第4話 桜 夢
「為吉、桜、見に行きてよう」
為吉は顔をあげて母を見た。
背を丸めて、母は竹籠に腰を下ろしている。昨年ならば、為吉に声をかける事も無く、かってに九戸城の堀沿いの桜を見に行っていた。だが、それができない。冬の間に凍った道で転んで、腰と膝をいためていたからだ。膝を伸ばして座っていられる竹籠は為吉が作ったものだった。父が早くに死んでから、母がどんなに苦労して育ててくれたのか、為吉は忘れてはいない。下駄作りの方法を教えてくれ、なんとか食っていけるのも、母のおかげだった。
「しようがねえな」
そう言って、為吉は立ち上がり、体についていた屑をはらった。母を背負うと家を出た。裏通りをとおり、堀沿いへ出る。立ち並ぶ桜は花びらを散らし、行きかう人たちの華やいだ声も身近に聞こえ出していた。
「為吉、おろしてくれや」
突然のように、母が言った。
「おっかあ、それはだめだ。おっかあは歩くことができねえべ」
「為吉、大丈夫だ。おろしてくれや。歩ける気がする」
何度もそう言われて、為吉は母を下ろした。為吉は母がすぐに音をあげて、背負ってくれと言いだすと思ったのだ。
だが、違った。
母はかけ出して、人込みの中に紛れてしまったのだ。
「おっかあ、急がんでくれや」
あわてて為吉は母を追った。だが、母の姿は消えうせたように見えなくなっていた。
何度も行き来をし、為吉は母を呼びながら捜した。やがて、為吉の声がつぶれ出した頃、人混みの中から母が現れた。
「おっかあ、どこさ、行ってた?」
為吉に笑いかけてきた母は若くなっていた。それも父生きていた頃の若さだった。そんな母を見て為吉は泣き出してしまった。
「おっかあ。どこに行っていたんだ?」
すでに為吉は大人でなくなっていた。
為吉は五歳の子になっていたのだ。
母に連れられて桜を見にきて、母とはぐれた。あの懐かしい時の中にいた。
桜の木の下で寂しさと孤独感に襲われ泣いていると、母がやってきて為吉を抱き上げてくれた。甘酸っぱい臭いと母の胸の柔らかい感触が甦ってくる。
このままで、ずっといたい。そう為吉は思い、泣き続けていた。
だが、笑いながら近づいてきた母は為吉を抱き上げてはくれなかった。
そのかわり、為吉の両肩に手を置いて軽くゆすった。
「おとう、しっかりしてけれ」
そう言われて、為吉は、自分が幼子ではないことに気がついた。
「おとう。ばあちゃは、五年前に死んでいるでねえか」
「死んでいる?そう、そうじゃったな」
たしかに、母は死んでしまっていた。眼の前にいるのは、娘の佐代、今はすっかり昔の母のような顔だち、いや。母と同じ顔になっていた。
「年を取ると、何もかもが、分かんなくなるんだな」
「それは、桜のせいだべ。おとうが、桜を見たがっていたから、連れて来てやったのに、突然走り出すんだもの」
「そうだな。桜の下を歩いているだけで、昔に返ることができる。いや夢を見ていた」
桜木を見あげる為吉のしわのある顔に向かって、桜の花びらはやさしく散り続けていた。




