第13話:再会は、感情が先に来る
瑠香「――愛斗!」
その声は、この地下広間にはあまりにも似つかわしくなかった。
腐臭と湿気と死の気配ばかりが満ちていた空間に、いきなり陽の光が差し込んだみたいだった。俺は弾かれたように振り向いた。息が詰まり、鼓動が耳の奥へ張り付く。
信じられなかった。
こんな場所で。こんな世界で。あの声が、俺の名を呼ぶなんて。
瑠香が駆け込んでくる。
見慣れた顔。見慣れた走り方。息を切らしながら、それでもまっすぐこっちへ向かってくる。その姿だけが、この地下広間のどんなものより現実だった。乾いた血痕も、黒ずんだ泥も、壊れた長椅子も、その一瞬だけ背景に退いた。
瑠香「馬鹿! 大馬鹿! なんで勝手にいなくなるの! なんで、私を置いていくのよ……!」
言い終える前に、瑠香は俺の胸を何度も殴った。
拳は軽いのに、痛かった。痛みとしてじゃない。そこに込められた不安と怒りと安堵が、そのまま胸骨の裏へ響いてくるみたいだった。
俺は何も言えなかった。
ただ、震えるその腕を咄嗟に掴む。細い。熱い。本当にここにいるのか確かめるみたいに、指先へ力が入る。その瞬間、瑠香の膝から力が抜けた。彼女はそのまま、俺の身体へ縋りつくように体重を預けてくる。
服越しに伝わる涙の熱が、やけに生々しかった。
愛斗「瑠香……? なんで、お前……」
掠れた声しか出なかった。自分でも情けないくらいだった。
愛斗「無事なのか……?」
その言葉が最後の堰になったのかもしれない。
瑠香の肩が大きく震え、嗚咽が零れた。彼女は俺の服をきつく掴み、顔を押しつけたまま何も言えなくなる。ただ、離れたくないという意思だけが、その指先からはっきり伝わってきた。
そこでようやく、俺は気づく。
今、瑠香に必要だったのは俺の問いじゃない。ただ、生きてた、ここにいる、もう大丈夫だって、その一言だけだったのだ。
俺は何も言えないまま、ただその背中へ手を回した。
背後で、ネリュアが小さく息を呑んだ気配がした。
その気配に混じって、別の視線も感じる。青髪の少女だ。彼女はまだ震えの残る体のまま立ち尽くし、俺たちではなく、その向こうに立つネリュアをじっと見ていた。翡翠色の瞳が、さっきまでとは違う色を帯びている。
そして、そのさらに向こう。
ゆっくりと、もう一人の人影が現れた。
深緑の髪。琥珀色の瞳。ネリュアによく似ているのに、その気配はまるで違う。こちらは静かな森ではなく、長く抜かれずにいた刃そのものみたいな女だった。
キュベリエ「よう、ネリュア。生きておったか」
ネリュアの肩がぴくりと揺れる。
ネリュア「姉君……!」
その呼び方に、相手が誰なのかすぐに分かった。
キュベリエはゆっくりと歩み寄ってきた。長く武器を握ってきた者だけが持つ足取りで。だが、その目に浮かんだものは鋭さだけじゃなかった。安堵が、ほんの一瞬だけそこをよぎった。
キュベリエ「無茶をしたようじゃな」
ネリュア「そなたほどではないわ」
短いやり取りだった。感動的な再会というより、長いあいだ積み上げられてきたものの上で、ようやく交わされた最小限の言葉だった。
その静かなやり取りを、アメリア姫が慎重に破る。
アメリア「……皆様、重ねて礼を申し上げます。わたくしはアメリア・ドリュアス。この地を治める王の第一姫です」
声はまだ弱っていたが、芯はあった。
アメリア「城にいるのは、わたくしの姿を写した影法師。ですが、あれはただ似せているだけの偽物ではありません。わたくしの心と力の欠片が繋がっております」
瑠香が、俺の服を掴んだまま顔を上げた。目元はまだ赤いが、もうただ泣いているだけではない。状況を飲み込もうとしている顔だった。
愛斗「……だろうな」
俺がそう呟くと、アメリア姫がこちらを見た。
愛斗「本物の姫がここにいる。それなのに、城では偽物が姫として振る舞ってる。だったら、単に顔を真似てるだけじゃ説明がつかない」
地下広間の空気が少し変わる。
感情の奔流だけで埋まっていた場に、ようやく理屈が入ってきた。
愛斗「もし、本物と影が繋がってるなら……本物がここで苦しんでいる限り、城の偽物は姫の記憶も力も使えるってことだ。つまり、本物をそのまま連れて行って『はい解決』にはならない」
アメリアが小さく息を呑む。
アメリア「では……」
愛斗「まず、城の偽物を剥がす必要がある」
瑠香が、まだ俺の腕を掴んだまま聞いてくる。
瑠香「待って。それって、なんでそんなことする必要があるの? あいつ、わざわざ姫のふりなんかして」
その問いは素直で、だからこそ核心を突いていた。
俺は頷く。
愛斗「たぶん、この国そのものを喰うためだ」
言葉にすると、自分の中でもはっきり形になる。
愛斗「王の血筋ってのは、この国じゃただ偉いってだけじゃないんだろ。権威も、儀式も、民の信仰も、全部そこに集まる。モルケシアはそれを欲しがってる。アメリア姫の姿を奪って、城の中心に座り続ければ、少しずつ国そのものへ根を張れる」
ネリュアが静かに頷いた。
ネリュア「高位の魔族が人の器を喰らい、その立場ごと奪う術。珍しくはないが、ここまで深く入り込んでおるのは厄介じゃ」
俺はさらに続けた。
愛斗「城にいたあいつ、何もかもが“正しすぎた”んだよ。姫として完璧すぎた。でも、本物の人間なら、あんなふうにはならない。村人の噂にあった“明るく人懐こい姫”とも違ったし、何より城そのものに祝宴の熱が残ってなかった」
アメリア姫が目を伏せる。
愛斗「人の振る舞いを真似ることはできても、人が生きたあとの空気までは真似できない」
そこで、瑠香がもう一歩踏み込んできた。
瑠香「……じゃあ、私にできることは?」
その声には、もう迷いがなかった。
泣いていたはずなのに、もう前を見ている。やっぱりこいつは強い。そう思った。俺が心配しているだけじゃ駄目なんだと、改めて思い知らされるくらいに。
俺は瑠香の肩へ手を置く。そこに確かな熱がある。
愛斗「お前は、まず絶対に一人で動くな」
瑠香が少しだけ眉を吊り上げる。
愛斗「でも、役に立たないって意味じゃない。お前は頭より先に体が動くタイプだろ。ああいうのは、詰んだ場面で強い」
瑠香「それ、褒めてる?」
愛斗「たぶん」
泣き腫らした顔のまま、瑠香は少しだけ唇を尖らせた。ほんの少しだけ、いつもの感じが戻る。
そのときだった。
キュベリエ「話が長い」
それだけだった。
たった一言で、地下広間の空気がぴたりと凍った。
感情も、議論も、作戦の整理も、その一言の前では全部“まだ甘い”と切り捨てられたみたいだった。だが不思議と腹は立たなかった。実際、その通りだったからだ。
キュベリエは俺たちを見渡しもしない。ただ出口の方へ顔を向けたまま、淡々と続ける。
キュベリエ「影はすでに城へ戻り、こちらの気配も掴んでおろう。ここで言葉を積んでも、夜が深くなるだけじゃ」
その通りだった。
アメリア姫が小さく身を強張らせる。城の影が、自分の変化に気づき始めているのだろう。時間が経つほど、向こうは強くなる。
キュベリエが歩き出す。
その背を見た瞬間、俺は理解した。あの女は全部を把握した上で、無駄な感情の揺れに付き合ってくれていたのだ。だが、もうそこまでだと判断した。
ふと、横に気配が寄った。
青髪の少女だった。
彼女はまだ小剣を握ったまま、震える足でゆっくり俺の隣へ来た。そして、何も言わず、そこへ立った。
俺の影のすぐ横に、自分の影を重ねるみたいに。
愛斗「……お前」
呼びかけても、返事はない。
けれど、それで十分だった。少なくとも今は、俺の近くにいる方を選んだのだと分かる。
ネリュアの視線が、瑠香と俺、それから青髪の少女へ静かに流れる。その目は冷静だったが、まったく何も感じていないわけでもない、そんな微妙な色をしていた。
ネリュア「妾も行くぞ」
瑠香が即座に反応した。
瑠香「無理だよ、そんなの! まだふらついてるじゃん! さっきまで倒れかけてたくせに!」
その抗議はもっともだった。けれど、ネリュアは引かない。
ネリュア「妾が行かねば、この歪みは読めぬ」
瑠香「でも!」
俺はその間へ手を入れた。
愛斗「瑠香」
名前を呼ぶと、彼女は不満そうにこちらを見る。
愛斗「心配してくれてるのは分かる。でも、ネリュアが必要なのも本当だ」
瑠香は唇を噛んだ。怒っているわけじゃない。ただ、また俺の手の届かないところで何かが進むのが嫌なのだ。さっきまで置いていかれた側だったんだから、当然だった。
俺はその頭を軽く撫でる。
瑠香「……なに、その扱い」
愛斗「お前がここにいてくれて、助かった」
その一言で、瑠香の肩が小さく揺れた。
彼女は何も言わず、俺の胸へ額を押しつける。さっきみたいに泣き崩れはしない。ただ、心臓の音を確かめるみたいに、しばらくじっとしていた。
その様子を、ネリュアは静かに見ていた。
キュベリエは何も言わず、先へ進む。
アメリア姫は息を整えながら立ち上がり、俺たちへ小さく一礼した。
アメリア「城への道は、わたくしが案内いたします」
俺は頷く。
教会の地下から地上へ出ると、夜気が肌を刺した。けれど、地下に満ちていた腐臭はもうない。ただ湿った草と、石の冷たさと、遠くで眠る城の気配だけがある。
丘の上の城は、暗闇の中で静かに揺れていた。
眠っているように見える。だが、あれは眠りじゃない。目を閉じて、こっちを待っているだけだ。
出陣の狼煙は、もう上がっていた。
俺は瑠香の手を握り返した。
その反対側には、震えながらも俺のそばを離れない青髪の少女がいる。少し離れた位置にネリュア。先頭にキュベリエ。アメリア姫がその後ろを行く。
奇妙な並びだった。
それでも、今の俺たちにとってはこれが最も自然な形だった。
夜の風が吹く。
俺は城を見上げ、小さく息を吐いた。
次は、あそこだ。




