第六話 旅の仲間(Day1)
亜熱帯にあるはずなのに、涼しい潮風が肌を撫でていく。
海からは、ほのかな磯の香り。波音がかすかに耳をくすぐる。
そして、石炭紀が「温室の時代」ではなかったことを、静かにもの語っていた。
鏡のように凪いだ海面には、跳ねる魚の姿もない。
飛び交う鳥の影すら見えず、世界全体が息をひそめているように感じられた。
静かな港に、唐突な足音が響いた。
反射的にそちらを振り返ると、ひとりの人物がこちらへと歩いてくるのが見えた。
ゆっくりとした歩幅だが、姿勢には迷いがない。
長い影が、発射台のコンクリートを斜めに横切っている。
――人がいた。
この無の世界に、ようやく。
彫りの深い顔立ちに、簡素なワンピース。首元には、ウミユリの茎をビーズのように通したネックレスが揺れていた。
「貝飾り」とはいえ、見れば腕足動物の殻だ。スピリファーの類だが、はっきりとはわからない。
地球では控えめな装いだが、この殺風景な港ではよく映える。
たぶん、この星ではオシャレなほうなのだろう。
「アリア、元気そうね!」
アリアもまたパッと笑みを浮かべて、
「久しぶりだね、元気してた?」
といって、自然に、そして嬉しそうに、力強くハグを交わした。
「もちろん! 今回も私が案内するの。よろしくね!」
にこにこと笑いながら、リリィはアリアの肩越しに後ろを覗き込んだ。
「それで……今度のお連れさんが、噂のケイちゃん?」
アリアはちょっと得意げな顔で、肩越しに隠れていた小柄な人影を振り返る。
「そうだよ。――ケイ」
リリィはその影にすっぽり隠れている人物に、親しげに手を差し出した。
「あ、私、リリィ・カーヴァーといいます。ケイ……ちゃん、で合ってる?」
私は、アリアの脇の下から少しだけ顔を出した。
ぎゅっと手を握りしめ、頬を赤く染めながら、かすれた声で答える。
「わ、私です。……よ、よろしくお願いします……」
リリィが距離を詰めてくる。無意識に「ひっ」とのけぞってしまい、さらに赤くなる。
それを見ると、冗談めかして肩をすくめ、空気を和ませるように言うのだった。
「大丈夫よ、どこかの誰かさんと違って、突然ハグしてきたりしないから」
ふと、リリィは違和感に気づいた。
ケイは目を合わせようとせず、視線を落ち着きなくさまよわせている。
何かに気を取られているようだ。
リリィはその視線を追ってみた──宇宙港の片隅に、一機のヘリコプターが停まっていた。
「このヘリ、見たことないでしょ?」
幸い、彼女にとってヘリコプターは“専門”と言っていい分野だった。
「この時代は森ばっかりで、まともな着陸場所が少ないでしょ? だから、水上にも降りられるようにフロート付きにしてるの。」
「あれ、ハイブリッド式?」
「いいとこ見るじゃない」
リリィが得意げに笑った。胸元の貝飾り――腕足動物の殻が、光を反射して揺れる。
「メタンをよく使うから、ガス漏れ事故とかも多くてね。あと湿地林ですら風がないと、局所的に5%近くなるの。そうなると、ちょっと火花が散っただけで、周囲の木々が一瞬で火柱よ。そういうところでも、飛ばなきゃいけないことがある。だからエンジンで発電して、緊急時はエンジンも止めちゃう。その時だけはバッテリー駆動ってわけ。」
アリアは前に、このハイブリッド機構を動画で撮影したことがあった。
そのときはあまり響かなかったが――ケイには、どうやらど真ん中だったようだ。
「へえ~、面白い仕組みだね。酸素濃度も高いから、燃焼温度も当然上がる……?」
「その通り。通常より200~300度は高温になるし、シリンダーの内圧も急激に跳ね上がる。ノッキングが起きやすくて、信頼性がいまいち。あと燃費もハイブリッド化した方がよくて航続距離を稼げるのよね」
「だから発電エンジンとモーター・・・。あと、あの森、やっぱりメタン吹いてるんだ……そりゃそうか。えっ、5%って、それマッチ1本で……」
「爆発するわよ。」
リリィが一瞬だけ真顔になり、ケイの目をじっと見つめた。
「……火気厳禁。それだけは守ってね。」
「は、はい……」
シュンと姿勢を正すしかなかった。
そのやり取りを横で聞きながら、アリアはほっと息をついた。
(ああ、この二人、きっと気が合うわ)
そう思った瞬間だった。
「アリア?いまの会話、重要だからね?この異常な空気とか。リンボクと、石炭紀の巨大植物は、この時代の理解における“核”だよ。」
アリアは少しのあいだ固まった後、苦笑した。
「ごめん……今、カメラ回してなかった。あとで、ちゃんと収録してもいい?」
「うん」
その表情は、さっきまでの小動物のような緊張から一転して、満ち足りていた。
まだしばらく出発まで時間がある。
海上基地の桟橋をのぞき込むと、ゴニアタイトの一種が何匹か、ふわふわと浮いていた。
「捕まえたい!」
ケイが目を輝かせ、網を手に駆け出す。
ようやく機材の整理が終わったアリアは、少し呆れたようにそれを見守った。どうやら海面まで網が届かないらしい。
ゴニアタイトは、見た目こそ鈍重でオウムガイに似ているが、捕まえようとすると、まるで小石のようにすっと沈み込んでしまう。
「うーん、思ったより難しい…」
ケイが息を呑みながら網をおろすが、あと20センチが届かない。
そして、ゴニアタイトは沈降して難なく逃れるのだった。
「ケイちゃん、意外と頑張るね」
リリィが笑いながら声をかける。
アリアも「しょうがないな」とばかりに袖をまくって手伝いはじめたが、これもなかなか手ごわい。
ようやくアリアが一匹を網に入れた。
つるつるとした殻、すべすべの手触り。ひんやりとした感触が、皮膚にまとわりつく。
漏斗からピュッと水を吹き出した。
——そう、熱帯にあるとはいえ、ここは寒い時代なのだ。
「海水浴はやめた方がいいわ」
リリィがぽつりと言った。
「今は南風が強いから特に冷えるけど、暑くなる季節もあるのよ。でも、そうなると……別の問題が出てくるのよね」
意味深な言葉だったが、ゴニアタイトに夢中な二人の耳には、届かなかった。
「やっぱり生だと種類がわかりにくいな……写真を撮って、除肉して、いやでも、そのまま固定しても良いかも……」
ケイがぶつぶつ呟きながら、ゴニアタイトを手にして離さない。
その背後ではアリアも、いつの間にかカメラを構えていた。
──二人とも、どんな生き物も標本にしたくてたまらない、標本バカだった。
とくに古代世界では、雄と雌を一対ずつそろえないと気が済まない。
ゴニアタイトも、そんな執念の犠牲になりかけた。
が、幸運にも命拾いをする。
「二人とも! この辺りのゴニアタイトを追い始めたら、日が暮れますよ!」
リリィの声に、ようやく二人が動きを止める。
ケイとアリアは不満そうに顔を見合わせつつ、ゴニアタイトを海へと返した。
それは、ほんの僅かな判断の差だった。
もしリリィが止めなければ、その一匹は、間違いなく標本棚の一員になっていただろう。
これから乗るのは、ヘリコプターではない。
「離陸まで、まだだいぶあるわ」
リリィが指差したのは、一見すると古典的すぎるプロペラ輸送機だった。
「……古そう」
アリアが眉をひそめる。
「その通り。基礎設計は一世紀以上前。でも、エンジンは石炭紀仕様に積み替えてあるわ。他もいろいろ手を入れてるけどね」
「…まさかとは思うけど……露米冷戦期の!?」
ケイが前のめりで食いついた。
「そうよ、原型はね」
リリィはさらりと応じる。
「まだ人類が宇宙に飛び立つより前の機体よ。図面と生産記録が詳細に残ってた中で、最低限の技術で最大の積載量を確保できて、最低限の整備でも動く。それが、採用理由」
アリアは苦笑する。
「……最低限、ばっかりじゃん」
「技術レベルの低い植民惑星では、いまの地球製飛行機は作れなかったのよ。航空黎明期をやり直すようなもので、古い資料を漁って、"これならいけるかも"って機体を探したの」
ケイは息を呑み、輸送機に釘付けになる。
アリアがげんなりしているのとは対照的に、その顔には無垢な輝きが浮かんでいた。
「……まさか博物館でも見られない飛行機に乗れるなんて」
アリアは思わずリリィに耳打ちする。
「ねえ、ケイ、完全に目がきらきらしてるけど……」
「オタクだから」
リリィは即答し、二人でくすっと笑った。
──おんぼろとか、そういう次元ではない。
航空マニアでもあるケイにとって、それは、ほとんど恐竜に騎乗するのと変わらない体験だった。
「つまり、開発時間が足りないから、既存の堅実な設計をコピーして、新エンジンを載せたってこと?」
「そう。すぐに飛ばせるものが必要だったのよ。いまの航空機は性能の代わりに、製造時の工作精度を極限まで要求するから。たとえば3Dプリンタ、あれがこの空気じゃダメなの」
「……だよね。酸素濃度が高すぎて、金属粉末が酸化するか発火する。造形チャンバーを密閉してアルゴンか窒素を満たして、ってなると、そのガスの確保がボトルネックになる……。造形面をシールドガスで保護する方式もあるけど、航空機レベルじゃ足りないし……」
「ま、そういうこと。だから古くても"まともに作れる"機体が重宝されるの」
「でもさすがにそのまんまじゃ不便でしょ?」
「もちろん。与圧なしは論外だからちゃんと与圧改修したわ。測位系も全面的にアップデートされてる」
アリアはげんなりと肩を落とした。
「元々は与圧なし…どうりで…あれ、絶対乗るもんじゃないって思ったわけだわ」
そりゃそうだ、「タクシーがあるよ!」といって、来たのが牛車だったくらいには旧式なのだから。
横ではケイが、目を輝かせながらプロペラの形状まで観察していた。
アリアは、溜息と一緒に笑みを漏らした。
これから一月近く、この3人で過ごすことになる。
石炭紀後期はどんな時代だったのでしょう?今回はそういう話。
古テチス海でスタートするつもりで書き始めましたが、それだとずっと熱帯の話ばかりすることになってしまうし、石炭林をぶち抜いて港湾建設をしなければならなくなる(あとで書きますが石炭紀の桁外れな泥炭堆積量は開拓に非常に支障をきたすでしょう)ので、乾燥地帯に面していたはずの(沿岸に森林があってもそこまでの規模ではない)アマゾン盆地としました。のちにメソサウルスが栄えたイラティ-ホワイトヒル海も寒くて波が落ち着いた海ということで候補だったのですが、こんどは緯度が高すぎてロケットの昇降に支障をきたすことや、季節的に凍結する可能性が高そうであることからやめました。今回舞台にした石炭紀ペンシルバニアン中期、アマゾン盆地の海成層はItaituba formationなどから知られており、比較的低緯度かつ広範囲に内湾が広がっていました。
石炭紀は寒いよ、というのがひとつ。
もうひとつはプレヒストリックパーク等を見ていて、酸素濃度が30%ある環境で、車動くの?というか内燃機関燃やして大丈夫?という疑問が生じたのでそれについて。
あとウォーキングwithモンスターでも、落雷でメガラクネ(?)が爆死していますが、火をつけただけで空気が爆発するためには5%以上のメタンガスが必要という試算になりました。そして、それを支えるだけのメタン放出量が起きうるのもまた石炭紀湿地林のせいです。
ん、火事?それはまた別の話です。火事をわざと起こすような生活戦略をもった植物もまたいたと(古生物学者に真面目に)考えられて(一部の論文にも名指しで掲載されて)いる時代なので…。
リンボク類の丸太が河川を閉塞し、しばしばダムを作ってそれが決壊し、また新たな河川を作ったことは幾つかのぎっちりとリンボク類やコルダイテス類の丸太が河川流路に閉塞したことを示す化石記録から知られています。
非常に誤解されがち、かつ殆どの復元における大きな間違いがあります。それはリンボクは抜けたり倒れたりしないということです。リンボクが根こそぎ抜けた倒木化石は、今のところ未知であるようです。リンボクが倒れるとき、根はその場に残り、構造的に脆弱な幹がボキっと折れました。石炭紀の石炭産地は多くの場合、泥炭がおびただしい量堆積した石炭層のうえに、ごく短時間のうちに大量の堆積物が降り積もっています。ここには折れたリンボクは数あれど、抜けたリンボクが見当たらないようです。※ただこれはユーラメリカやカタイシアの”真の”リンボク類の話です。
ゴンドワナの「リンボク類」は後でも書きますがリンボク類に似た巨大なナニカという面もあるので…折れずに抜けたかもしれません。ただそれにしても上空から見れば抜けたのではなく折れたように見えるでしょう。(それこそ電柱のように地面に突き刺さっているのです)
余談ですが、こうした産地における化石化したリンボクは炭鉱夫から極めて恐れられていました。なぜなら、電柱よりはるかに大きな、まっすぐでつるつるした立ったままの丸太がどっしりとした重みを帯びた化石として保存され、下を掘り進むと突然、杭のように降ってくるからです…
考えるだに恐ろしい。
Further reading:後期石炭紀氷河期にかんしてはベーリング&ウッドワード「植生と大気の4億年 陸域炭素循環のモデリング」が和書としては読みやすく、理論的背景について詳しく知りたい方にはおすすめです。但し、このシミュレーションによる気候分布はやや乾燥気味に出すぎてしまっているので、本作ではこれよりはだいぶ湿潤気味で描いています。
(もしその通りだと、本作でこれから取り上げる予定のアンガラ植物群やゴンドワナ植物群が存在できません。)