7話「師と弟子」
7話「師と弟子」
パカンッ!
乾いた音が、静まり返った昼下がりの裏庭に響き渡った。
何度目かの挑戦で、ようやく太い薪の割れ目に斧の刃が食い込み、左右へと綺麗に爆ぜた。
かつてモンフォール家の令息であったルシアンは、いまや廃墟と化した礼拝堂の裏手で、荒い息を吐きながら薪割りに精を出していた。
薪割りとて、彼にとってはただの肉体労働ではない。
木目の走り方、年輪の粗密、刃を当てる角度。持ち前の知性をフル回転させ、極めてロジカルに斧を打ち下ろす。
理論の拠り所は、もちろんアリストテレスの自然学だ。
(……重いものは、本来あるべき場所である大地へ向かって、自ずと落ちていく。ならば斧も、ただその自然な運動に任せればよい。余計な力など要らないはずだ)
完璧な理屈だった。
……が、斧の刃は薪の表面で、こつん、と情けない音を立てて跳ね返された。
「……なぜだ」
アリストテレスは間違っていない。間違っているはずがない。ならば悪いのは薪の方だ。
ルシアンは結局、理屈を放り出して、何度も、何度も、不器用かつ必死に斧を振り下ろした。薪一本割るだけで汗だくになり、息が切れて膝が震えた。
「はぁ……はぁ……ッ」
斧を地面に突き立て、疲れ果てて自分の手元を見つめる。
かつて、柔らかい紙をめくり、最高級の羽ペンを滑らせるためだけに存在していた、白く繊細な指先。
いまやその皮膚はあかぎれで荒れ、手のひらにはいくつもの豆が潰れて、赤く腫れ上がっていた。
(なぜ……なぜ僕が、こんなことをしなければならないんだ……)
額から流れる汗を袖で拭いながら、胸の底で不満が渦巻く。
(僕は一応、歴史あるモンフォール家の血を引く、高貴な身分のはずなのに……)
あの夜から、数日。
ヴェリタスを暴いて亡き父に意趣返しをしてやると大口を叩いたものの、現実に彼を待っていたのは、真実の探求どころか、明日生きるための薪を割り、水を汲むという、ひたすら地味な毎日だった。
やがて、坂の下から規則正しい杖の音が近づき、身の丈ほどもある杖を突いたイムホテプが、礼拝堂へと戻ってきた。
ルシアンは薪に斧を突き立てたまま、冷め切った眼差しで、その小さな背中を睨みつけた。
(あの老いぼれ……いつもいつも、一体どこをほっつき歩いているんだ。ヴェリタスの何たるかも教えず、ただ僕を都合のいい雑用係として使っているだけじゃないか。本当に信用していいものか……)
胸の中で悪態をつきながらも、ルシアンは深いため息をつくしかなかった。
イムホテプは、薪割りや水汲みといった雑用の見返りとして、ルシアンに最低限の衣食住を与えてくれていた。
いまの自分には、行くあてなどどこにもない。もし街に出て役人や知人を頼ろうものなら、モンフォール家の生き残りとして即座に密告され、あの灰色の外套たちに首を刈られるのが落ちだ。
街外れの打ち捨てられた廃墟と、この謎めいた異邦人の懐。それこそが、十五歳の彼に残された、唯一の居場所だった。
イムホテプは、使い古された革の鞄から一枚の紙を取り出すと、無造作にルシアンへと差し出した。
「……お前の一族のことが、街の刷り物に載っていたぞ」
「え……?」
ルシアンは荒れた指先でそれを受け取り、陽の光にかざした。
街角で売られている、安い新聞だった。怪物の出現だの、奇跡の治癒だの、処刑の様子だのを面白おかしく書き立てる、庶民の娯楽だ。粗悪なインクで刷られた紙面の隅に、小さな見出しとともに、冷淡な記事が載っていた。
『マレ地区のモンフォール邸、全焼。旧教同盟の暴徒による仕業と見られる。
焼け跡より多数の遺体。当主モンフォール卿をはじめ、一族および使用人、全員死亡』
ルシアンの口元から、思わずひび割れた笑いが漏れた。
「……ふっ、はは……僕、死んだことになってますね。……笑えるな」
生きているという事実すら消し去られ、紙の上で死者となった自分。
貴族として持っていた名誉も地位も、すべてが焼け落ちた灰とともに消え失せたことを、その粗末な紙切れが残酷に告げていた。
だが、笑いながら、ルシアンの頭の片隅は冷たく動いていた。
(……全員、死亡)
焼け跡から、自分の遺体だけは出てこなかったはずだ。それでも、刷り物は全員死亡と書いている。
数を数えなかったのか。それとも、数が合わないことを知っていて、そう書かせた者がいるのか。
紙を持つ指先に、わずかに力がこもった。
「案ずるな」
少年の複雑な顔色を読み取ったかのように、イムホテプが静かに言った。
「奴らは、お前が生き延びていることになど気づいておらんよ」
「……なぜ、そう言い切れるんです」
「お前は、敵の死体からその外套を剥ぎ取ったと言ったな」
老人は朱鷺の杖に身体を預けたまま、淡々と続けた。
「外套も仮面も剥ぎ取られた死体が、煙の立ち込める屋敷の階段に転がっていた。……その死体の背丈は、お前とさほど変わらなかったのだろう? それが屋敷ごと焼けたのだ。激しい炎の前では、顔の形も、身なりも、何もかもが同じ黒に焼け焦げる」
ルシアンは、はっと息を呑んだ。
「……まさか」
「奴らは焼け跡から、少年の背丈をした焼死体を一つ見つけた。それを、モンフォール家の最後の一人、すなわちお前の遺体だと思い込んだのさ。消えた仲間の一人は、逃げ遅れて火に巻かれたものと思っておるだろう」
イムホテプは、ルシアンの手の中にある粗末な紙面に目を落とした。
「お前の遺体は、ちゃんとあの焼け跡から見つかったのだよ。……奴らの、仲間の死体として、な」
ルシアンは、しばらくの間、一言も発することができなかった。
あの夜、生き延びるために剥ぎ取った外套。
込み上げる吐き気を噛み殺し、冷たくなりかけた身体から剥ぎ取って、震える肩に羽織った、あの血の染みた灰色の布。
それが、いまもなお自分を追手から隠し、死者の列に紛れ込ませてくれているというのか。
「……まったく、悪趣味な皮肉ですね」
「生き延びる者というのは、たいてい、こうした皮肉の上に立っておるものだ」
イムホテプはそれだけ告げると、これ以上話すことはないとばかりに杖を突いて、礼拝堂の奥の暗がりへと消えていった。
ルシアンは、手の中の刷り物をもう一度、じっと見つめた。
『全員死亡』
紙の上の自分は、もうこの世にいない。
名も、家も、血筋も、すべてはあの夜の炎とともに燃え尽きた。
ならば、ここから先を生き抜くこの身体は、一体誰のものだというのだろう。
*
夜のとばりが降りた礼拝堂の片隅。
小さな木の食卓の上に置かれていたのは、お世辞にも豊かな夕食とは言えないものだった。
湯気の立つ、具のひとかけらもない塩味だけのスープ。そして、石のように焼き締まった、保存用の硬い黒パンが一つ。
ルシアンは眉をひそめながら黒パンを小刀で削ぎ切り、どうにか一口分を口に放り込んだ。だが、口の中の水分をすべて奪っていくような感触に、たちまち顔が歪む。慌てて薄いスープで、無理やり喉の奥へと流し込んだ。
同じ黒パンでも、ガストンが運んできたものは、蜂蜜が塗られていて、温かかった。
そんなことを思い出しかけて、ルシアンはわざと大きな声を出した。
「このパン……硬すぎませんか。歯が欠けるかと思いましたよ。それにスープだって、あまりに質素すぎる。いくら貧乏だからって、市場で蕪の切れ端くらい拾えそうなものですが」
「贅沢を言うな」
イムホテプは硬いパンを器用にスープに浸し、淡々と口に運びながら言った。
「いまの私には、決まった稼ぎなどないのだ。長年かけて細々と蓄えてきたものを、少しずつ切り崩して生きている身なのだよ」
「……」
ルシアンは不満そうに口を尖らせると、自分の体に目を落とした。
イムホテプから与えられたのは、古着市で買い求めたという庶民の粗末な衣服だった。ごわごわとした麻の手触りは肌をちくちくと刺し、縫い目も雑で、一度でもまともに洗おうものなら、たちまち生地がほつれてしまいそうな代物だ。
(こんなボロ布……以前なら、雑巾にも使わなかったのに)
喉まで出かかった文句を、ルシアンはぐっと飲み込んだ。
ここでこれ以上わがままを言えば、この気難しい老人に「出ていけ」と言われかねない。そうなれば文字通り、明日にも野垂れ死にだ。
ルシアンは悔しそうに唇を噛み締めると、再び冷めかけた塩スープに黒パンを浸し、無理やり胃の腑へと押し込んだ。
質素極まりない夕食を終えても、ルシアンの手が休む暇はなかった。
木の食器を井戸水で洗い、昼間に命がけで(と彼自身は思っている)割った薪を暖炉にくべて、火を熾す(おこす)。さらに、イムホテプが床一面に散らかしっぱなしにしていた羊皮紙や古書を分類して積み上げ、挙げ句の果てには、腰の曲がった老人の着替えの手伝いまでこなす羽目になった。
一通りの雑用を終え、額の汗を拭いながら、ルシアンは心の中で盛大に毒づいた。
(……なんだこれは。居候の使用人どころか、これじゃただの老人介護じゃないか……!)
かつてモンフォール邸で使用人にかしずかれていた貴族の坊ちゃんが、いまや異国の老人の世話焼き係だ。
悔しさと情けなさで拳を握りしめ、一人で歯噛みしていた、その時だった。
暖炉のそばの古びた椅子に深く腰掛けたイムホテプが、温めた葡萄酒の杯を手に、静かに口を開いた。
「……ルシアン。そろそろ、ヴェリタスについて少し教えてやろう」
「……っ、本当ですか!」
先ほどまでの愚痴と屈辱は一瞬で吹き飛び、ルシアンは現金なほど目を輝かせて、身を乗り出した。
*
イムホテプは細身の葡萄酒の杯を膝の上に置き、暖炉で爆ぜる薪の火を見つめたまま、静かに口を開いた。
「その前に、一つ昔話をしよう。百五十年ほど前、イタリアにロレンツォ・ヴァッラという学者がいた」
「ヴァッラ……」
ルシアンは、すぐにその名を記憶の中から探し当てた。父の書斎の奥まった棚で、幾度か背表紙を見たことがある。
「ローマ教皇が西方の世界を統べる、絶対的な根拠とされてきた文書がある。コンスタンティヌス帝が、ローマとその周辺の土地を教皇に譲り渡したと記された、いわゆる寄進状だ。千年もの間、西欧の誰もが、それを疑わなかった」
老人は、古びた杯の縁を、乾いた指先でそっとなぞった。
「ヴァッラは、ただその文書のラテン語を読んだ。それだけだ。軍勢も動かさず、武器すら使わなかった。ただ、使われている言葉の移り変わりを、一語一語調べ上げた。そして、こう結論づけたのだ。この文書の言葉遣いは、コンスタンティヌスの時代には存在しない。後の時代の誰かが仕立て上げた、偽物だ、と」
ルシアンの喉が、思わず小さく鳴った。
「……言葉の矛盾だけで、教皇の権威を揺るがしたんですか」
「そうだ。千年の土台が、たった一人の学者の読み方ひとつで揺らいだ。その書物は後に、ルターという一人の修道士の手にも渡った。お前の国がいま血を流して割れている、この宗教戦争の、遠い火種の一つだ」
イムホテプは、ゆっくりと視線を上げ、ルシアンをまっすぐに見据えた。
「一冊の古本が、世界の支配者たちに恐れられるなど馬鹿馬鹿しい。お前は先日、そう言ったな」
「……っ」
ルシアンは、すぐには言葉を返せなかった。
それどころか、胸の奥で、かつてないほど熱いものが脈打ち始めていた。
言葉によって、権力を崩す。自分が寝食を忘れて積み上げてきた語学が、どんな剣よりも鋭い武器になり得る。そんなことを、これまで周りの大人たちは、誰も教えてくれなかった。
「では、ヴェリタスも……そういう類いの文書なんですか。歴史の偽りを暴くような」
「さあな」
イムホテプは、あっさりと言った。
「ヴェリタスが誰によって書かれたのかも、いつの時代のものかも、私には分からん。私が知っているのはただ一つ。それが、ある者たちが血眼になって、なかったことにしたがっている記録だということだけだ」
老人の瞳が、暖炉の橙色の炎を映して、鈍く光る。
「そして、その全貌を見た者は、おそらくこの世に一人もおらんよ」
「一人も……?」
問い返しかけて、ルシアンはふと口をつぐんだ。
その言葉の裏側に、奇妙な引っかかりを覚えたのだ。
「……待ってください」
ルシアンは、逸らしかけていた視線を戻し、老人を射抜くように見据えた。
「父上は、あなたの教え子だったんですよね。……もし父上がヴェリタスを隠したのなら、なぜ、師であるあなたが、その在り処を知らないんですか」
静まり返った礼拝堂に、薪の爆ぜる音だけが響く。
イムホテプは、しばらくの間、何も言わなかった。
やがて、杯に残った葡萄酒を一口だけ含み、静かに答えた。
「アドリアンが、私に教えなかったからだ」
「……なぜです」
「知らぬことは、拷問されても吐けぬからな」
老人の声は、どこまでも淡々としていた。
「奴らに捕らえられ、爪を剥がされ、骨を砕かれても、知らぬことは口にしようがない。アドリアンは、その隠し場所を誰にも告げずに死んだ。私にも、お前の母にもな」
ルシアンは、胸を突かれたように言葉を失った。
身勝手な男。
高潔な殉教者を気取って、自分だけ満足して逝った男。
そう吐き捨てた父が、最期の瞬間まで、自分の師を、そして妻を守るために、すべての秘密を一人で抱え込んでいたというのか。
「……そんなの、ただの言い訳だ」
喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
イムホテプは、その言葉に、あえて答えなかった。
ただ、空になった杯を暖炉の縁に置き、朱鷺の杖を突いて、ゆっくりと重い腰を上げた。
「今日の授業は、ここまでだ」
杖の音が、礼拝堂の奥へと遠ざかっていく。
その途中で、老人は一度だけ足を止めた。
「ルシアン」
振り返りもせずに、乾いた声が言った。
「一通の手紙だけで、人を知った気になるな。お前の父を裁くのは、ヴェリタスをその手に取ってからでも、遅くはあるまい」
コツン、コツン。
杖の音は、そのまま暗がりの中へと消えていった。
ルシアンは、暖炉の前に一人取り残された。
薪が爆ぜ、火の粉が小さく舞い上がる。
懐の封筒に、無意識に手が伸びていた。
開くことはしなかった。ただ、皺だらけの紙の感触を、指先で確かめるように握りしめていた。




