紀州街道を泉大津から
紀州街道で泉大津市に入ってすぐのところには、中和泉街道の古い道標があった。
説明などはなかったけれど、ここで交差している道が中和泉街道かな、と、ちょっと左折して歩いてみたら、すぐのところに助松神社と北助松駅(南海本線)があった。
助松神社は犬NG。なんだか几帳面な感じのする神社だった。きちんと建った社、きちんと掃除された境内、禁止事項を述べる文字。神社にもそれぞれに顔があるな。
きれいな鶏のような鳥が数羽、放し飼いにされていて、手水舎のあたりに行儀よく立っていた。東天紅というらしい。
帰ってから調べると、中和泉街道は助松と聖神社を結ぶ道だそうだ。古くは布引道といったのだって。
紀州街道の続きを歩いて行った。
右手に現れたおうちがすごく大きくて度肝をぬかれた。今までに見たNo.1だった。なんだこの広さ、と続く塀の横を歩いていたら「田中本陣」と説明が現れた。
清和源氏の流れをくむ豪農にして庄屋だった田中さんのおうちで、本陣でもあったのだって。紀州徳川家、つまり(たぶん)紀州藩が参勤交代に使ったのが紀州街道で、その途中で休憩なさる場所(本陣)の1つだったそう。
今も居住中らしく、手入れも行き届いている感じだった。
あたり一帯が古い建物だらけだった。一帯が田中さん関係なのかな?と思いつつ歩いて行った。
古い建物は左手の204号線の方まで続いていた。更に204号線の向こうには緑がこんもりと茂っているのが見えて、なんだろうと行ってみた。うろうろしてみたものの緑に近づける道は見つけられなかったのだけれど。
その緑は南海電車の車窓からも見える、後で知ったことには牛滝塚。田中家の墓所で、織田信長の頃に戦死した先祖が弔われているらしい。
まだ刀狩令が出る前で、僧も農民も武器を持って戦った時代だったみたい。というか、農民というくくりはなくて、みんな田畑を耕しつつも武士であったり商売人であったりした時代なのかな。
もう少し進んで行くと、殺風景になっていった。高速や車道の目立つ、なんでもない町に見えた。けれど、そこに突然「助松村境石造物群」が現れた。
地蔵とかいろいろな石造物が集めて置かれていた。村の境には悪い者が入ってこないように、道祖神とかの石造物が多く置かれていたらしく、道路などがつくられる中で撤去されたそれらを集めたものなのだろうな。
助松は室町時代、三好さん(三好長円)が浄土真宗の寺(蓮正寺)を建て、開墾したことに始まる村だそうだ。幼名を助松といったので地名も助松。
お寺は助松御坊とか茅渟御坊とか呼ばれたのだって。お寺を建てて、浄土真宗の信者たちを引き抜いてきて、開墾していった・・・とかかな?
三好さんは室町時代の頃までは阿波の三好にいて、それで三好を名乗ったそうだ。
このあたりには紀州街道よりも浜寄りにも街道があり、浜街道というらしかった。別名だんじり道だって。岸和田に近いこのあたりもだんじりが盛んらしく、この日行った神社はどこも山車庫があったように思う。
あと、行った神社にはたいてい戎神社が合祀されていて、漁業組合などの文字が目立っていた。戎は漁業の神さまだって。
戎は大黒天のことだったりするそうだけれど、このあたりの戎神社で祀られているのは、ヒルコだった。ヒルコは蛭子と書いてエビスとも読むらしく、ヒルコはエビスと同じ漁業の神さまとされている感じだった。
けれどエビスとヒルコは元々は別々の神さまだったのだって。同一視されるようになったそうで、ヒルコがだんだんと漁業の神さまの扱いになっていったのかな。
日本最古の戎神社とあった石津太神社に祀られるのもヒルコだった。
今に残る日本で最古の書物が古事記で、そこには日本神話などが記されているらしい。
日本神話では最初の男女神のイザナギとイザナミが国造りをしたことになっていて、列島などを産んだ後でアマテラスやスサノオを産んだ。そのアマテラスの子孫が歴代の天皇たち。実はアマテラスより前にイザナミが産んだ子がいたそうだ。それがヒルコ。
ヒルコは2歳になっても歩けず、船に乗せて流された。そして後の摂津国にたどり着いたと言われるそうだ。五色の石を握りしめていたらしく、たどり着いた津を石津という。そこに後に5代天皇の勅願でヒルコを祀ったのが石津太神社。
旧道がなくなって、また204号線を歩くのだけれど、204号線に出る直前の辻を南下するとすぐ松ノ浜駅(南海本線)だったみたい。更に行くと東寄りに進んで曽根神社があり、池上曽根遺跡があって、弥生文化博物館があって、JR信太山の近くを通り、信太山駐屯所へ。熊野街道で歩いたあたり。
池上曽根遺跡は全国的にも大きな弥生時代の集落跡だそうだ。興味深い・・・。助松も面白いし、このあたりにはまた来るだろうなあと思った。
204号線をしばらく進んで、また右手に現れる旧道へ。ヤマダ電機やオークワのあたり。
このあたりだったか、ノコギリ屋根の古い建物を見た。紡績工場跡ね。
泉大津は和泉の国府の港があったところで、小津とか大津とか呼ばれたそうだ。江戸時代には村々で木綿加工が行われ、河内木綿の物流が盛んだったそう。
紡績業が盛んだったので、後には毛布の生産を始め、今では全国シェア№1。国産品の9割を産するのだって。「日本一の毛布のまち」とあった。
また旧道がなくなって、204号線へ。春日町南交差点で右手に旧道が現れてそちらに。
すぐのところに公衆トイレなどがあり、その奥が大津神社だった。「小津の泊」と呼ばれたところに祀られていた祠に始まる神社だそうで、なかなかに立派だった。ただ公衆トイレとの一体感が印象的すぎたけど。
それから先も古い感じだった。お寺などが多くて、ここもまた寺内町だったそうだ。このあたりに住んでいた眞鍋さんの大津城があり、その跡地に大津御堂ができて、御堂を中心に発達していった寺内町。
その大津御堂が今の南溟寺で、気づかなかったけれどこの近くにあったようだった。
どんどん進んで川を渡った。川は大津川で、川を渡ると忠岡町。
助松町は大阪府泉大津市助松町、忠岡町は大阪府忠岡町。わたしはチビの犬だったし、そのへんがよく分からなかった。
なんでも市になるためには「人口5万人以上」などの条件があるらしい。そのためにいろんな町が合併して市になることが多い。助松町も他の町と合併して泉大津市になったのかな。
忠岡町でも他の市に組み入れてもらおうという案もあったらしい。単体で市になるのは無理だったし。けれど反対多数で町のままでいることを選択。今「日本一小さい(面積)町」らしい。
忠岡町は、なんというかくすんだ町に思えた。古い旧家があって、きっと古い田んぼの広がる集落だったのだろうと思う。けれどそこに子育て世代の新しい家々がいっぱい押し寄せてきていた。
空気はまずくて、狭い道路を、その割にスピードを出した車が走って行った。
古いままの感じの水路などがあって、本来なら自然豊かな和泉そのもののようなところだったのだと思う。けれど急ごしらえで都市の化粧をごてごて塗ってしまった感じ。
でもそう感じるだけ、まだ自然が残っているのだろうな。大阪市の中央大通りあたりでは、そんなこと感じたこともない。緑豊かな本来の姿を感じさせる分だけ、くすんで見えるのかな。
紀州街道は大きな通りを横切るのだけれど、信号はなくて、左手の信号で大通りを渡って続きに戻った。その途中に鳥居があって、忠岡神社だった。
大きな通り沿いにあって存在感が薄かったけれど、高台の境内に上ってみると立派だった。元は菅原神社で、道真公を祀る神社だったそう。明治の合祀令で忠岡町にあった神社が集められ、忠岡神社になったそうだ。
あと少しで忠岡町を出て岸和田市に入るようだった。けれどその前にすぐ左手に忠岡駅(南海本線)があって、ここから帰途に。
岸和田には、また次回。




