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大阪を歩く犬  作者: ぽちでわん
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住吉街道を長居公園へ

それからまた近場をいろいろ散歩する日々だった。

主に行くのは住吉公園。

歩いて長居公園まで行ってみたりもした。かなり広い公園だった。むかしには競馬とか競輪とかも行われていたのだって。

広いだけにいろんなスポットがあって面白かった。ここでいろんな花や木や鳥も見たな。

桜が春だけに花を咲かせる木じゃないと知ったのもここだった。秋に咲く桜や春に咲く桜があって、ただそこらじゅうで咲くソメイヨシノが春の花だから、桜は春だと思われているだけ。

そのソメイヨシノは、江戸時代に職人がつくりあげた品種なのだって。だから弱いし、寿命は短いし、自然交配もほぼしない。接ぎ木によって継承されている品種で、ほぼすべてが江戸時代につくられた桜のクローン。だからほぼ同時に咲き、同時に散るのだって。


長居公園の近くには「住吉街道」の碑があった。

そこに住吉大社に向かう古い道があって、住吉街道と呼ばれていたのだって。

というか、住吉に向かう道はみんな「住吉街道」とか「住吉道」。紀州街道も北から住吉大社に向かう部分は住吉街道とも呼ばれていたし、八尾街道なる道も、平野から住吉へ向かう部分は住吉道でもあった。

喜連にも住吉道があって、後には松原市でも住吉道にであった。

長居公園近くの住吉街道は、もしかしたら喜連からの住吉街道と松原の住吉街道が合流した道だったのかも。


一度、その住吉街道を住吉大社から長居公園まで歩いてみた。

住吉大社の東、楠珺社近くの門から出ていくと、住之江味噌のある辻に出る。

ここで交差するのが熊野街道。そのまま東に向かう道が住吉街道。

すぐ「ハット屋パン」とある商店がある。今は閉まったままだけれど、その頃は夏だけオープンしていて、パンではなくソフトクリームが売られていた。かたいのかふつうのか選べて、わたしも2回だけだけれどもらったことがある。

冷たくてすご~くおいしかった。「かむ」のじゃなく「なめる」って食べ方を初めて知った夏だった。


それからすごく古い町屋があった。

もう壊れそうなくらいの古さだったけれど、かろうじて残り、「すみよしギャラリー」と書かれてあった。

そこは、帝塚山や北畠あたりもみんな住吉村だった時代の村長さんのお宅だったそうだ。

公共の場としてかろうじて残されていたのだろうなあ。その裏手は中庭だったところと見えて、素敵な隠れ家みたいな公園になっていた。

更に奥には村長の家業だった油屋の蔵。ここが商品などをしまう蔵で、中庭には井戸などがあって、「すみよしギャラリー」が商店だったのかな。

蔵は「太田家蔵」として今も残されている。けれど「すみよしギャラリー」のほうは壊されてしまった。しばらく更地になっていた後、大きなマンションの建設が始まった。

こうしてどんどん変わっていくのだろうなあ。

わたしが生まれてたかだか5年だけれど、その間にハット屋パンで「かたいほうください」と言うこともなくなり、村長さんの街道沿いの家だった古い建物もなくなった。


それから南海高野線の踏切を越えて、浄光寺。油かけ地蔵が有名なのだって。油をかけて願掛けされていたらしく、油で黒くなっている。

竹下家住宅なる旧家があり、わたしには関係がないおしゃれなヤマダカフェがあって、荘厳浄土寺。住吉三寺の1つだったというお寺ね。

平安時代の創建だそうだ。後に衰退していたのだけれど、平安時代後期、白河天皇に請われて津守氏が再建したのだって。

少し歩いただけでいろんなものに出会った。今では住吉大社の裏手って感じの静かなところだけれど、かつては少し小高くなった丘に村長さんの家もある、村の中心のようなところだったのかな?


平安時代は、今とは違ってお寺が強力な武力を持ちはじめた時代だったみたい。

みんなが開拓民で、有力者だと開拓地や荘園を守る武力ももっていた。貴族も、寺社も。

お寺の武力は僧兵。そのうち寺は多くの僧兵を抱える一大名みたいになって、武力を行使するようになった・・・わたしのつぎはぎの知識では。

後には織田信長は寺社さえも敵とみなして倒したけれど、当時の寺社は戦う集団でもあったんだよね?

それはもう白河天皇の頃には始まっていたのかな。白河さんは法皇時代、延暦寺の僧兵に手こずるなあと愚痴っていたみたいだし・・・。

白河天皇が津守さんに寺を再建させたのは、もしかしたら武力を確保するためもあったのかも。荘厳浄土寺は浄土教の寺で、流行していた浄土教を信じる者を僧兵としてゲットできただろうし・・・とか今は思う。


それから月日が流れ、荘厳浄土寺で後村上天皇が父の法事を行っている。

後村上天皇は、南北朝時代の頃の南朝の人。吉野で南朝をひらいた後醍醐天皇の息子で、南朝の次の天皇になった。

後醍醐天皇には息子がたくさんいたけれど、次々戦死。残った若輩の後村上天皇が南朝を継いだのだって。

でも、北畠顕家も楠木正成も亡くなっていたし、地方の武士たちは多くが北朝に味方したし、もうそんなに勢いはなくて、吉野を出て各地を転々としていたそうだ。最後は住吉の津守さんのお宅に住んでいたのだって。

津守さんもまた南朝の将でもあったのかな。そして住吉三寺(住吉大社の神宮寺と津守寺と荘厳浄土寺)の僧兵たちをまとめていたのかも。後村上天皇は津守さんの僧兵たちに守られて、住吉に暮らしていたのかも。ただの想像だけれど。


荘厳浄土寺あたりまでは面白かったけれど、あとはあべの筋に出て、そのまま道なりに東にてくてく住宅街を行くだけだった。

見所の無い住宅密集地が続いた。少し殺伐としていて、「犬の散歩お断り」「犬立ち入り禁止」「犬にフンさせるな」「迷惑しています」等々の貼り紙がかなり目立っていた。

それから長居公園通に出て、ここに「住吉街道」の碑。


少し北側には神須牟地神社なる神社があった。

須牟地は「すむぢ(すむち)」。なんだか雄略天皇の時代に関わるような神社らしい・・・あいまいな知識を得て行ってみたのだけれど、住宅街に唐突に現れるただの小さな神社に思えた。

なあんだ、と思って長居公園へ。


まだ何も知らなかった。

平安時代に編纂された主な神社の目録「延喜式神名帳」ってものがあり、そこに掲載されている神社を「式内社」と呼ぶこと。そこには摂津国住吉郡の神社として神須牟地神社が記載されていること。

けれど時代が流れて、戦いなども何度もあって、所在不明に。

後に江戸時代、所在不明になった式内社がどこにあったかあたりをつけて碑をたてることになり、神須牟地神社は「三宮」と呼ばれていたここに決められた。

本当にここにあったかどうかは不明。けれど神須牟地神社と名前も改められた。

平安時代の頃、まだ漢字は音を表すのに使われていた。スには須、ムには牟の文字が使われるのはパターン。けれど「スムチ」が何を示すのかは不明。住吉郡の式内社には他に「中臣須牟地神社」と「須牟地曽根神社」もあった。

スムチは住道とも書かれ、今の「住道すんじ」の地名はそこからきているとされている。

そのあたりに古代から住んでいたのは中臣氏。後に藤原氏となった中臣鎌足の子、藤原不比等はそこに住道寺を建てている・・・。

そんなことはまだ何も知らなかった。

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