6話「始まりは全体の半分」
6話「始まりは全体の半分」
「信仰を……利用している、だと……?」
ルシアンは、胸元で頑なに組んでいた腕を、ゆっくりとほどいた。
イムホテプは身の丈ほどもある杖に痩せた身を預けたまま、礼拝堂の空っぽの壁龕を静かに見上げた。顔を削り取られた聖人の石像が、天窓からの月明かりの中で、白く虚ろに浮かび上がっている。
「奴らにとって、カトリックもユグノーも、どちらの教義が正しかろうとどうでもよいのだ。どちらが勝ち、どちらが滅びようが、知ったことではない」
「では、なぜ……」
「人はな、神の名のためならば、容易く隣人の首を刎ねられる」
老人の声は、風化した石のように淡々としていた。
「金のためでも、王への忠誠のためでもない。神の御心のためと信じ込んだ時、人はもっとも容易く、もっとも残酷な化け物になる。奴らは、その本質を誰よりもよく知っておる。旧教徒の中にも、新教徒の中にも、奴らの手の者が潜んでいる。互いの憎しみに薪をくべ、その炎が街を焼き尽くす陰で、自分たちの邪魔になる者を、ひとり、またひとりと闇から闇へ消していくのだ」
ルシアンの脳裏に、今夜の光景がまざまざと蘇った。
旧教同盟の暴徒に見せかけて、押し寄せてきた灰色の群れ。
だが、彼らは誰ひとりとして祈りを叫ばなかった。神の名を唱える者など、ひとりもいなかった。
(……あれは、信仰の熱に浮かされた者の殺し方じゃない。仕事だ。決められた手順をこなすだけの、始末だったんだ)
「十五年前の、あのサン=バルテルミの夜もそうだ」
イムホテプは、ゆっくりとルシアンへ視線を戻した。
「あの夜の惨劇のすべてが、奴らの仕業だったとは言わん。王家にも、ギーズ公にも、それぞれの思惑があった。だが奴らは、あの狂乱の夜を隠れ蓑に使った。何千という死体がセーヌ川に浮かべば、路地裏で死んだ一人の学者のことなど、誰の目にも留まらん」
ルシアンの指先が、ぴくりと動いた。
「……父上は、その中の一人だった、と」
「そうだ。アドリアンは、改宗を拒んで死んだのではない。ヴェリタスを奴らの手に渡さぬために、殺されたのだ」
礼拝堂に、重く冷たい沈黙が落ちた。
ルシアンは、握りしめていた灰色の外套の裾を、ゆっくりと手放した。
「……知っていたんですね」
少年の声は、低く、静かだった。
「父上は、分かっていたんだ。自分が狙われていることも、あの夜に死ぬことも。あの手紙にも、そう書いてあった」
「ああ」
「身重の母上がいることも。間もなく生まれてくる子供がいることも。全部……全部、分かっていたはずだ!」
静かだった声が、一音ごとに硬く、鋭く尖っていく。
「それでも、父上は逃げなかった。母上を連れて、どこか遠くの国へ逃げることだってできたはずだ。
なのに……たかが本のために僕たちの未来よりも、死ぬ方を選んだ」
ルシアンは、口元を引きつらせて、乾いた笑い声を漏らした。
「『赦しておくれ』……? たった一言で、すべてが赦されるとでも思っていたのか!」
胸の奥で、ずっと押し殺してきた冷たい棘が、熱を帯びて膨れ上がっていく。泥の中で手紙を読んだ瞬間から、見ないふりをし続けてきた感情だった。
「……どこまでも、身勝手な男だ!」
吐き捨てた叫びが、がらんとした石壁に跳ね返った。
「高潔な殉教者を気取って、自分だけ満足して死んでいったんだ。残された母上がどれほど苦しむか……生まれてくる子供が、どんな家で、どんな目で見られて育つか。そんなことは、少しも考えなかった。父上にとっては……僕なんかより、その古くさい本の方が、ずっと大切だったんだ!」
一気に言い切り、ルシアンは肩を激しく上下させた。
イムホテプは、何も言わなかった。
否定もせず、無礼を咎めもしない。ただ、落ち窪んだ黒い瞳で、血走った少年の顔を静かに見つめている。
やがて老人は、小さく息を吐いた。
「……お前は、激しく怒っておるのだな」
「当たり前だろ……っ!」
「そうか」
イムホテプは、手の中の古びた封筒に目を落とした。
「……お前の親族も、同じことを言っていたのではないか?」
ルシアンは、はっと息を呑んだ。
『お前の父も、正しかった。その結果がこれだ』
今夜の夕食の席で、杯を置き、自分を見もせずにそう言った叔父の声が、耳の奥で生々しく蘇る。
あれほど嫌い、見下していた男と同じ理屈で、いま自分は、死んだ父を責め立てていたのだ。
「……っ、違う!」
ルシアンは、喉をきしませながら叫んだ。
「叔父上とは違う! あの人は、何もしないことを正しさだと思い込んでいただけの臆病者だ! 僕は……僕はただ、事実を言っているだけだ!」
声が震えていた。その震えを隠そうとすればするほど、溢れ出す言葉を止められなくなっていく。
「母上だって、そうだ……!」
自分でも抑えきれない激しさで、ルシアンは言葉を叩きつけた。
「若くもなかったのに……身籠ったまま夫を失って、産めば体を壊すと分かっていて……それでも、なぜ僕を産んだんだ! 産んで、たった数年で僕を置いて死んで!」
固く握りしめた細い拳の関節が、白く浮き上がる。
「それに……これは一体、何なんですか!」
ルシアンは、老人の枯れ木のような手にある封筒を、激しく指差した。
「父上の遺書と、あなたの居場所を記した地図……
母上はこれを隠し通して、ガストンに託して、僕が大人になったら渡せと言い遺した……なぜですか!」
答えを待つゆとりもなく、胸の底の暗い泥が溢れ出す。
「まさか……僕に、父上の仇を取らせたかったとでも? 父上が守り切れなかったヴェリタスとやらを、今度は僕に、命を捨てて守らせるために?」
ひび割れた笑いが、喉の奥で引きつった。
「僕は……死んだ父上の代わりですか!死んだ男の続きをやらせるために、母上は命を削って、僕をこの世に産み落としたんですか!」
夜の礼拝堂に、十五歳の少年の叫びが、どこまでも反響した。
「僕は……親の身勝手のために産み落とされた、ただの道具なんですか……!」
言い切った瞬間、ルシアンは喉を詰まらせた。息が乱れ、うまく吸うことができない。
目の奥が、焼けるように熱い。
——だが、絶対に泣くものか。この異国の老人の前で、涙を流して、惨めな子供に戻ってたまるものか。
礼拝堂に、息の詰まるような長い沈黙が降り積もった。
イムホテプは、しばらくの間、身じろぎもせずに黙っていた。
やがて、朱鷺の頭が彫られた杖を石の床に静かに突き、ゆっくりと長椅子から腰を上げた。深く曲がった小さな体が、一歩、また一歩と、身構えるルシアンへと近づいてくる。
老人は、少年の目の前で、ぴたりと足を止めた。
ルシアンの胸の高さほどしかない、小さな体。
だが、その落ち窪んだ黒い瞳は、なぜか恐ろしいほど大きく、深く見えた。
イムホテプは静かに、ルシアンを見上げて言った。
「……言いたいことは、それで全部かね」
血走った目で睨みつけてくる少年の顔を、しばらく静かに見上げていた。
やがて、わずかに息を吐き出すようにして口を開く。
「残念だが……その問いに答えられる者は、もうこの世におらん」
乾いた老人の声には、慰めの響きなど微塵もなかった。
「お前の父も、母も、とうに土の下だ。死人に口なし、とはよく言ったものだな。なぜお前をこの世に産み落としたのか、なぜその封筒を隠し通したのか……本当のところは、誰にも分からんさ」
ルシアンの唇が、悔しさと怒りでわななく。
慰めや同情を期待していたわけではない。だが、これほど無慈悲に突き放されるとは思っていなかった。
「私自身、そのヴェリタスというものを、長年追い続けてきた」
イムホテプは、礼拝堂の奥の暗がりへと、ゆっくり視線を向けた。古い羊皮紙とインクの入り混じった、埃っぽい匂いが漂ってくる、あの闇だ。
「だが、その在り処は、いまだに分からん。お前の父がそれをどこに隠したのかもな」
老人は、手の中の古びた封筒を、ゆっくりと少年の胸元へ差し出した。
「返そう。それは、お前のものだ」
ルシアンは、吸い寄せられるように、その封筒を受け取った。泥と血に汚れた、わずか二枚の紙。それが今の彼には、押し潰されそうなほど重く感じられた。
「父と母の遺したものを継ぎ、ヴェリタスを探し出すもよし。あるいは、何もかも放り出して、貧民窟の泥の中で野垂れ死ぬもよし。どちらを選ぶのも、お前の自由だ」
イムホテプは杖を突き、少年に背を向けかけて、ふと、その足を止めた。
「ただ……一つだけ言っておこう」
肩越しに振り返った老人の黒い瞳が、月明かりの中で、冷たく鈍く光る。
「お前のその燻る鬱憤を晴らす手段が、もしこの世にあるとすれば、それはただ一つだ。ヴェリタスをその手で暴き出し、『こんな俗物のために、父は命を捨てたのか』と、目の前で笑い飛ばしてやることだけだ」
ルシアンは、はっと息を呑んだ。
父が命を賭けて守り、母が十五年の歳月をかけて隠し通し、ガストンが最後に託して死んでいったもの。
それを見つけ出し、自分の手で引きずり出し、笑って踏みにじってやる。
身勝手な父への、これ以上ない意趣返し。
理屈と怒りとが混ざり合い、少年の胸の奥で、暗く、甘い疼きが、毒のように広がり始めていた。
「さあ」
イムホテプは、朱鷺の杖に両手を重ねた。
「お前は、どうする」
ルシアンはしばらくの間、手の中に握りしめた皺だらけの封筒を、じっと見つめていた。
やがて、その華奢な肩が、かすかに震え始めた。
最初は、込み上げる感情を押し殺すような、浅い息の音だった。それが少しずつ熱を帯びて大きくなり、やがて、ひび割れた乾いた笑い声となって、がらんとした礼拝堂の静寂に響き渡った。
「……は、はは……ッ」
今にも涙を流して崩れ落ちるのではないかと思わせる、痛々しい笑い声だった。
だが、ゆっくりと顔を上げた時、その青い瞳に涙の痕はなかった。
「……悪くない発想ですね」
その口元には、いつもの不遜な冷笑が戻っていた。
泥とへどろに塗れ、膝を擦りむき、死者から奪った血生臭い外套を羽織った惨めな姿のまま、ルシアンはすっと背筋を伸ばし、胸を張ってみせた。
「父上が命を捨ててまで固執したヴェリタスとやらが、一体どれほど下らない代物なのか。この目でとくと確かめて、目の前で笑い飛ばしてやりますよ」
そして、自分の胸の高さほどしかない小さな老人を、まっすぐに見下ろした。
「どうせなら、あなたのことも存分に利用させてもらいます。父上の先生だったとおっしゃるなら、その古臭い頭の中の知識くらいは、僕の役に立つでしょうから」
イムホテプは、眉ひとつ動かさなかった。
ただ、白い髭に覆われた口元が、ほんのわずかに、可笑しそうに緩んだように見えた。
「……好きにするがいい」
老人は朱鷺の杖を突き、礼拝堂の奥の暗がりへと、ゆっくり歩き出した。
コツン。コツン。
「奥に、身を横たえるくらいの寝床はある。……だがその前に、裏の井戸で、その泥を落としてくることだ」
「……は?」
「その匂いでは、書物が腐る」
ルシアンの顔が、屈辱でかっと朱に染まった。
「な……っ! これはそもそも、あなたがこんな辺鄙な場所に住んでいるせいで、僕が下水をくぐる羽目になったからで……!」
少年の青くさい抗議には一切答えず、老人の小さな背中は、規則正しい杖の音とともに、闇の中へと消えていった。
ルシアンは、その背中を苦々しく睨みつけた。
それから、そっと外套の袖口に鼻を近づけて、思いきり顔をしかめた。
礼拝堂の天窓から、冴え冴えとした月明かりが静かに差し込んでいた。
罪人たちの亡骸が風に揺れる丘の陰で。顔を削り取られた聖人たちが見下ろす中で。
帰る場所を失った少年と、異国の老学者の奇妙な関係が、こうして静かに幕を開けた。




