第29話:短い休息、長い違和感
目を覚ました時、部屋の中には薄い光が揺れていた。
外の陽射しじゃない。
ネリュアが指先へ灯した、やわらかな光だ。狭い部屋の空気を壊さない程度の明るさで、壁や床へ淡く滲んでいる。
俺はゆっくり身体を起こした。
眠ったつもりはなかった。少しだけ目を閉じるつもりだったのに、意識がそのまま落ちていたらしい。身体のあちこちが重い。牢に押し込められていた疲れと、逃げてきた緊張が、まとめて今きたような感覚だった。
ネリュアがこちらを見て、小さく息をつく。
ネリュア「……戻ってきたか」
愛斗「ああ。ちょっと、落ちてた」
ネリュアはそれ以上何も言わなかった。
ただ、傍らへ置いてあった布袋を差し出してくる。中には硬いパンと、瓶詰めの果実が入っていた。
ネリュア「先に食べておけ。体力が続かぬ」
素直に頷く。
パンは固かったが、腹へ入るとそれだけで少し楽になった。果実は甘くて、水気が喉へ落ちるたび、乾ききっていた身体がようやく人心地つく。
食べながら、自分の手首を見た。
拘束されていた痕がまだ薄く赤い。擦りむけた部分もある。だが、大きな怪我はなかった。
部屋の隅では、アズがまだ眠っていた。
壁に寄りかかるようにして膝を抱え、小剣を足元へ寄せている。起きている時はあれほど警戒しているのに、眠っている姿だけを見ると、本当に年相応の小さな女の子に見えた。
その向かいでは、瑠香が外套を被ったまま浅く眠っている。
顔色は少し白い。けれど傷は見当たらない。逃げる時も、地下でも、きっとずっと気を張っていたのだろう。こんなふうに無防備に目を閉じているのが、逆に珍しく見えた。
俺が服の汚れを払い、髪を軽くかき上げると、ネリュアがくすりと笑った。
ネリュア「外見を気にする余裕があるのは、よいことじゃ」
愛斗「気にしてるってほどじゃない」
そう答えながらも、自分でも少し笑ってしまう。
確かに、その程度の余裕は戻ってきたらしい。それだけで、まだやれると思えた。
しばらくして、アズが目を覚ました。
ぱちりと瞬きをして、最初に俺を見る。それからネリュア、瑠香と順に視線を動かし、ようやく小さく息をついた。
アズ「……おはよ」
愛斗「おはよう」
俺が返すと、アズはほんの少しだけ口元を緩めた。
その気配に引かれたみたいに、今度は瑠香が目を開く。
瑠香「……ん」
一瞬だけ、ここがどこか分かっていない顔をした。けれど次の瞬間には現実へ戻ってくる。
瑠香「……起きてたんだ」
愛斗「おはよう」
瑠香はこくりと頷き、外套を肩からずらした。王女用の上着を緩めて、動きやすいように整える。その仕草はぎこちないのに、どこか慣れてもいて、胸の奥が少しざらついた。
似合ってしまっている、というのは、きっとこういうことなんだろう。
でも、瑠香自身はそれを受け入れているわけじゃない。
瑠香「……ごめん。寝てた」
愛斗「平気だ。今は寝といた方がいい」
瑠香は短く息を吐いた。
そのあと、ネリュアが俺の手首を取る。
ネリュア「傷、見せるのじゃ」
抵抗する理由もない。俺は手を差し出した。
ネリュアの指先へ淡い光が集まる。ひんやりした感触が肌を撫で、痛みと熱が少しずつ引いていく。荒れていた皮膚も、光の下でゆっくり落ち着いていった。
ネリュア「……無理をさせた」
愛斗「俺が勝手に突っ込んだだけだろ」
ネリュアは首を振る。
ネリュア「それでもじゃ」
その声は小さくて、少しだけ苦かった。
俺は光の残る彼女の手を見て、それから顔を上げる。
愛斗「お前がいてくれたから、ここまで来れた」
ネリュアが目を細めた。
何か言いかけて、結局言葉にはしない。その代わり、俺の手を軽く握り返してきた。
ほんの一瞬だけ。
それだけで十分だった。
アズが、そのやり取りをじっと見ていた。
アズ「……わたしも」
愛斗「ん?」
アズは自分の足首を見せた。細い肌に、薄く拘束の跡が残っている。見た目ほど酷くはないが、放っておくのも嫌だった。
ネリュアがすぐに手を伸ばす。
ネリュア「これも、消しておこう」
アズはこくんと頷き、少しだけ身を寄せた。
光が足首へ落ちる。
アズが小さく息を呑む。
アズ「……あたたかい」
ネリュア「痛くはないか」
アズ「……うん」
跡が薄れていくのを見ながら、アズは不思議そうに自分の足を見つめていた。終わると、今度は俺の方を見る。
アズ「……ありがと」
愛斗「礼はネリュアにだろ」
アズが少し考えて、それからネリュアへ向き直る。
アズ「……ありがと」
ネリュアはやわらかく笑った。
その空気が少しだけ和んだところで、瑠香がぽつりと口を開く。
瑠香「……やっぱり、気持ち悪かった」
誰もすぐには返さない。
瑠香は自分の膝の上へ視線を落としたまま続けた。
瑠香「姫って呼ばれるの。似合うとか似合わないとかじゃなくて、私じゃない誰かにされる感じがして」
部屋の空気が、少しだけ冷える。
それは俺たち全員が、どこかで同じ気分を味わってきたからだと思う。
望んだ姿になることが幸せだとは限らない。
望まない姿へ変えられることは、もっと違う怖さがある。
自分の名前も、居場所も、役割も、そのまま他人のものみたいに塗り替えられていく感覚。
考えるだけで、胸の奥がざわつく。
しばらく誰も喋らなかった。
やがて、ネリュアが地図を取り出し、床へ広げる。
ネリュア「……一つ、気になることがある」
愛斗「何だ」
ネリュア「この街はまだ、完全には名を変えておらぬ」
瑠香が顔を上げる。
俺も地図へ目を落とした。地下で見た記録や地図の表記を思い返す。王都という呼称はある。けれど、街全体の名そのものは、どこか曖昧なまま残っていた気がした。
ネリュアが指で線をなぞる。
ネリュア「名は、世界がものを縛る楔にもなる。街の名が完全に上書きされておらぬということは、固定が終わっておらぬのじゃ」
愛斗「つまり」
ネリュア「まだ、戻せる余地がある」
その言葉に、胸の奥で何かがわずかに熱を持つ。
俺は瑠香を見る。
愛斗「じゃあ、瑠香を“姫”として認めさせること自体が、この世界を固定する一歩ってことか」
瑠香は小さく息を吸った。
瑠香「……たぶん、そう」
声は静かだった。
でも、そこには怯えだけじゃなく、確かな反発も混じっていた。
瑠香は外套を着直し、ゆっくり立ち上がる。
その姿は王女みたいで、でもそれ以上に、星乃 瑠香そのものだった。
アズが地図へ顔を寄せ、小さな指である一点を押さえる。
アズ「……にげるの、おそいとだめ」
愛斗「分かってる」
アズ「ここ……もう、せまい」
それは部屋の広さのことじゃない。
俺たちの猶予が狭まっている、という意味だ。
俺は頷いた。
愛斗「休めるのは、ここまでだな」
準備を始める空気になった、その時だった。
ふと、聞いておきたいことが浮かぶ。
愛斗「……なんで、助けに来てくれたんだ」
自分でも、少し遅い質問だと思った。
でも、今だからこそ聞きたかった。
瑠香は一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに笑う。
瑠香「……愛斗たちがいない世界なんて、嫌だったから」
それだけだった。
飾りも、言い訳も、変な照れもない。
真っすぐすぎて、逆に何も返せなくなるくらいの答えだった。
俺はその手を取る。
愛斗「ありがとう」
瑠香は、今度ははっきり握り返してきた。
それだけで、さっきまで冷えていた胸の奥が少しあたたかくなる。
でも、このまま止まってはいられない。
俺たちは地図を畳み、部屋を出る支度を始めた。
外はまだ明るい。
差し込む光は昼を少し過ぎた色で、壊れた窓の縁へ白く積もっている。王都の街並みは変わっても、時間だけは律儀に流れているらしかった。
夕方までに、次の隠れ場所か、次の手掛かりへ届きたい。
地上は追手が動いているはずだ。なら、建物の影か、地下道か、あるいは元の街の名残を辿るしかない。
俺がそう考えていた時、アズが不意にしゃがみ込み、床へ耳を当てた。
アズ「……くる」
その声は小さいのに、はっきりしていた。
俺も息を止める。
遠くで、何か重いものが動く音がする。
人の足音じゃない。
もっと鈍くて、もっと重い。地面の下から伝わるような響きだ。
ネリュアが低く呟いた。
ネリュア「……機巧か」
愛斗「兵器か?」
ネリュアは答えない。
ただ眉を寄せたまま、部屋の外へ視線を向けている。
その時、俺の頭の中で一つの嫌な考えが繋がった。
この世界は、俺たちの世界を書き換えた。
なら、元の世界にあった“もの”まで、向こう側の理で作り変えられていてもおかしくない。
例えば、この学校の裏にあった遊具みたいなものが――
次の瞬間、廊下の角から巨大な影が現れた。
鉄の巨人だった。
車輪のような脚。金属の胴体。内側から響く駆動音。頭部らしき場所には、赤い光が一つだけ灯っている。
だが、その骨組みの形に、見覚えがあった。
ジャングルジム。
滑り台の支柱。
校庭の隅にあった遊具の名残が、そのまま歪んだ兵器の輪郭へ組み込まれている。
俺は息を呑んだ。
あれは、俺たちの知っている学校の残骸だ。




