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大阪を歩く犬  作者: ぽちでわん
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中高野街道を松原市へ

次に歩くことにしたのは喜連瓜破からの中高野街道。

なんだかもう手当たり次第だな。まあまあ近場で行ける街道と名のつくところになんでもいいから出向いていた。竜田越奈良街道の続きは・・・未知のところ過ぎて、また今度。

前に喜連に行った時、中高野街道を平野から喜連まで歩いていた。高野山に向かういくつかある街道の1つで、平野からスタートするのが中高野街道。喜連からの続きを歩いて、松原市まで行ってみようと思った。

中高野街道は松原市で長尾街道と交差しているのだって。高野山まで行くわけにもいかないから、松原市からは長尾街道を堺まで歩き、堺から電車で帰るとしよう。


喜連瓜破まで電車で行った。地下鉄谷町線喜連瓜破駅へ。

そんなに遠くはない場所なのに、3つの電車を乗り継いだ。大阪市って、蜘蛛の巣みたいに、中心部は交通網が密だけれど、その周辺同士を結ぶ網に乏しいんだなあ。中心部を一度経由して行くことになるので妙に遠い。

その頃の大阪には旅行客がいっぱいで、地下鉄で聞いた会話の8割がたが韓国語か中国語だった。特に天王寺や平野のあたり。

日本の人は単純に移動の手段として一人で乗っていることが多いから黙って座っている。外国の人は複数人で旅行しているケースが多いから会話することも多い。そのせいもあっただろうな。


喜連瓜破駅を出ると長居公園通だった。この北が喜連で、南が瓜破。

とりあえず東に向かい、最初の歩道橋のある信号まで歩いた。

中高野街道は杭全神社あたりから出発。平野郷へは泥堂口から入って流口から出ていき、次の喜連は北口から入って馬倉地蔵口から出ていくそうだ。

その馬倉地蔵口を出て南にすぐのところがここで、ここを南下して行くのが中高野街道。

喜連も瓜破も古い町で、駅には両方の名がつけられたってことだった。喜連は環濠集落だった古いところだったけれど、瓜破についてはよく分からなかった。

空海がやって来たとき、水を所望するので村人が育てている瓜を割ってさしあげ、そこから「瓜破(うりわり)」という地名になったという話があるそうで、そんな話から「古い町」を自称しているのかな、くらいに思っていた。たまに古い家が現れた。

静かな住宅街で、小さなバスが走っていた。

瓜破天神社があって、犬はNG。

ここは道昭が修行をしていて、出現した天神像に瓜を割って供えたというあたりらしい。だから地名が瓜破になったという、もう1つのバージョンの地名起源ストーリー。

道昭は行基の師で、行基も道昭も渡来系(親や先祖が渡来人)だそう。行基は奈良時代、池をつくったり改修したり、公共事業的な土木工事を多く手掛けた人で、それには道昭の影響も大きかったそうだ。

道昭は遣唐使として唐に渡り、三蔵法師の愛弟子だったというくらいの人。その故郷は瓜破あたりだと伝わるらしい。

やがて大和川に出た。その手前で小さな橋を渡ったのだけれど、下は川ではなく、草ぼうぼうの筋状に長く続く空き地だった。

これはかつて走っていた貨物列車の線路跡なのだって。廃線跡って田舎にあるものかと思っていたら、市内にも残っているんだなあ。


大和川を高野橋で渡った。昭和20年くらいまでは中高野街道に橋が架かっていたそうだけれど、今は少し西にずれていた。

このあたりの大和川は、今まで見てきた大和川とは様子が違っていた。川はカーブを描き、コンクリートが見えないくらい木々が茂り、ワイルドだった。そして東には山々の連なりが見えた。

橋を渡ってから、さっきの道の続きに戻って歩いた。ほぼ道なりに南下すればいいだけで、楽ちんな街道歩きだった。

まだ地名が大阪市平野区瓜破で、驚いた。大阪市は大和川までと思い込んでいたから。

大和川の南側の大阪市は、工場だらけのところだった。すぐに阪神高速松原線を過ぎて、そこからが松原市だった。

松原で見たマンホールは、松とバラの模様が入っていた。「松」と「薔薇」で松原・・・ダジャレか!


時々大きな旧家が現れた。今まで見てきた旧家ともまた違う、重厚な感じの建物だった。立派な瓦、土塀、黒い板塀なんかの。

それから神社が現れた。酒屋神社と屯倉(みやけ)神社だった。

このあたりに依羅(よさみ)屯倉があったのだって。

ヨサミって、ここから北西に行った大阪市住吉区の我孫子あたりにも残る地名だった。ヨサミのアビコなる古代からの氏族が住んでいたというあたり。あと方違神社も元は方違大依羅(よさみ)神社といったというから、そのあたりもヨサミ?

なんでも、我孫子近くの大依羅(おおよさみ)神社あたりからここ松原にかけて人工の池が掘られていたらしい。広さは10万坪くらい。最初は規模はもっと小さかったろうけれど10代天皇の頃につくられたとされ、農耕に利用されていた。

それがヨサミ池。

いつの頃からか池の周りには朝廷管轄の米蔵や役所的な施設があって、それが狭い意味での屯倉かな。広い意味ではその周囲の田んぼなど朝廷直轄地のことすべてを言ったみたい。

屯倉神社のあるところに屯倉(米蔵など)があったと思われるのだって。ここの地名は三宅で、各地にある三宅って地名のところは、この屯倉からきていることが多いらしい。

できた米からは酒がつくられていた。ここでは中臣系の酒屋連が関わっていて、その祖神を祀ったのが酒屋神社と思われるそう。後に屯倉神社に合祀されたのだって。

また出た、中臣系。三宅(屯倉)の酒屋連、鳳(大鳥)の大鳥連、富木(等乃伎)の殿木連、みんな中臣系。

八尾では物部系がいっぱいだったけれど、大阪のすぐ南には今のところ中臣系が多い。


それからまた道なりに南下して行った。

阿保神社の案内がでていて、せっかくだから行ってみた。大きな池があって、公民館があって、もっと行くと阿保(あお)神社だった。

阿保(あほ)と半分ふざけている神社なのかな、くらいに思っていた(それは阿呆だな)。でも近づくにつれふざけてなんかないし、近所の人々には尊ばれ親しまれていると分かった。

神社には誰もいなかったけれど、ウエルカムな感じがしていた。失礼しておかあさんのだっこで入っていくと、奥の御神木のところまで入って行けるようになっていた。

神社に行くと、けっこうなクスノキに出会えるものだと分かってきた。ここのクスノキもかなりのものだった。樹齢は1100年らしい。もう幹なのか根っこなのか分からなくなっている部分が地表に伸びて、その部分だけでも子どもが10人は座れそうだった。大きいし幹も太いし、クスノキ全体ならいったい何人の子どもたちが座れるだろう。クスノキを見るだけでも楽しい神社だった。

一帯は地名も阿保(あお)で、阿保(あぼ)親王からきているのかな。いろんなところの案内で阿保親王の名が出てきて、親王への親愛の情が読み取れた。

阿保親王は平安時代の貴族。平城天皇の皇子で、在原業平の父として有名な人だそう。阿保親王がこの地に住んでいたことがあり、稲づくりで困っていた人々のために自宅の池を提供。灌漑用につくりかえたことがあって、今でも親しまれているそうだ。


中高野街道の続きを行くと、古い道標があって、片方は「平野大阪」、反対側には「八尾信貴山」。それから阿保茶屋跡があった。ここが長尾街道との辻で、茶屋があり、賑わっていたのだって。

ここで右折して長尾街道を西の堺に向かう。

その前に、すぐが駅前商店街だったので、商店街を通って河内松原駅(近鉄南大阪線)まで歩いてみた。民間の自転車置き場だらけなのが印象的だった。広い一階をみんな土間にして、そこを駐輪場にしているみたいだった。相場は100円から150円。道路にはみ出すくらいの繁盛ぶりで、できている行列はなにかと思ったら、「大当たり出ました」と書かれた宝くじ売り場だった。

お金儲けのガッツのある町だなあというイメージをもった松原だった。あと、ダジャレ好き?

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