第14話:偽りの姫の仮面
丘を下り、城へ向かう道は死んでいた。
昼間なら村人の往来で賑わっていたはずの石畳は、今は俺たちの足音だけを冷たく返してくる。民家の窓から漏れる灯りもない。犬の遠吠えすら聞こえない。街そのものが息を潜め、夜の底で身を縮めているみたいだった。
俺たちは、その道の真ん中をまっすぐ歩く。
隣で、瑠香が俺の袖を強く握っていた。指先は白い。泣いたあとの赤みは引いているのに、不安は少しも薄れていないらしい。この異常な静けさが、彼女の持つ当たり前の感覚を容赦なく削っているのだと分かった。
その先に、城がある。
二本の尖塔が月を突き刺すみたいに立っていた。城壁は黒く、夜闇と溶け合って輪郭さえ曖昧になっている。まるで、世界の終わりに建てられた巨大な墓碑だった。
先頭を歩くキュベリエが、ふいに足を止めた。
視線の先には、城の正門がある。厚く重い扉は閉ざされ、その前に衛兵の姿はない。なのに、そこには何かがいた。
空気が、歪んでいる。
キュベリエ「罠じゃ。城そのものが、罠になっておる」
その言葉と同時に、門前の空気が不自然に縮んだ。
影が集まる。固まる。人の形を真似た闇が、五つ、六つと無言で立ち上がっていく。朱鱗戍だ。だが地下で見たものより数が多い。しかも、城門の前という場所のせいか、一体一体が濃い。
愛斗「……来る!」
俺が踏み出しかけた、その横を風が抜けた。
青髪の少女だった。
小さな身体が音もなく滑り込み、震えたままの腕で小剣を振るう。斬撃は正確だった。先頭の朱鱗戍の胴が真ん中から裂け、黒煙を噴き上げる。けれど、それで終わらない。裂けた断面から、さらに二つの影が生まれかけていた。
愛斗「邪魔だ――【光断一閃】!」
右手に走った光を、そのまま前方へ叩きつける。
白い斬光が、再生しかけた影ごと薙ぎ払った。黒煙が弾ける。だがその隙に、左右から別の朱鱗戍が迫る。
その正面に、瑠香が踏み出した。
瑠香「見えてる……!」
彼女はキュベリエから預かった魔道具を構える。拳銃に似た形だが、銃よりも滑らかで、持ち手の中心に琥珀色の石が埋め込まれていた。
引き金が引かれる。
砲口から拳大の光の塊が放たれた。それは朱鱗戍の鼻先で瞬時に膨らみ、半透明の障壁になって炸裂する。鈍い衝突音。影の群れが正面から押し返され、体勢を崩した。
瑠香「で、できた……!」
キュベリエ「二発目までが有効じゃ。無駄撃ちはするな」
その言葉と同時に、障壁の光が急速に薄れていく。押し返された影が、再び瑠香へ飛びかかる。
愛斗「っ、間に合え――【暁光翔歩】!」
空間の表面を滑るようにして、俺は瑠香の前へ回り込む。振り向きざまに光を走らせ、伸びてきた闇の腕を断つ。その反対側では、青髪の少女が次の朱鱗戍の核を一刀で断ち割っていた。
ネリュア「この影、単体ではない……! 群れで一つの器を成しておる!」
彼女の声が飛ぶ。
なら、長引かせるほど不利だ。
俺は光を叩き込み、青髪の少女が核を斬り、瑠香が魔道具で道を塞ぐ。ネリュアの補助光がその動きを繋ぎ、キュベリエは一歩も動かないまま全体を見ていた。まるで、誰がどこまでやれるかを見極める試験官みたいだった。
最後の一体が黒煙となって崩れた、その直後だった。
城門が、内側から軋みを立てて開いた。
そこに立っていたのは、アメリア姫だった。
いや、アメリア姫の姿をしたものだった。
銀に近い金髪。優雅なドレス。白い肌。柔らかな微笑み。そのどれもが、地下で救い出した本物の姫と似ている。けれど、似ているだけだった。
アメリア(偽)「……ようこそ、勇者様。そして、そのお仲間の皆様」
その声は、確かにアメリア姫と同じ響きを持っていた。だが、その底が空洞だった。完璧な音階で鳴らされた音なのに、そこに呼吸も揺れもない。綺麗な箱の中で声だけが鳴っているみたいだった。
微笑みが、ゆっくり歪む。
唇の端が吊り上がり、冷たい美しさが裂けていく。目の奥に、人の光じゃないものが覗いた。
アメリア(偽)「よくも、わたくしの愉しみを邪魔してくださいましたねぇ……」
その声はもう姫のものじゃなかった。墓石を爪で引っかくみたいに乾いていて、しかも甘く腐っていた。
ネリュア「……高位の魔族じゃ」
キュベリエが、淡々と名を告げる。
キュベリエ「墜冠卿、グレスコー・スカルヴェル。元四天王の一角じゃ」
その名と同時に、偽姫の身体が光の粒になって崩れた。
仮面が剥がれる。
現れたのは、漆黒の甲冑をまとった巨体だった。肩には砕けた王冠を模した装飾。胸の中央には心臓の代わりに、黒く濁った結晶が脈動している。その結晶だけが、不気味に生きていた。
愛斗「元四天王……?」
キュベリエ「かつては魔王軍を束ねた災厄の一つ。されど野心に呑まれ、魔王を裏切って追放された堕ちた貴族じゃ。城を乗っ取り、民の信仰と王家の権威を喰らい、己を王に擬するのは奴らしい」
グレスコーの結晶が、どくんと脈打った。
同時に、全身から濃い黒霧が噴き出す。それは地を這い、城門を覆い、広場全体を飲み込んでいく。空気の重さが変わった。音の伝わり方が変わる。俺たちは、一気に沼の底へ引きずり込まれたみたいな感覚に襲われた。
比喩じゃない。
足元の石畳が、墨を吸った泥みたいに黒く沈み始める。踏ん張っても踏ん張っても、足首が少しずつ沈んでいく。重力そのものが、この場の主になったみたいだった。
グレスコー「抵抗は無意味よ、小僧」
その声自体に重みがあった。
鼓膜が押し潰される。肺の空気が圧される。考える速度まで鈍っていく。
グレスコー「この城は、わたくしの体。この夜は、わたくしの衣。貴様らは今、わたくしの胃袋の中におるに等しい」
言葉とともに、黒霧が腕となり、鎖となり、鉤爪となって襲いかかってきた。
俺は歯を食いしばる。動ける。だが、遅い。このままじゃ押し潰される。
そのとき、ネリュアの詠唱が響いた。
ネリュア「妾と共にあれ、悠久の時の流れ。万象は巡り、刹那にこそ理は宿る――【万物流転】!」
その光が俺へ触れた瞬間、ほんの一瞬だけ世界の重さから外れた。
沈んでいく沼の底から、意識だけが浮き上がる。身体はまだ重い。だが、どこへ動けばいいかだけは、異様なほど澄んで見えた。
愛斗「【暁光翔歩】!」
沈みかけた足を引き剥がし、俺は地面すれすれを滑るようにグレスコーへ飛び込む。右手へ光を集め、そのまま胸の結晶へ叩き込んだ。
愛斗「【光断一閃】!」
白い刃が鎧を打つ。
だが、火花が散っただけだった。傷はつかない。むしろ光そのものが甲冑の表面で吸われ、結晶へ呑まれていく。
グレスコー「片腹痛い。その光、わたくしの糧にすぎぬわ」
愛斗「くそ……!」
俺の攻撃が、餌になる。
その最悪の事実が喉に張りついた瞬間、視界の端で瑠香が動いた。
瑠香「こんなの、喰わせるもんか!」
彼女は再び魔道具を構えた。だが、今度の狙いはグレスコー本体じゃない。その周囲を渦巻く黒霧だった。
瑠香「【光衝弾】!」
放たれた光弾が、黒霧の渦へ突き刺さる。
音はなかった。だが、光と闇が正面から噛み合った衝撃が広場を揺らした。黒霧が弾け、支配していた重力が一瞬だけ揺らぐ。
その刹那だった。
愛斗「……見えた!」
ネリュアの補助。瑠香の一撃。その二つが生んだわずかな自由の中で、グレスコーの攻撃の隙間だけが細い線になって浮かび上がる。
俺はそこへ身体を滑らせた。
愛斗「【暁光翔歩】……!」
右から来る闇の鞭をかわし、沈み込む石畳を蹴り、影の懐へ入る。だが、その横を翡翠色の閃きが追い越した。
青髪の少女だ。
震えている。今にも折れそうなくらい震えている。なのに、剣だけがぶれない。彼女はグレスコーの防御の“合間”へ刃を通した。まるで、この空間の理そのものを知っている者の剣だった。
グレスコー「虫けらが……!」
怒声とともに、黒霧の圧が一気に増す。
また沈む。だが今度は、俺の意識が先にそれを外れていた。ネリュアの【万物流転】が、俺の身体から一瞬だけ重力の意味を剥がしている。
俺は右手を前へ突き出す。
今度は、ただ光を飛ばすんじゃない。
この空間そのものを押し広げる。俺とグレスコーの間にある“距離”を、線に変える。遠いも近いも関係ない。届くと決めた場所は、全部“目の前”だ。
グレスコー「まだ足掻くか、小僧」
黒霧がさらに濃くなる。ネリュアの額には汗が浮かび、青髪の少女の震えはさっきより大きい。勝負は、外から見ればほとんど決まっているように見えたはずだ。
その瞬間。
愛斗「――届け、【光断一閃】!」
俺の右手から、光は出なかった。
光は、グレスコーの胸の中央に直接生まれた。
まるで最初からそこに白い点があったみたいに。次の瞬間、その点が線になり、漆黒の鎧を内側から貫き、黒い結晶を穿つ。
グレスコーの目が見開かれた。
グレスコー「……なに……?」
自分の胸へ空いた穴を、信じられないものを見るみたいに見下ろしている。黒い結晶の内側から、白い光がじくじくと滲み出ていた。
俺はゆっくり右手を下ろした。
さっき分かったことがある。
意識がこの場の重力からわずかに外れたとき、“距離”という概念そのものが薄くなる。なら、斬るべき点さえ定めればいい。間に何があっても関係ない。空間そのものへ線を引けば、届かない場所なんてない。
グレスコー「……不思議よ……わたくしの城で……わたくしの重力で……」
黒い光が胸から溢れ出し、鎧の継ぎ目を内側から焼いていく。甲冑を支えていた闇が急速に痩せ細り、巨体そのものが崩れ始めた。
グレスコー「……これで、終わりでは……ない……」
その声はもう傲慢ではなかった。ただ古い井戸の底から響くように虚しいだけだった。
やがて、漆黒の甲冑は音もなく崩れ落ち、黒い煙となって夜の中へ散った。
重力が消える。
黒霧も、圧迫感も、あっけないほど消え去っていく。残ったのは、ただ夜の冷たい空気だった。
俺は深く息を吸った。
肺へ入ってきたのが普通の空気だと分かった瞬間、急に膝が笑いそうになる。勝った実感よりも、疲労の方が先にやってきた。
視界の端で、ネリュアがふらりとよろめく。
俺が手を伸ばすより先に、アメリア姫が彼女を支えた。
アメリア「大丈夫ですか、ネリュア様」
その声には感謝が滲んでいた。
瑠香は俺のそばへ駆け寄り、何も言わずに俺の腕を掴む。その指先はまだ震えている。恐怖じゃない。この世界で今、自分が何に巻き込まれているか、その実感がようやく追いついてきたのだろう。
城門前の空気は静かだった。
だが、静かになっただけで、完全に浄化されたわけじゃない。この城に積み上がった歪みは、グレスコー一体が消えたくらいで消え尽くすものではなかった。
俺は息を吐き、ゆっくり膝を折る。
その肩へ、瑠香の手がそっと乗った。温もりを分けるみたいに。
アメリア姫は、自分の足で立てることを確かめると、城の中へ視線を向けた。そこには故郷を取り戻した安堵と、まだ残るものへの警戒が同時にあった。
そして彼女は、俺たちへ向き直り、深く一礼した。




