第5話 黄泉人
須賀島の神社には、空に無数の手を差し伸べたような枝を持つ千年桜がある。千年桜の幹は、五人の大人が手をつないでも今は抱えることが難しい。その桜が少女の腕のように細かった頃、須賀島にも海女がいた。
そこの海女は、潮の流れが早い海を舟で漁場へ行き海に潜った。海女たちがのる舟は、海女頭のばばさまと年老いた元蔵だけが持っていた。ばばさまは海でのとり高の多い海女たちを自分の舟にのせ、人のいい元蔵の舟には若い海女たちがのっていた。それは、舟代もふくめて海女たちからとった物の三割を差し出させていたからだった。
その日、海女小屋では、海女たちを前にして、海女頭のばばさまが話をしていた。
「海の岩から生えたように人がいることがある。黄泉人じゃ。近づいたら、いかん。すぐ上がってくることじゃ」
「もし、上がらずに、潜り続けたらどうなる?ばばさま」と、一番若い海女がやさしい声を出す。近頃は、この若い海女が、ばばさまの相づち役を買って出ていた。
「黄泉人は海で死んだ者じゃ。恐ろしいことが起こる」
「恐ろしいことって、なんじゃ?」
「黄泉人に、触りたくなる」
「触ると、どうなるんじゃ?」
「触った者は、黄泉人になってしまう!」
黙って話を聞いていた若い海女の一人、菊は日にやけた顔をこわばらせていた。なぜなら、菊は黄泉人に会っていたからだ。
それは、三日前のことだ。
その日、菊たちは、いつもの海に潜ったのだが、鮑も栄螺も、みつからなかった。理由もないのに、海にはそういう日がある。舟の上にあがった若い海女たちは顔を見合わせると、すぐに元蔵を見あげた。片まゆをあげ赤銅色の額に三本の深いしわをきざむと、元蔵は何も言わずに櫓をあやつり、舟を蝋燭岩岬へむけたのだった。
蝋燭岩岬は、蝋燭のように長く黒い大岩が海から突き出している所だった。大岩の周りの海はおうとつのある岩場が広がり、そのすぐ先は海の色が変わるほど急激に深くなっていた。だが、どういうわけか、この岩場には、たくさんの鮑がとれる。その魅力に引かれて潜り死んでいった海女がたくさんいたのだ。だから、年嵩のある海女たちは、このあたりに近づこうとはしなかった。
菊は、若い海女の中で、一番深く、そして長く海にもぐれる自信があった。鮑とりに夢中になり、菊はいつもより深い岩場まで潜っていた。奇妙な気配を感じた菊は、そちらの方に顔をむける。誰かが上半身をまるで海藻のように揺らしていた。
ねえさま、静ねえさま!
顔を見た菊は胸の中で声を出し叫んでいた。とおった鼻すじ、切れ長の目、長い髪。白い顔の女は、きれいだった姉、静によく似ていた。いや、姉の顔だった。その姉は両手ですきとおった玉を抱え揺れていた。
姉、静も海女をしていた。静は島に来ていた行商人が好きになり、島から出ていった。その晩のことを菊は今も覚えている。静は、菊にだけ都に行って幸せになるからと言い、うれしそうに笑って、夜の闇に消えていった。
だが、ここにいる静は、どうだろう?
何か、言いたげで、悲しそうだった。思わず、菊は姉に似た黄泉人に近づこうとして、すぐに止めた。さらに、たくさんの視線を感じたからだ。菊は、岩場をゆっくりと見廻した。岩場には、たくさんの白い人たちが体を岩から突き出し、揺れていた。その人たちも、玉を抱えていたのだった。
もう、菊の息は続かない。菊はすぐに岩をけり、立ち昇る泡とともに、海面にむかった。舟に上がっても、菊の体は震え続けていた。しかし、菊は黄泉人に会ったことを他の海女たちに話すことはなかった。
波間から遠くに陸が見える。その陸から須賀島にむかって風が吹く時があった。風が吹くと、行商人たちは、舟に島で売れる物をめいっぱいに積み、柱をたて、それに莚帆をはると風を受けて島にやってくる。そして、物を売って空いた舟に今度は島でとれた海の物をのせ、北に向かう潮にのり陸に戻っていった。
そんな行商人たちの一人、名を佐吉と言った。菊は薬を佐吉から買っていた。姉の静がいなくなってから、母の体の具合は悪くなり、床に臥せていたからだ。母も、体をこわす前は海女だった。佐吉から買った薬を母に与えた時だけ、具合が良くなる。だから、菊の取った物の多くが、薬代として佐吉に渡っていた。
島の者でないこともあり、菊は佐吉に黄泉人の玉の話をしてしまった。すると、佐吉の目が怪しいくらいに輝いたのだ。それを手にいれ、身分の高い人のところに売り込めれば、大金持ちになれると、佐吉が言った。だが、金持ちになることは、菊には関心がなかった。
「かかさまの薬、なんぼでも貰える?」
「いくらでも、いい薬を都から持ってきてやる。それに二人でいい暮らしができる」
「かかさまも、一緒でいいのか?」
「かかさまも一緒じゃ。そのかわり、一つでもいい、とってきてくれるか?」
思わず、菊はうなずいていた。
その日は、空一杯に雲が広がり、どんよりとして暗かった。こんな日には、誰も海に出るものはいない。海が荒れることがあるからだ。陸に戻らなかった行商人たちは島で一つしかない宿屋に引きこもっていた。だが、舟つき場に菊が行くと、佐吉は自分の舟にのって待っていた。菊が佐吉の舟にのると、佐吉は櫓をこぎだした。舟が蝋燭岩岬の海につくと、すぐに菊は海に飛び込んでいった。
菊が深い海まで潜ると、まるで待っていたかのように岩の間から姉の顔を持つ黄泉人が出てきた。その顔には、なつかしさが浮かんでいる。菊は黄泉人に近づく。菊が手を伸ばし、玉をとろうとすると、黄泉人は驚いたように玉を胸に抱え込んだ。菊は、それでもさらに手を伸ばす。すると、なぜか、あきらめたように黄泉人は自分から手を伸ばし、玉を菊の方に差し出してきたのだ。菊が玉をうけとると、黄泉人は吸い込まれるように岩の間に戻っていった。戻る時に、姉の静が悲鳴を上げたように菊は思えた。
ねえさま!
菊の中に大きな後悔が生まれた。もし、もう一度、黄泉人が姿を現したら、玉を返そうと思った。だが、静の姿をした黄泉人が出てくることはなかった。
それに、いつまでも潜っていることはできない。苦しくなった菊は、玉を両手で抱え、立ち昇る泡とともに海面にむかっていった。舟の上にあがった菊は、苦しそうに何度も息をつきながら、玉を佐吉に差し出した。
そんな時、雲と雲の間にかすかな切れ目ができ、ひとすじの日差しがこぼれた。日差しは糸のように伸びてきて、玉にあたり、玉は怪しく光った。すると、玉を持つ佐吉の顔がみるみる変わった。彼の顔からやさしさが消え、眼が釣りあがり、もはや人の顔ではない。
「だれも会わずにここにきたよな?」
菊は、うなずいていた。佐吉はふところから小刀をとり出すと、すばやく菊の首に切りつけた。菊は声をあげることもできずに、のけぞるように海に落ちていく。菊が海に沈んでいくのを見定めると、佐吉は陸にむかう潮にのるために舟の櫓をこぎだしていった。
首から出た血は赤く長い帯となって海をただよい、菊は黒い岩場の上にゆっくりと落ちていった。しばらくして、岩の間から菊が玉を抱いて現れた。だが、前のような菊ではない。白い顔をしている。菊は黄泉人となっていた。菊はうらめしげに遠ざかり点の大きさとなった佐吉の舟を見あげた。その時、辺りの岩場から、次から次へとたくさんの黄泉人たちが姿を現したのだ。黄泉人たちは、一斉に口を開けた。かれらの口から、無数の泡が立ち昇る。それは、菊の悲しみを歌ってでもいるかのようだった。
すると、黄泉人たちをのせた岩場が動き出した。真っ黒な大岩が、海の底をすべるように動く。いや、それは大岩ではなかった。数えきれない年月を生きた大鮑だった。大鮑は、佐吉の舟の真下にまでくると、向きを下にむけ深い海に潜り出したのだ。それは、黄泉人たちを生きている人には、もう会わせたくないとでも思っているようだった。海に大渦巻が起こり、佐吉の舟もその渦の中に飲み込まれていった。
そして、その晩から嵐になった。
海女頭のばばさまが、須賀島の神社にこもり、三日三晩の祈りを終えるまで、海が静けさをとり戻すことはなかった。




