなものと、栄養補助食品に近い固い棒だった。
うまいかまずいかで言えば、正直かなり微妙だ。
けれど、食べ物だった。
食べ物というだけで、今は十分すぎる。
瑠香は固形食を一口かじり、微妙な顔をした。
瑠香「……味が迷子」
愛斗「食べられるだけありがたいだろ」
瑠香「分かってる。分かってるけど、味が迷子」
アズは小さく缶詰を見つめていた。
それから、自分の分をそっとネリュアの方へ押す。
アズ「……ネリュア、これ、たべる」
ネリュアは少し驚いた。
ネリュア「アズは食べぬのか?」
アズ「……わたし、ちょっとでも、平気。ネリュア、つらそうだから」
ネリュアはしばらくアズを見つめた。
そして、細い指でアズの頭を撫でる。
ネリュア「ありがとう。じゃが、妾は妾の分で足りる。お主も食べよ」
アズ「……でも」
ネリュア「お主が倒れたら、妾も困る」
アズは少し迷ってから、こくりと頷いた。
そして、自分の分を小さく口へ運ぶ。
その様子を見て、エルネストが静かに笑った。
エルネスト「腹が減れば、生き物は正直になる。よいことじゃ」
よいこと。
この世界でその言葉を聞くと、妙に遠く感じた。
食料は少なかった。
俺たち四人が少し息をつける程度。
だが、ネリュアの顔色はわずかに戻った。
瑠香の目にも、少しだけ力が戻る。
アズも、小さく息をついた。
それだけで、今は意味があった。
けれど、これだけでは足りない。
この先を進むなら、もっと食料と水が必要だ。
エルネストもそれを分かっていたのだろう。
彼は端末を操作し、街の地図を映し出した。
エルネスト「食糧庫なら、まだ残っておる」
愛斗「食糧庫?」
エルネスト「第三管理区の南端。かつて非常備蓄庫として使われていた場所じゃ。保存食が少しばかり残っているはずじゃ」
瑠香「そこに行けば、食べ物があるんですね?」
エルネスト「ある。だが、簡単には近づけん」
地図の南端に、赤い円が表示される。
その周囲に、警告のような文字がいくつも浮かんだ。
『防衛機動体配置区域』
『侵入制限』
『自動迎撃稼働中』
嫌な文字ばかりだった。
愛斗「護衛がいるのか」
エルネスト「防衛用の機械じゃ。昔は人を守るためのものだった。今は、守るべき人がいないまま、食糧庫だけを守っておる」
瑠香「本末転倒すぎる……」
愛斗「止める方法は?」
エルネストは首を横に振った。
エルネスト「わしの権限では止められん。近づけば排除される。だから、わしはもう長いこと近づいておらん」
愛斗「戦うしかないってことか」
エルネスト「そういうことになる」
部屋の空気が少し重くなる。
食料はある。
けれど、それを取るには戦わなければならない。
この世界に来てから、ずっとそんなことばかりだ。
簡単に手に入るものはない。
それでも、行くしかない。
俺は地図を見つめる。
食糧庫。
防衛機動体。
第三管理区南端。
その近くに、もう一つ別の表示があった。
『旧工業廃棄物処分場』
俺がその文字を見た瞬間、エルネストの表情が変わった。
それまで穏やかだった目が、急に鋭くなる。
エルネスト「そこには近づくな」
愛斗「廃棄物処分場か?」
エルネスト「そうじゃ」
彼の声には、はっきりとした警告があった。
ただの危険区域を示す声ではない。
何かを知っている人間の声だった。
エルネスト「食糧庫へ行くなら、南の道を使え。処分場側へは回り込むな。たとえ近道に見えても、絶対に行くな」
瑠香「何があるんですか?」
エルネストは答えない。
窓の外を見る。
赤い空。
二つの月。
壊れた街。
そして、遠くの黒い影。
たぶん、それが廃棄物処分場の方角だった。
エルネスト「捨てたものがある」
愛斗「捨てたもの?」
エルネスト「捨てたはずなのに、捨てきれなかったものじゃ」
意味が分からない。
分からないが、嫌な響きだけは分かった。
エルネストは俺たちを順番に見た。
俺。
瑠香。
ネリュア。
アズ。
その視線は、最後に俺で止まる。
エルネスト「銀色の女を見ても、拾うな」
部屋の温度が一段下がった気がした。
銀色の女。
言葉だけなのに、妙にはっきりした像が頭に浮かぶ。
白い月明かり。
金属の肌。
廃棄された何か。
俺は思わず聞き返した。
愛斗「銀色の女って、何だ?」
エルネストは、ゆっくり首を横に振った。
エルネスト「知らぬ方がよい」
愛斗「知ってるんだな」
エルネスト「知っているから、知らぬ方がよいと言っておる」
その言い方はずるい。
止める気があるなら、もっと詳しく説明してほしい。
けれど同時に、詳しく聞けば引き返せなくなるような気もした。
瑠香が小さく呟く。
瑠香「ホラー映画だったら、絶対拾うやつだよね……」
愛斗「言うな。現実にフラグを立てるな」
瑠香「だって、言い方がもうフラグじゃん」
その通りだった。
銀色の女を見ても拾うな。
そんなことを言われたら、拾う未来しか見えない。
世界というやつは、時々こちらの嫌がる方へ律儀に伏線を回収してくる。
俺は深く息を吐く。
愛斗「分かった。食糧庫へ行く。処分場には近づかない」
エルネスト「それでよい」
愛斗「ただし、何かあったら話は別だ」
エルネストは少しだけ目を細めた。
エルネスト「若いな」
愛斗「よく言われる」
瑠香「そんなに言われてないでしょ」
愛斗「今言われた」
瑠香「一回で“よく”にしない」
エルネストが小さく笑った。
乾いた笑いだった。
けれど、そこにはわずかに人間らしい温度があった。
俺たちは少しだけ休んだ。
長居はできない。
エルネストの食料はもうない。
ネリュアも少し回復したとはいえ、まだ本調子には遠い。
食糧庫へ行くなら、早い方がいい。
俺は地図をもう一度頭に入れる。
南端の食糧庫。
防衛機動体。
旧工業廃棄物処分場。
銀色の女。
また、嫌な単語が増えた。
疑問を脇に置くたび、脇腹がどんどん痛くなる。
そろそろ疑問だけで全身打撲になりそうだ。
それでも、今は進むしかない。
俺たちは立ち上がる。
エルネストは椅子に座ったまま、俺たちを見送った。
その姿はあまりにも細く、今にも光の中へ溶けてしまいそうだった。
愛斗「エルネスト」
エルネスト「何じゃ」
愛斗「食料、取って戻る」
エルネストは少しだけ驚いたように俺を見る。
それから、静かに笑った。
エルネスト「そうか。では、少しだけ長生きして待つとしよう」
俺は頷いた。
瑠香も、アズも、ネリュアも外へ向かう。
庁舎の扉が開き、冷たい風が入り込む。
赤い空。
二つの月。
壊れた街。
人間のいない世界。
その中で、最後の人間が俺たちを見送っている。
俺たちは第三管理区の南端へ向かった。
食糧庫へ。
そして、近づくなと言われた廃棄物処分場から、できるだけ離れるように。
けれどその時の俺はまだ知らなかった。
世界というものは、近づくなと言われた場所ほど、こちらを呼んでいることを。




