第2話 天井の鬼
天保年間、神田にある小間物屋の卓造夫婦が流行病で死んだ。それをいいことに、手代の只吉は家族を連れて家に入り込み店を乗っ取ってしまった。卓造夫婦には一人娘の加代がいた。まだ十にも満たない加代を只吉は下働きとして使い出したのだ。加代は、言われるままに掃除でも炊事でも何でもやった。だが、食事の時、箸の持ち方や食べる時にたてる音がうるさいなど、只吉の妻は加代に文句を言う。なるべく飯を食べさせないようにするためだ。ついに昼を加代に食べさせないことを思いついてしまった。
その日の昼も、只吉夫婦とその子たちが食事を始めた。そばにいるわけにはいかない。だが、どこにいても、空腹の加代のところに、食べ物の匂いが届いてしまう。たまらなくなった加代は縁台から庭にでた。庭の端に倉が見えた。あの中ならば、匂いは届かなくなるはずだ。
そう思い、倉の木戸に加代が手をかけると簡単に開いた。それは、戸に錠前をかけてなかったからだった。倉には、加代の両親が貯めた品物がたくさん入っていたのだが、只吉がすべて売り払い今は何もなかった。がらんとした中で加代は板壁を背に膝を抱えてすわりこんだ。そして、加代は空腹と寂しさで泣き出していた。
そんな時に、ホッホッホッと声が聞こえた。
風の音だろうか?
思わず、加代は声が聞こえた天井を見上げた。板が張っているだけで何もない。それでも、じっと見つめていると、不思議なことが起こった。
板目模様の中に鬼が見えだした。その隣に馬がいた。その横には鳥もいた。加代が見ていると、鬼は腰を振って踊りだしたのだ。さらに馬は駆け出し、鳥は羽ばたいていた。古くなった物には命が宿ることがあると、死んだ父が加代に言っていた。天井の鬼たちにも命が宿ったのかもしれない。
加代は、笑った。鬼は間違いなく加代を和ませようとしていた。馬の足音は聞こえだし、鳥もバサバサと音をたてて羽ばたき続けた。
次の日から昼食時になると、すぐに加代は倉の中に入っていった。板目模様の中で鬼は踊り、馬や鳥たちが動き回って、加代の空腹と寂しさを忘れさせてくれた。
鬼たちが慰めてくれる日々が続けば、それだけでいいと加代は思っていた。だが、そうはいかなかった。只吉たちは加代を人買いに売ることを考え出したのだ。それを加代が知ったのは、あの晩のことだった。
その夜に厠に行ったかえり、只吉夫婦の寝間の前をとおると部屋の中から声が聞こえてきた。思わず、加代は立ち止まった。二人の話から、繁盛しているはずの店に、借金があることがわかった。それには、加代にも思い当ることがあった。只吉は博打通いを始め、只吉の妻は高い反物など買い込んでいたからだ。そんな生活で生まれた借金を返すために、加代を売ろうとしていたのだ。
とうとう、その日がきた。
朝から只吉夫婦はやさしくなり、加代に真新しい振り袖を着せ頭にかんざしを挿してくれた。それは加代を人買いに高く売りつけるためだった。さらに、素直に人買いについて行かせようと思って昼の食事まで加代にとらせたのだ。いつも食べたいと思っていたのに、白いご飯がのどを通っていかない。思わず立ちあがり、部屋を飛び出ると縁台から庭におりていった。そして、加代は走り倉の中に入った。
加代は天井を見上げて、泣き出した。
「鬼さん、馬さん、鳥さん。ごめんね」
加代はもうここへは二度と来ることはない。そう、死ぬしかないと思っていたのだ。倉を出ると、加代は裸足のままで家の囲いから外に出ていった。そして、人の行きかう街を歩きだした。やがて、加代は、瓢箪池の前に来ていた。父や母と手をつないで来た時のことが懐かしく思い出されてくる。泣きながら、加代は足を水の中に入れ出した。見知らぬ男たちが走ってきて、池の反対岸に並んだ。
「いたぞ。かんざしをつけている。間違いないこの女だ」
「兄貴、上玉です、死なれちゃ、まずい」
男たちは人買いだった。こんな男たちに捕まってたまるものかと思い、加代は水の中にまた一歩と足を踏み込んだ。
すると、風が起きた。
風は渦をまき男たちを襲った。渦が男たちの顔や体にふれると、刃物で切ったような傷を作り、血を噴き出させたのだ。すぐに男たちは風に追われるように逃げ出していった。
渦は戻ってきて、池の上でとまった。
そして、加代が知るものに変わった。
「あっ、鬼さん」と、加代は声をあげた。
鬼は、池の上で腰を振り踊ってみせたのだ。何度もやって見せるので、ついに加代は笑いだしていた。そして、もう加代の中に死ぬ気はなくなっていた。
突然、「さあ、手をつかんでおくれ」と声がして、加代は後ろを振りむいた。そこには、同じ年の末蔵が手を出していた。末蔵は、加代と幼馴染で旅籠屋の息子だった。幼子の頃には、高延寺の境内で一緒に遊んだことがあった。末蔵は裸足で歩く加代を見て、異変を感じ追ってきてくれたのだ。末蔵の手にひかれて水からでた加代は、すぐに池の方を振り返った。しかし、先ほどまで踊っていた鬼は、そこにはいなかった。
どこへ行ったのだろうか?
末蔵は、濡れた衣服は着替えが必要だと言って加代を自分の家、旅籠屋に連れて行った。末蔵の親たちも心よく加代を迎えてくれ、末蔵が熱心に聞くので、加代は自分が売られそうになった話をしてしまった。末蔵は顔をくもらせ、しばらくの間ここにいた方がいいと言ってくれた。そして、その晩から加代は旅籠屋に泊まることになった。
数日後、神田にある小間物屋に末蔵は様子を見にいった。末蔵が近所を聞きまわると、人買いの男たちが店で大あばれをしたことが分かり、月明かりの夜に荷車をひいて只吉家族が逃げ出すのを見た者もいた。
末蔵が戻ってきてその話をすると、加代は小間物屋に帰ると言い出した。すぐにでも、加代は天井の鬼にあって礼を言いたかったのだ。
やがて、末蔵は加代にせかされて小間物屋の家に行き、加代は庭にある倉に入っていった。天井を見上げた加代は「あっ」と声をあげた。鬼がいた所は、まるで剥ぎ取ったように、そこの板が裂けてなくなっていた。
「鬼さん!」と呼びかけて、加代は泣きだした。鬼が自分の生きる世界を壊してまでも、自分を助けてくれたことを知ったからだ。いくら見ていても、もう馬も鳥も動き出すことはなかった。
そんな加代をなぐさめるように、末蔵は背後から抱きしめていた。




