第28話:家に帰るまでが脱出だ
街は、やっぱり異様だった。
夜の冷たさも、灯りの少なさも、人の気配の薄さも、全部が現代日本のそれじゃない。なのに足元はアスファルトで、曲がり角の位置も、道幅の感覚も、頭のどこかでは知っている。
見慣れた場所のはずなのに、見慣れていない。
俺たちは城壁の影へ滑り込んだまま、しばらく動けなかった。
息が乱れている。結界を抜けて、屋上から飛び降りて、ようやく地面へ降りた直後だ。狭い牢に押し込められていたせいで、身体も思った以上に鈍っている。
でも、それ以上にきつかったのは、目の前の景色だった。
ここは俺たちの街のはずだ。
それなのに、公園が広場へ変わっている。電柱の立っていた場所には石の標があり、見慣れたアパートの壁には王家の紋章が刻まれている。信号のあるべき交差点には、燭台みたいな光の柱が立っていた。
逃げ出せたはずなのに、まだ全然、元の世界へ戻れた感じがしない。
瑠香が先へ立った。
瑠香「……こっち。表通りを行くより、裏から抜けた方が早い」
声は小さいが、迷いはなかった。
俺たちはそれに従う。
横道を一つ、二つと抜け、住宅街の裏手へ回る。元なら見慣れたはずの細い道だ。けれど、そこにある家並みは少しずつ違う。塀が石壁へ変わり、門柱が鉄の格子へ変わり、窓の形までどこか古めかしい。
それでも、瑠香の足取りは止まらない。
何度か迷うみたいに視線が揺れても、すぐに向きを定める。頭の中で、元の街と今の街とを無理やり重ねているんだろう。
ネリュアが、静かにその背中を見つめていた。
ネリュア「この状態で道を探るのは、骨が折れよう」
たしかに、と思う。
目の前の景色は嘘なのに、頭の中の地図は本物だ。その二つを一緒に扱うなんて、やってみろと言われても、俺にはたぶん無理だ。
俺は瑠香のすぐ後ろへ寄り、そっと袖を引いた。
愛斗「……大丈夫か」
瑠香が振り向く。
顔色はよくない。逃げてきた疲れもあるし、さっき地下で見たものも重いはずだ。それでも、目だけはまだちゃんと前を向いていた。
瑠香「うん。平気」
短い返事だった。
けれど、その声に躊躇いはなかった。
自分の記憶を信じる、と決めている声だった。
俺はそのまま、瑠香の手を取った。
彼女は一瞬だけ目を見開いたが、振りほどかなかった。
そのまま歩き出す。
ネリュアは何も言わない。ただ、その様子を静かな瞳で見ていた。人の家が王城へ塗り替えられ、街ごと別の履歴へ飲み込まれていることに、彼女なりの怒りがあるのだろう。その怒りは外へは出さないが、黙っている分だけ深そうだった。
アズは俺たちの少し後ろをついてくる。
小さな身体へ小剣を抱え、怯えをそのまま引きずった歩き方なのに、足音だけは妙に静かだ。彼女は俺たちの背中を守るみたいに、何度も振り返っていた。
しばらく進むと、道はさらに細くなった。
住宅街の裏道だ。
古い家が密集していて、夜はただでさえ人通りが少ない。今のこの街では、それが余計に濃い闇になっていた。
その時、アズが足を止めた。
小さく耳を澄まし、それから俺へ手招きする。
俺は身を屈めて囁いた。
愛斗「何かいるか」
アズがこくりと頷く。
アズ「……うしろ」
俺は振り向いた。
目に見える人影はない。
でも、気配はあった。見られている、というより、探られている感じに近い。足音も呼吸も拾えないのに、何かが俺たちの通った線をなぞってきている。
追手かもしれない。
あるいは、それに似た別の何かか。
どちらにしても、見つかるわけにはいかなかった。
俺は角を一つ曲がったところで、瑠香へ声をかける。
愛斗「隠せるもの、あるか」
瑠香は小さな袋を取り出した。
中から、深い色の外套と布が出てくる。いつの間に持ち出していたのか知らないが、さすがに準備がいい。
瑠香は青いドレスの上からその外套を羽織り、頭へフードを被った。それだけで印象が大きく変わる。王女の青が消え、夜の色へ溶けた。
俺はネリュアを見る。
ネリュアは短く息を吐くと、指先へ水を集めた。髪を軽く濡らし、肩へ掛かる布の色味を暗く変える。術というほど大げさじゃないが、それだけでずいぶん目立たなくなった。
一瞬、濡れた髪が月明かりを拾って、妙に綺麗に見えた。
……今はそんな場合じゃない。
アズはもともと小柄で、外套の影へ隠れればそれだけで目立たない。俺は一番大きな布を肩へ掛け、前へ出た。
こうして、俺たちは少しだけ別の顔になった。
歩きながら、俺はちらりと全員の服を見る。
瑠香のドレスは青。ネリュアの布も元は青緑に近い。地下で見た灯りも、牢で見た布も、城の中の装飾も、やたらと青や紫が多かった。
この世界には、色の偏りがある。
それが単なる王国の趣味じゃない気がして、背中が冷えた。
やがて、大きな建物が見えてきた。
元は学校だった場所だ。
今は神殿か、学舎を兼ねた礼拝所みたいな姿へ変わっている。尖塔が伸び、入口には見たことのない紋章が掲げられている。
でも、その裏手の細道だけは残っていた。
俺たちはそこへ入り込む。
中庭は草が伸び放題だった。石畳のあいだから雑草が顔を出し、校舎だったはずの建物の一部が、中途半端に古い姿を残している。
ようやく、少しだけ息がつけた。
アズはすぐ壁際へ寄り、膝を抱えるようにしゃがみ込んだ。狭い場所の方が落ち着くのかもしれない。ネリュアは建物の輪郭を見上げ、眉を寄せる。
ネリュア「……ここも、上から別の記憶で覆われておるな」
瑠香が小さく頷く。
瑠香「うん。この場所の名前も、もう違う」
その声には、痛みが混じっていた。
俺は瑠香の隣へ腰を下ろす。
愛斗「……無理すんな」
瑠香がこっちを見る。
その目はまっすぐだった。
瑠香「無理はしてる。でも、無視はしたくない」
言い切ってから、彼女は少しだけ笑った。
その笑顔は嘘じゃない。
でも、失われたものの重さが消えたわけでもない。その両方が一緒にある顔だった。
俺は何も言わず、そっと彼女の手を握る。
瑠香は、そのまま受け入れた。
しばらく、誰も喋らなかった。
夜の冷たさと、手の中の体温だけがはっきりしている。
やがて、ネリュアが静かな声で言った。
ネリュア「……次はどうする」
その問いに、俺たちは自然と顔を上げた。
まずは整理だ。
俺は地下で見つけた地図を取り出し、月明かりの下で広げた。
紙の上には、王都の輪郭と、城の地下へ集まる線が描かれている。しかも、その線は城だけで終わっていなかった。街全体を包むような輪があり、その輪の節目みたいな場所で、いくつもの細線が交わっている。
俺は一つの交点を指さした。
愛斗「ここ、何だと思う」
ネリュアが身を寄せる。
ネリュア「……転移点、あるいは継ぎ目じゃな」
瑠香も地図を覗き込んだ。
瑠香「城だけじゃないんだ……」
愛斗「ああ。街全体が範囲に入ってる」
つまり、地下で見た核は城の下にあるが、作用しているのはそこだけじゃない。王都全体へ力を流し込み、街そのものを書き換えている。
じゃあ、なぜ。
何のために。
目的が見えない。
ただ瑠香を“姫”にするためだけじゃ、あまりにも規模が大きすぎる。
考えをまとめきれないまま、空から鐘の音が降ってきた。
低く、長く、街の奥まで響く音。
俺は顔を上げる。
愛斗「……夜が明ける」
夜明け前に、隠れ場所が要る。
ここで座り込んでいるわけにはいかない。
俺は立ち上がり、建物の中へ入った。崩れている箇所も多いが、まだ使えそうな部屋があるかもしれない。
慎重に進む。
廊下の床は半分ほど石へ変わっているが、壁の向こうにはまだ元の校舎の匂いが残っていた。黒板だったものの痕跡。ロッカーの名残。礼拝所へ作り替えられているのに、完全には消えていない。
その奥で、一つだけ使えそうな部屋を見つけた。
扉は壊れかけているが、閉めることはできる。
中は薄暗く、埃っぽい。けれど、風雨はしのげるし、外からすぐには見つからなさそうだった。
俺たちはそこへ入り、扉を閉じた。
ようやく、少しだけ安心できた。
※
その頃、城では異変が表へ噴き出していた。
地下牢の監視が、最初に異常へ気づく。
囚人の不在。
格子の開錠。
地下区画での術式の揺らぎ。
報告は一つでは終わらなかった。
衛兵「王女、不在!」
その言葉が城内へ走った瞬間、空気が一変する。
警報が鳴る。
足音が増える。
兵たちが持ち場を離れ、廊下と階段を埋め始める。
その中心で、レオヴァルトは夜空を見上げていた。
傍らへ、黒いローブの神官が現れる。フードの奥は見えない。声だけが、静かに落ちた。
神官「予測の範囲です」
レオヴァルトは短く頷く。
レオヴァルト「だとしても、取り逃がした事実は変わらん」
神官が、かすかに笑った気配がした。
神官「ならば、探せばよろしい」
その言葉に、レオヴァルトは何も返さない。
ただ、腰の剣へ手を置く。
レオヴァルト「……まだ街の中だ」
低い声音だった。
感情を乱さず、それでも確かな圧だけを残す声。
レオヴァルト「どこまでも追う」
王都の夜は、まだ終わっていなかった。




