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大阪を歩く犬  作者: ぽちでわん
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天王寺と真田幸村

竜田越奈良街道を歩くついでに歩いた天王寺の話も少ししておきたい。

竜田越奈良街道で歩いた逢坂は天王寺の七坂の1つで、ついでに他の坂も歩いてみた。

天神坂、清水坂、愛染坂、口縄坂。残りの2つの坂は生國魂神社への坂道で、少し離れているので次の機会とした。

天王寺の七坂は、上町台地の西の端にある7つの坂で、みんな西の低地から東の上町台地に上る坂のようだった。


天神坂の天神は安居神社のことだった。逢坂を上ると真田幸村が亡くなったといわれる安居神社の南側だったけれど、天神坂は神社の西の参道を上る感じ。

安居神社は安居天満宮とも言い、菅原道真を祀るらしかった。詳細は不明のようだけれど、元の祭神はスクナヒコナだったんだとか。住吉や玉出の生根神社と同じね。

大宰府に左遷されていく菅原道真が立ち寄り、道真を祀るようになったともいわれているそうだ。

もう少し北側の清水坂を上ると清水寺で、ここには大阪唯一の滝といわれる玉出の滝があった。滝と言ってもちょろちょろ流れ落ちているだけだったけれど、行も行われているらしい。

近くには湧水を模したようなところがあり、天王寺七名水のことが説明されていた。天王寺七名水・・・ちょっと想像できなかった。


愛染坂を上ると愛染堂。横には大江神社もあった。大江神社は四天王寺七宮の1つだそうだ。

坂の途中は学校になっているのだけれど、元はここには料亭があったそうだ。西の海に船や夕陽の見える名亭だったのだって。東海道中膝栗毛にも出てくるそうだ。

松尾芭蕉は暗越奈良街道で大阪にやって来て、住吉大社で「升買て」の句を詠み、句を詠んだ翌月には、大阪で亡くなっている。今では御堂筋になっているところにあった知人の屋敷で病をこじらせて死んでしまった。辞世の句は「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」

住吉大社で句を詠んだ後、ここの料亭での句会にも参加して、句を詠んでいるそうだ。


地名は伶人町れいにんちょうだった。百済の人が故郷の音楽を日本で披露し、それが雅楽になっていったらしいのだけれど、雅楽を演奏する人々を伶人といい、四天王寺で雅楽を奏する人々がここに住んでいたのだって。このすぐ東が四天王寺だった。

口縄坂は雰囲気があった。坂の途中に女学校があって、そこの学生に恋した織田作之助が足繁く通った坂として有名らしかった。地名は下寺町したでらまちで、一帯にはお寺が半端なく建ち並んでいた。

大坂夏の陣の後、松平忠明なる徳川側の人が大坂藩主としてやって来て町割りを行い、寺社を集めるなどしたのだって。


上町台地は少し大阪らしくない。緑が多くて、しっとりとしていて情緒がある。本当の大阪はこんなだったのかも、とも思った。

阿倍野と天下茶屋の境目の崖のあたりの工事現場で、更地になったところから水がこんこんと湧きだしているのを見たことがある。これだけ住宅で覆いつくされても、それでも失われていない大阪の力を見た気がした。

かつては泉の湧く森だったのだろう。それで今では枯れたのだろうけれど天王寺の七名水があり、武野紹鴎が泉にほれ込んで居住したのだろう。

そして西には海があって、七坂の上はどこも見晴らしの良いところだったのだろうな。

平安時代頃から、落ちる夕陽に極楽浄土を思い描く「日想観」とかいう修行法が大流行したらしくて、四天王寺や大江神社など、日想観に最適な場所だったそうだ。四天王寺では今も日想観がとり行われているのだって。


逢坂を上っていくと一心寺があるけれど、このかなり広い一心寺は元は法然の住んだ草庵だったのだって。法然もまたここで日想観を行っていたそうだ。後白河天皇と一緒に行ったこともあるのだとか。

25号線の一心寺前交差点を東に進むと天王寺公園。

天王寺公園は元はかなりの部分が住友邸だったところで、大阪市に寄贈された。住友財閥の住友さんね。住友さんは江戸時代の初め頃から大阪に進出。銅と両替商(今の銀行みたいなもの)でたちまち大富豪になったそうだ。

大正の時代に市内から天王寺村だったらしきここに越してきて、しばしすると土地建物を大阪市に寄贈して神戸の住吉村に移っていった。


公園に入ってすぐが茶臼山だった。前方後円墳だとも言われるけれど不明。四天王寺あたりは聖徳太子の頃、荒陵あらはかと呼ばれていたらしく、古墳だったとしても不思議ではない。

その頃はちょうどNHKのドラマで「真田丸」をやっていて、幸村ブームのただなかだった。茶臼山にも赤い旗が数本たてられていて、地図を片手に幸村縁の地にたてられた赤い旗を巡る人たちがけっこういた。

茶臼山は大坂冬の陣では家康の、夏の陣では真田幸村の本陣になっていたところだそうだ。

茶臼山に上ってみた。ほんの小さな丘くらいの山なんだけれど。

何も知らなかったわたしは、本陣から馬で駆け降りたのかな、くらいに思っていた。本陣は敵陣の対義語くらいに思っていて、そこから敵陣に攻撃を仕掛けた、みたいにイメージしていたんだな。けれど・・・こんなところ軍勢が駆け降りられないわなあ・・・。

実のところは軍勢は大阪市の外まであふれ、本陣というのは、その大将がとどまって指揮をとるため設置された場所のことだったみたい。

戦うことになると、本陣を定めて邪魔な木、岩などを取り除き、地面も平らにならしたりもしたのかな。冬の陣の時に本陣になった茶臼山のてっぺんには、家康の寝所、4畳半の茶室、納戸、浴室、20畳の近臣用の部屋がつくられたそうだ。大工が5日間でつくったのだって。

20畳におさまらなかった人たちは一心寺での寝泊まりだったそうだ。

浴室、寝所、茶室・・・。戦いと言ったって、そういうものだったんだな、と思った。当時は戦いもまた日常だったんだな。


名前くらいしか知らなかった大坂の陣について少々勉強した。

戦国時代の終わり、秀吉が天下をとって亡くなったとき、重臣たちに息子を頼むとお願いしたそうだ。

重臣たちは約束を守った。親友だった前田さんとか、秀吉を敬愛していた石田さんとか。天下は秀吉の遺児、大阪城に住む秀頼にというのが秀吉の願いだった。

けれど臣下というよりは同盟相手だった家康は秀頼をないがしろにした。秀吉の主だった重臣だった人たちも老齢で亡くなっていくとますます我が物顔に。石田さんは怒って、家康を倒そうと関ケ原の戦いを起こした。けれど勝ったのは家康だった。

ますます我が物顔になった家康は、秀頼に大阪から出て行けとまで言い出した。怒ったのが秀頼の母、淀君。「なにを家康!」というわけで、冬の陣が勃発。

けれど豊臣家には強い味方になってくれる人もいなくて、九度山に蟄居状態だった真田さんらにも声がかけられた。幸村さんは九度山を脱出し、父と共に豊臣家に味方。武家として再起をめざすことにした。

大阪城は、三方を天然の要塞で守られた難攻不落の城だった。唯一の弱点の南には堀を掘って守りとしていた。それが前に行った空堀あたり。

けれど冬の陣のあと家康は、この堀を埋めてしまう。そして夏の陣へ。

豊臣側に勝算はあまりなかったそうだ。南の堀は埋められ、味方にめぼしい人はいなかった。けれど秀頼が戦いの場に登場してくれれば士気も上がって勝利に導けるかと幸村は勝負に出た。けれど秀頼は大阪城にこもったままだった。次々に豊臣側の武士たちは倒れていき、幸村もまた安居神社で首をとられた。


その後、すぐに京では、幸村は秀頼ともども九州に逃げ延びた、という歌が流行したのだって。そのことがイギリス東インド会社平戸商館長のリチャードさんの公務日誌に綴られているそうだ。

戦国時代と言ったって、当時を生きていた人々にとってはそれが自分にとっての「今」。イギリス東インド会社の人、真田幸村、徳川家康、みんながその時代を生きた、一人の人間だったんだなあと思った。

そしてすっごい昔のように思っていたけれど、案外すごく近くて、人間は今も昔もそうは変わらないのじゃないのかな、と思った。

いやはや、しかし天王寺もまたなんて豪華な顔触れのそろうところだ。

聖徳太子に真田幸村に徳川家康に法然だ。

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