紀州街道を堺から
年末が近くなっていた。
なんとなくあわただしい日々だった。けれどちょっとくらいは散歩に行こう、と堺へ。
堺は電車ですぐだし、紀州街道は海沿いとあってそんなに迷わないから、楽に歩けるのだ。もし迷ってもそばには南海電車が並走していていつでも電車で帰れるし、忠岡あたりまで歩いてみよう。
紀州街道は南には船待神社あたりまで歩いていた。
南海電車(本線)で湊駅へ。大和川を渡るとき、あ、湾岸線だ、と西のほうの高いところに浮いているみたいな車道に気がついた。今までどうして気がつかなかったんだろう。前に大和川河口まで歩いた時、存在を知ったからやっと目に入るようになったのかな。それとも単にバッグの中で視野が狭いから、今まで見えていなかっただけなのかな。
江戸時代、8カ月の付替工事があって大和川はここを流れるようになった。その大和川にいくつも橋がかかり、西には湾岸線、東には見えていないけれど川底の下を御堂筋線が走っている。その間を、ほんの一瞬で電車は走る。
人間の世界ってすごいところだな。こんなのが全国各地で見られるって、どうよ。どれだけの工事が行われ、どれだけの人が動員されたことだろうと考えるとくらくらした。
仁徳天皇陵をつくるのに動員されたと思われる人、かけたと思われる年月に現代人たちは驚くらしいけれど、あなたたちもじゃないの、と思う。
湊駅は、その仁徳天皇陵から西に、海岸近くまでいったところにある駅。けれど海は埋め立てられているので海に近いなんて感じはまるでなく、高架を走る電車の下は、驚愕するくらいの夥しい家々の群れだ。
湊駅から少し東の船待神社に向かい、船待神社の海側の道を南下。それが紀州街道。
熊野街道などと違って新しめの街道で、ずっと現役できたので、道沿いには今も町屋など古い建物が点在しているし、ほぼ一本道だし、迷うこともなくて楽だった。紀州街道の道標も時々あった。虫籠窓の古い町屋がピアノ教室になっていたりした。
お店もかなり多かった。けれど半分以上はやめているようだった。テナント募集中になっていたり、看板だけは残しているけれど普通の住まいになっていたりした。
右手に新湊小学校があり、そこに風車とともに説明が書かれてあった。
かつてこのあたりには風車がずらりと並んでいたそうだ。強い浜風を受けて、その風力発電で地下水をくみ上げていたのだって。堺の名物の1つで、見学に訪れる人もいたそうだ。
どんどん南下していくと、神社通り商店会があり、石津太神社が現れた。周りにはお寺がいっぱいだった。
石津太神社は日本最古の戎神社で、36代孝徳天皇や46代孝謙天皇も参詣したことがあるらしい。一の鳥居は1642年のもので、堺市で一番古いそうだ。
孝徳天皇は大化の改新が行われていた頃の天皇で、難波に宮をもっていた人(中大兄皇子の叔父)。孝謙天皇は奈良時代の天皇で、例の、道鏡を愛しすぎた女性(聖武天皇の娘)。
今は乾いた感じの住宅街だけれど、古いところらしかった。ねころび地蔵なる地蔵もいて、普通に彫られた地蔵なのだけれど横にされていて、江戸時代の人々に親しまれていたそうだ。
すぐに太陽橋で渡ったのは石津川。コンクリで固められた味気ない川だった。
渡ったところには碑などがあって、「北畠顕家、ここ石津に死す」と書かれてあった。北畠顕家は、あの21歳で亡くなったという南北朝時代の花将軍。地元近くの北畠にも墓があり、石津で亡くなったということだったけれど、それがこのあたりなのだろうな。
21歳とは言え、2男1女の父だったそうだ。亡くなる前には後醍醐天皇にあて、その親政(建武の新政)をいさめる手紙を残したそう。後醍醐天皇は鎌倉幕府の時代に、昔みたいに天皇が中心の世の中にしたいと乱を起こし、足利尊氏らの力を借りて鎌倉幕府を倒すことに成功。親政(天皇自ら行う政治)を始めるも失敗し、足利尊氏を寝返らせ、楠木正成や北畠顕家を足利尊氏と戦わせて死なせた人。
説明文では北畠顕家じゃなく、源顕家と書かれてあった。
天皇の子や孫でも一般人になることもままあり、その場合、源や平を名乗ったそうだ。清和天皇の多すぎた子や孫は清和源氏となって有名だけれど、その他にも源氏には21の流派があり、村上天皇の子や孫の村上源氏などがいる。
源氏といっても苗字(?)は他にもっていることが多く、村上源氏には京都の北畠に住んで北畠を名乗った人がいた。その子孫が北畠顕家。
住吉大社の門前町の粉浜は源氏の人々が落ちのびて住み着いたところだという話だった。北畠で戦った北畠顕家も源氏だし、源氏なんて遠い存在だと思っていたけれど、そうでもないのかも、と思った。
近く東側をチン電(阪堺線)が通っていた。西のほうには南海本線が走っている。
阪堺線船尾駅と南海本線諏訪ノ森駅との間くらいのところで、左手に緑が見えていた。諏訪ノ森というからには森があるのかな?と、ちょっと寄り道。森を探しに行ってみた。ほんの小さい森だろうけれど。
緑のそばには建物やらが邪魔をしてなかなか近づけなかった。かなり小さな諏訪神社はあった。ここ大鳥郡船尾村の産土神だったらしい。
けれど明治時代に神社を減らそうってことになり(合祀令)、諏訪神社は消滅することに。
合祀は知事の采配に任されたそうだけれど、基本的には1つの町村に神社は1つとされたそうだ。お稲荷さんや八幡や天神は流行したりであちこちに林立していたけれど、それらも多くがまとめられてしまったらしい。南方熊楠らの反対があって3,4年後に中止されたけれど、その頃には3割以上の神社が村から消えていたのだって。
県によって差があって、消えた神社は1割ってところから9割ってところまで。大阪府はけっこう合祀されていたほうじゃないかな。神社に行くといろんな神さまが同居している。
諏訪神社は石津太神社に合祀されることになって、跡地はテモテ教会に売却されることになったのだって。テモテ教会は1889年に堺にやってきていて、その後、ここに移転。けれど地元の人が一部土地を買いとって、諏訪神社は小さな神社としてだけれど存続させることができたそう。
合祀されて消えた神社跡とか、いったんは合祀されていたけれど元の場所に戻ってきた神社とか、散歩しているとよくあるけれど、こんなに詳細が分かるのって珍しかった。
確かに小さな神社の横は大きなテモテ教会の門だった。門の奥は広そうで、その奥のほうに小さな森があるようだった。諏訪神社の森だったところで、それで諏訪の森というのかな。
このあたり、かつてはず~っと浜寺公園の方までも松林だったらしい。そして近くに保名道と呼ばれる道があり、そこが安倍晴明の父の保名さんが晴明を抱いて、葛葉に会いに信太に行くのに通った道といわれるところ。
保名さんの家はたぶん安倍晴明神社あたり。熊野街道を歩き、途中からは海沿いを進んでいったのかな。
続きを行くと三光橋なる古い橋で小さな川を渡った。川は三光川で、江戸時代にはこのあたりに三光茶屋があったらしい。紀州街道も往来が多かったのは大阪から堺までで、このあたりは長閑なところだったそうだ。旅人はひとりで茶など飲みながら松林を見ていたのかな。
近くには三光会館もあった。三光ってなにかと思ったら人の名前だった。
南北朝時代、南朝の拠点の1つだった大雄寺をこのあたりに建立した禅宗のお坊さん、三光国師のことだって。後醍醐天皇の息子の後村上天皇から三光国光の名をもらったそう。
そしてその大雄寺の別名が浜寺。このあたりの浜寺の地名の由来になっているそうだ。今の浜寺公園の地にあったらしく、間もなくその浜寺公園が現れた。広大な寺領をもっていて、かつては南の羽衣や高師浜のほうまでも浜寺だったんだって。けれど応仁の乱で焼け落ちてしまった。
南北朝の戦いに応仁の乱、織田信長とのどんぱちに大坂の陣、大阪って多くの戦いの舞台になっているところなんだなあ。
浜寺公園の松林が姿を現わし、浜寺大橋(かな?)が見えるあたりで道が途切れた。南海電車の線路に阻まれてしまって。少しバックしたところで踏切を渡り、府道204号堺阪南線へ。ここからは204号線が紀州街道だった。
204号線沿いに浜寺公園がずっと続いていて、せっかくだから懐かしい浜寺公園の中を204号と離れないように歩いていった。まだ小さい頃、体も今の半分くらいだった頃に初めて電車でやって来た公園。
松林が続いていた。本当は大阪湾岸はこんな光景がずっと続くところだったんだな。
北の住吉や安立から浜寺、この南には泉大津近くに松ノ浜駅があるから、少なくともそのあたりまでずっとかな。「白砂青松の海岸」とよく説明に書かれている光景が続いていたんだな。
松林は、元は防潮のために植えられたものだったそうだ。その後、新田開発のためにほとんどのところで松林は切り倒され、農地になっていったそう。けれど訪れた大久保利通が、失われていく景観を嘆いて堺のトップに働きかけ、一部が残された。それがここ。
明治時代以降、関西では私鉄各社が風光明媚な田舎を開発して、別荘地として売り出していたそうだ。風光明媚な海辺の浜寺も別荘地として開発。美しい海岸に美しい別荘の、人の押し寄せる人気の海水浴場になっていったそう。
戦後には米軍将校やその家族たちが浜寺公園内に家を建てて住み、教会も建てられて、小さなアメリカみたいになっていたらしい。海岸には柵が設けられていて、日本人は柵の北側の諏訪ノ森海岸に海水浴に押しかけ、南の浜寺ではアメリカ人たちが家族とサマーバケーション、という具合だったのだって。
道の向こう、坂道を上っていく小さなチン電が見えて可愛かった。
阪堺線の終点の浜寺駅前停留所と、南海本線の浜寺公園駅あたりが見えた。
別荘地として売り出された頃にできた駅だからか、南海の諏訪ノ森駅と浜寺公園駅の駅舎はどちらもレトロでしゃれていて、有形登録文化財。
このときは南海電車は高架化の工事中だった。高架になって駅舎も新しくなったけれど、旧駅舎も保存されるらしかった。
浜寺公園はまだまだ南に続くのだけれど、204号線(紀州街道)とは離れていった。浜寺公園南交差点からは、公園を出て204号線を南下。
高石市に入っていった。
オークワっていう、地元にはないけれど、泉州あたりでよく見るスーパーマーケットがあった。街道では電線の地中化の工事中だった。言われてみれば、電柱や電線がかなり邪魔になっていた。地中化されたらすっきりするだろうな。
左手に大きな「ほんみち本部」。なにかと思えば天理教の分派らしい。隣には大鳥羽衣濱神社があったけれど、ほんみちよりずっと小さいし、鳥居と拝殿の位置関係もおかしかった。ここでもテモテ教会と諏訪神社みたいな話があったのかな。
かつては海辺で、そこにあった井戸を守る神様として祀られたそうだ。境内には手書きで羽衣砂丘遺跡と書かれてあった。6~8世紀頃の集落の跡が見つかっているらしい。
紀州街道に「伽羅」の名が多く見られるようになっていった。近くに南海高師浜線の伽羅橋駅や大雄寺跡の碑があるようだった。
この辺り一帯は古い別荘地の感じがした。界隈を歩いてみると、古くて大きなおうちがいっぱいだった。
高石神社前交差点はそばに高石神社があった。
このあたりは高師浜と呼ばれたところ。松林が続く海岸の中でも、とりわけ高師浜は美しくて、和歌にも多く詠まれているそうだ。
その高師浜の当時の姿が境内に残っていると神社の説明にあったけれど、よくは分からなかった。この時はちょっと荒れた感じもあり、ほぼ境内のようなところに洗濯物が干されていたりもして、昔の高師浜というよりは神社に嫁いだ人の生活を垣間見てしまったような感じがした。
高石神社は「たかしの」神社と読んでいたそうだ。高師浜と同じ「たかし」。
行基の父は百済系渡来人の高志さんらしく、このあたりに住んでいたのじゃないかと言われているらしい。高志さんは応神天皇の時、王仁なる博士とともに日本に渡来してきた人々の子孫とか、王仁の子孫とか言われていて、高石神社にはかつて王仁が祀られていたことがあるらしく、高志は「こし」「たかし」と読めるしで、このあたりに住んでいたと推測されたのかな?
おうちで勉強してて行基のことも少しわかったんだけれど、行基って奈良の大仏で有名な人みたい。
奈良時代、聖武天皇は大仏をつくることにした。銅とかを溶かして、それを形作って固めて大仏にしていったそうなのだけれど、なかなか成功しなかったらしい。
そこで召喚されたのが行基。行基は父も渡来人というくらいで、海外の進んだノウハウを持つ渡来人たちともつながりをもっていた模様。行基にヘルプにきてもらい、奈良の大仏は無事に完成したのだって。
高石神社前交差点からは204号線の左手に旧道が残っていた。
旧道を進むと千代田という地名になり、ここも普通じゃないくらいの大きな旧家が集まっているところだった。街道を外れてそぞろ歩きしてみたけれど、ただものじゃない。かつて何か、ここにも大きな寺かなにかがあったのじゃないかな、という感じがした。
錢高さんの表札のおうちもただものじゃない感がすごかった。錢高組寮と書かれてあった。
錢高組は金剛組ほどではないけれど老舗の建築屋で、江戸時代の創業。宮大工に始まるそう。古い建造物を寮にしているみたい。
大師堂と貝殻地蔵もあった。
太子堂の太子は聖徳太子のことで、大師堂の大師は弘法大師こと空海や、天台宗の智証大師こと円珍、天台宗の元三大師こと良源などだそう。今まで空海以外の大師堂を見たことがないように思うから、大阪界隈では圧倒的に空海が多いのかな。
平安、鎌倉時代には熊野詣が大流行していたけれど、江戸時代には高野参りや四国巡礼が大人気で、大師講も盛んだったそうだ。
大師講とか○○講とかいう文字を散歩しているとたびたび目にした。地蔵堂の石に刻まれていたりして、なんのことだろうと首をかしげていた。
「講」って、信者が結成するグループのことだそう。同じ信仰をもつ人たちが集まって、一緒に集会をもったり、寺社に詣でたり。高野参りと四国巡礼が流行した時代の人々は弘法大師の会をつくり、たまにはみんなで四国巡礼などに行き、大師堂を建てたりもしたのかな。
ここでは今でも大師講が行われていると説明にあった。
江戸時代、伊勢参りも大流行していたそうだから、同じように伊勢講もあったのだろうな。
そして貝殻地蔵は、高師浜で地引網にかかったお地蔵さんらしい。今も貝殻がくっついていた。洪水で流されていたとかだったのかな。
普通の家かと思いきや門の中は寺だったり、元は神社だった感じを強く残している公共施設があったり、いろいろと興味深い一帯だった。
204号線に出るけれど、そのまま通り過ぎて道の続きを行く。ここまで204号線の南側の旧道を歩いてきたけれど、ここからは北側を進んでいく。
すぐに王子川と高速を過ぎて、泉大津市に。
王子川って・・・熊野街道の王子の付近から流れてくるとかかな? 高速は堺泉北道路。前に熊野街道歩きで迷子になったから知っている。ここを山側に行くと信太森神社あたり。
地名は助松だった。




