勝間街道を鶴見橋へ
街道歩きに少々目覚めたわたしたちは近くには勝間街道なる街道もあるってことを知った。
勝間は今の玉出(西成区)あたりのことらしい。もっと北の一帯も含み、今の玉出より広い範囲だったようだけれど。天下茶屋あたりも以前には「勝間新田」と呼ばれていたそうだ。
住吉大社のすぐ北に生根神社がある。祭神はスクナヒコナ。
住吉大社を創建した神功皇后はここでお酒をつくって住吉三神に奉納したという話もあって、もしかしたら住吉大社よりも古いのかも、とも言われている。
13世紀、その神を玉出に勧請して、その周辺を開拓していった勝間なる人がいたらしい。その人の名をとって勝間村となったんだとか。本当のところは分かっていないみたいだけれど、今も玉出にも生根神社がある。
玉出というのは勝間村の南端、生根神社のあるあたりを呼ぶ地名だったそうだ。
住吉の生根神社のあたりがかつて「玉手」と呼ばれていたらしく、その関係でじゃないかと思う。生根神社の鎮座するところを同じ「玉手」と呼んだかな。そしてタマテがタマデに変化したのかな。
勝間は農村で、勝間南瓜なるこぶりな南瓜が名産だったらしい。
江戸時代には紀州街道のバイパス的な道として勝間街道があり、木津や難波と住吉を結んでいたのだって。
難波も難波ねぎが名産の農村だった時代ね。
住吉から難波になにしに行っていたんだろう。農作物を運ぶとか? 住吉で紀州街道に合流していたそうだから、難波から住吉経由でもっと南に向かう人なども往来していたのかな、とか思いつつ、住吉から北上していった。
まだ夏でもなかったけれど、水筒に水を用意して持っていった。散歩していて、西成では水にすぐありつけるとは限らないって分かってきていた。
たいていのところでは公園があれば、そこで水が飲める。けれど西成では、水道が無かったり、水が止められていたり、時には公園自体に入れないことだってある(封鎖されている)。気軽にいつでも水が手に入るつもりで行ってはいけないのだ。
紀州街道は住吉大社の西のチン電通り。途中で西寄りに分岐するのが勝間街道だったのだろうけれど、もう旧道なんて残っていないことだし、南港通りからスタートした。
元々は住吉の生根神社の横にある六道の辻とつながっていたんじゃないかな、と思う。
南海本線の高架の下あたりの信号で南港通りを渡って、高架沿いに北上。すぐに道が2つに分かれて、左手の道へ。高架を離れながら北上していった。
南港通りの南は住之江区粉浜で、北は西成区玉出。元はみんな住吉区だったみたい。けれど南海本線や南港通りで地名が分けられてしまった。
住宅密集地ではあるけれど、紀州街道沿いの粉浜と同じく、このあたりもけっこう旧家などあって驚いた。広い空き地もあって、他にもあった古い建物が壊されたのだろうと思われた。
今ではもっと壊されて、どんどんなくなっていっている。最初に歩いた時から、更地はどんどん増えていったものなあ。新しいきれいなマンションも建った。
わたしには残念なことだった。玉出商店街のあたりなんて、すごいさびれたところもあって、そこに古い町屋なども見えて、独特の世界だったのだけれど。
古い長屋などもあって、わたしたちは大阪市内にも面白い散歩コースが身近にあるもんだなあと、きょろきょろしながら歩いた。
玉出は元は西側が栄えていたそうだ。けれど西側は戦争で燃えてしまい、東側のこのあたりは焼け残って、昔の姿を残しているそうだ。
国道26号線に出るけれど、そのまま道の続きへ。南海汐見橋線の高架下をくぐり、地名は塩路だった。
ここも古い建物が多くて、大きな町屋みたいな建物もあった。
粉浜、玉出、塩路と路地道もいっぱいで、裏長屋(道路に面していない長屋)の感じを残すところもあったりした。
散歩しているとたまにイタチに出会う。最初は驚いたけれど、空き家になった長屋なども多いから、けっこう大阪市内にも生息しているみたい。このあたりでも出くわしたな。
橘、松、梅南、聞いたこともなかった地名を歩いた。
これは・・・開拓によって地名をつける必要が出てきて、植物の名をつけてみたって感じなのかな。
地名もまた楽しめるってことにも気づき始めた頃だった。地名はけっこう物語る。たとえば粉浜なんて、よく考えて見れば「浜」で、海沿いだったことが分かるものな。このあたりの場合は「新田開発されたところかな?」って推測できる。
後で知ったことには、粉浜の「こ」の由来はよく分かっていなくて、住吉大社の改築などのための木を仮置きしていたから木浜、そこから粉浜になったとか言われている。ほか、10代崇神天皇が宮を持っていたという「桑間」の地で、「くわま」が「こはま」に変わったという説もあるみたい。
わたし的には、宝塚の小浜ともなにか関係があるのじゃあ・・・とか思っている。宝塚の中山寺には忍熊王やその母の墓とされる古墳などもあって、近くには小浜がある。住吉はその忍熊王が一時退避していたところで、近くには粉浜がある。
松には「敷津松之宮旅所」があった。
この先、大国町駅すぐに木津勘助像のある神社があって、そこが大国町の地名の由来になった大国主神社。大国主神社というか実は敷津松之宮で、大国主神社はその摂社(同じ境内にある神社)なのだって。
ここはその敷津松之宮の旅所らしかった。旅所はまあ「本店・支店・出張所」でいえば出張所みたいなものかな。
このあたりはすっかりコンクリで固められた都会になっていて、唐突感が否めなかったけれど、かつてはここも農村で、そこに旅所があったのだろうなあ。
梅南には「梅南座」なるところがあった。わたしが初めて見た大衆演芸の劇場で、初めてだったからびっくりした。こんなこてこてのものが現存しているんだ・・・。
もう少し行くと鶴見橋商店街だった。大国町から大阪メトロ四つ橋線で1つ南の花園町駅があるところ。
こてこてで、とてもにぎわっている商店街だった。
これも後で知ったことには、この西の方には木津川が流れていて、その向こうは大正区。その木津川沿いには明治、大正、昭和初期とかの水運の時代、大きな工場が林立。東洋のマンチェスターと呼ばれたという大阪の中枢を担っていたのだって。
伊丹に移転していったけれど、飛行場も一時は木津川近く(大正区)にあったというくらい。
それまでは水鳥がいた風光明媚な農村だったそうだ。それが、見る間に煙や汚染排水で黒い町になったそうだ。
まだ電気じゃなく蒸気機関を使っていたような時代には、がんがんがんがん蒸気機関が鳴る。煙がもうもうと上がる。水鳥の羽が黒くなる。飛べなくなって死ぬ。
仕事はいくらでもあって、各地から働き手が大挙しておしかけて来たそうだ。長屋がずらりと建ち並び、それもあって「田園地帯の高級住宅地」天下茶屋が帝塚山にとって代わられたのかな。
たくさんの工員が通ってにぎわったので、鶴見橋商店街はできていったのだって。それまでは鶴を見られるようなところだったのだろうなあ。
工員さんたちはここを通って、こぞって新町遊郭に歩いて行っていたのだそうだ。新町遊郭は四ツ橋の北あたりにあった遊郭。
もう十分歩いたなあと思って、帰ることにした。
木津や難波はもう少しだったけれど、まだ「街道を歩きとおす」なんてことには重きを置いていなかった。
いろいろ見られて満足して、帰途に。どうせこの先は思いきり市街地で、街道なんてほぼ残っていないだろうというのもあった。
地図で見ても、街道は残っていない。木津川沿いの林立する工場は戦争の時には空爆の標的になり、焼け野原になったというのもあったのだろうな。
想像してみるに、ここから少し東寄りに北上して大国主神社へ。更に北上して難波八阪神社あたりを通って木津卸売市場あたりに通じていたのじゃないかな。
天下の台所だった大阪は、地元野菜も豊富だったそうだ。
勝間(南瓜、木綿)、難波(ねぎ)、天王寺(蕪)、田辺(大根)、木津(瓜)、今宮、津守、粉浜。
みんな村で、大阪市には編入していなかった時代。
野菜の売買を行えたのは、天満にあったおかみ公認の市だけだったそうだ。荷車に載せて野菜を運ぶには遠かった。
そこで農家がかけあって、やっと天満の富裕層の専売を解いて開設されたのが木津難波市場、今の木津卸売市場らしかった。難波八阪神社には木津難波市場の開設を認めてくれた代官、篠山さんを祀る篠山神社も合祀されている。
勝間街道は、粉浜や勝間や津守から木津に野菜を運ぶ道でもあったんだな。
けれどどうして「木津街道」や「住吉街道」ではなくて、「勝間街道」と呼ばれたのかな。
もしかしたら、元の目的地は勝間だったのかな。
天下の台所だった江戸時代、それよりもっと以前、玉出では武器がつくられていたという噂を耳にしたことがある。
その頃、玉出(勝間)は環濠集落で、明治時代の頃にはまだその名残もよく残していたそうだ。今も玉出に残っている古い地蔵は、村の出口を守る出口地蔵だったものなのだって。
勝間環濠集落には武器をつくる集団がいて、もしかしたら住吉や難波あたりから武器を求めて人がやって来ていたのかも・・・。そこは勝間道と呼ばれていて、後に木津まで行くのにも使われるようになった、とか・・・。ただの妄想かな。
帰りは面白そうな道を適当に歩いた。南海汐見橋線の西天下茶屋駅あたりにたどり着いていた。
ここが商店街のいりくんだところで、しかもちょっとさびれていて、かなりレトロ!
昭和の時代に紛れ込んだかと思った。昔にNHKの朝ドラの舞台にもなっていたところらしかった。
あと、千本北の汐見橋線の高架を西にくぐったところでは、なんだここは、と一瞬たじろいだ。
古い時代のアパート、文化住宅のような集合住宅にとりかこまれていた。アパート、アパート、古いアパート、目を疑うような角度の階段のアパート、規模の割にドアのいっぱい並んだアパート。
一列に並んでいても壮観だっただろうけれど、なぜか囲まれていた。ぽっかりと空間があって、その周りにアパートが幾重にもその空間を見下ろして建っていた。
なんだか異空間に迷い込んだみたいだった。
思いがけず帰りも面白かった。
後に、また千本北に行ってみたけれど、あのアパート群の中の空間にはたどりつけなかった。みんな取り壊されたのか、見逃したのか、一瞬の目の錯覚だったのか。
錯覚だったのでも、わたしの中では忘れられない光景になっている。




