↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/8

5話「驚きは哲学の始まり」

5話「驚きは哲学の始まり」


 老人の細い手の中に収まった封筒を目にした瞬間、ルシアンは、それまでの警戒もプライドも吹き飛んだように目を見開いた。

 

「そ、それです! 返してください、父上の手紙なんです!」

 

奪い返そうと、ルシアンは勢いよく長椅子から身を乗り出した。

だが、長年の湿気に腐っていた木の脚が、少年の体重に耐えきれなかった。乾いた音を立てて、脚が派手にへし折れる。

 

受け身の取り方など、書物には書いていなかった。ルシアンは不格好に石の床へ倒れ込んだ。

 

「いっ……痛ぁ……! 泥には塗れるわ、膝は打つわ……なんで僕ばかり、こんな目に……っ」

 

打った膝を押さえ、惨めさと痛みに涙目になりながら、床の上で丸くなる。

 

そんな少年の無様な姿を、老人はただ静かに、落ち窪んだ瞳で見下ろしていた。

それから、手の中の封筒に目を落とした。赤い蝋に刻まれた、あの複雑な紋章を、皺だらけの親指がそっと撫でる。

 

「……この紋章を、もう一度見る日が来るとはな」

 

独り言のような声だった。

 

「父上、と言ったな。やはりお前が、アドリアンの息子か」

 

ルシアンは痛みに顔を歪めたまま、弾かれたように顔を上げた。

 

(……いま、父上の名を言った……? この異邦人が……なぜ……?)

 

混乱と驚きが、頭の中を駆け巡る。ルシアンは膝の痛みも忘れて身を起こすと、床に手を突いたまま、老人をまじまじと仰ぎ見た。

 

「あ……あなたは、一体誰なんですか……? なぜ僕の父を……アドリアン・ド・モンフォールを知っているんですか……!」

 

夜の廃教会に、十五歳の少年の問いかけが、冷たい石壁にこだました。


 老人はしばらくの間、床に這いつくばったままの少年を静かに見下ろしていた。

 

それから、身の丈ほどもある木製の杖。その先端に彫られた朱鷺の頭部に両手を重ね、ゆっくりと口を開いた。

 

「私の名は、イムホテプという」

 

「……イムホテプ?」

 

ルシアンは、思わずその名を鸚鵡(おうむ)返しに繰り返していた。

 

古代エジプトの伝説的な賢者の名。

医術に通じ、ピラミッドの建築を指揮し、死後は知恵の神として祀られたというあのファラオの宰相。

書物の文字や神話のなかにしか存在しないはずの名前だった。

 

「古の賢者の名にあやかるとは……ずいぶんと、大きく出たものですね」

 

膝の痛みと、先ほどからの屈辱が混ざり合ったせいで、ルシアンは思わず皮肉を口走っていた。

 

だが、老人は気を悪くした様子もなく、乾いた笑みを浮かべるだけだった。

 

「自分で名乗ったわけではない。親がくれた名だ」

 

かすかに濁った声には、不思議なユーモアと揺るぎない響きがあった。

 

「我らコプトの民は、古代ファラオの血を引く末裔だと信じられておる。まあ、偉大な祖先の名前をひとつ拝借したところで、罰は当たらまいよ」

 

ルシアンは再び言葉に詰まった。

まただ。この老人の前では、口を開くたびに自身の無知と浅はかさが露呈し、一歩ずつ足場を崩されていく。

 

「昔は……そうだな、学者などと呼ばれたこともあった」

 

イムホテプは、廃教会の暗い天井を見上げた。

 

「だが今は、処刑台の影で、誰にも知られず古びた書物に埋もれて暮らす、ただの行き倒れの老いぼれにすぎんよ」

 

老人の深い眼差しが、再びルシアンの姿を捉えた。

 

「……アドリアンは、私の教え子の一人だった」

 

ルシアンの肺から、すべての空気が弾き出されたように呼吸が止まった。

 

教え子。

父に、師がいた。

 

顔も声も知らず、物心ついた時から孤独だった自分。書物の余白に残された流麗な筆跡の向こう側でしか語り合えなかった父。

 

その父が、かつてこの老人の前に座り、自分と同じように教えを受けていたというのか。

 

モンフォール家の誰も、叔父も、あんなにも自分を慈しんでくれたガストンでさえも、そんな事実を一度たりとも口にしたことはなかった。

 

「父上の……先生……?」

 

掠れた声で問い返すのがやっとだった。

イムホテプは静かに、小さく頷いた。

 

「実に優秀な男だった。……いや、優秀すぎた、と言うべきかもしれんね」

 

老人の黒い瞳が、手の中で鈍く光る一通の封筒に落ちた。

 

「だからこそ、見なくてよいものまで……見てしまったのだ」


 ルシアンは床に手を突いたまま、食い入るように老人を見つめ、思わず声を張り上げた。

 

「それが……父上の遺書に書かれていた禁忌、というものですね!? 知っているのなら、出し惜しみせずに教えてください!」

 

イムホテプは手の中の封筒からゆっくりと視線を上げ、床にへたり込んだルシアンを、じっと見つめた。

 

「教える前に、こちらが聞こう。お前はなぜ、こんな場所に来た? この地図を辿ってきたのは見れば分かる。だが、アドリアンの息子ともあろう者が、なぜそこまで泥と血に塗れている」

 

「…………」

 

ルシアンは膝の痛みに耐えながら、不器用に立ち上がった。泥と汚水に濡れた外套の裾を、強張った指先でぎゅっと握りしめる。

 

そして、息を整えながら、今夜起きた出来事をかいつまんで語り始めた。

 

鳴り止まない鐘の音。

突如として押し寄せてきた、灰色の仮面の群れ。

ガストンが命と引き換えに遺した、この封筒のこと。

 

目の前で撃ち殺されたカニッシュと、玄関広間に転がっていた叔父一家の亡骸。

 

そして、自分が古代ギリシャ語の合言葉を見抜き、死体から外套を奪って、死地を脱してきたこと。

最後のくだりを語る時だけ、ルシアンの声には、隠しきれない得意げな響きが混じっていた。

 

イムホテプは、朱鷺の頭が彫られた杖に痩せた体を預け、近くの長椅子に腰を下ろしたまま、一度も言葉を挟まずに耳を傾けていた。

 

ただ、合言葉のくだりに差しかかった時だけ、その黒い瞳が、わずかに細められた。

 

やがてルシアンが語り終えると、礼拝堂に重い静寂が降り積もった。

イムホテプはゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。

 

「……そうか」

 

短い一言だった。だが、その声には、乾いた響きの奥に、確かな痛みが滲んでいた。

 

「あの夜から十五年。とうとう、あの家まで焼かれたか」

 

老人は目を開け、ルシアンの肩にかかる外套を、杖の先で静かに指し示した。

 

「お前が今着ている、その血と硝煙(しょうえん)の匂いの染みた灰色の外套。それこそが、奴らの正体だ」

 

「……奴らの、正体……?」

 

「そうだ。顔のない死神。お前の父アドリアンを殺し、お前の家を焼き尽くした者たち。この国の、いや、この世界の深淵に巣食う者たちだ」


 ルシアンは、自らの肩に重く圧しかかる灰色の外套の生地を固く握りしめた。

指先に、見知らぬ死者の乾きかけた血がざらりと不快な感触を残す。

 

「……これが奴らの正体……。それは、一体どういうことですか」

 

イムホテプは身の丈ほどもある杖の頭部に両手をそっと重ね、静かにその口を開いた。

 

「奴らの真の名は、天網会(てんもうかい)。このフランス……いや、世界のすべてを闇の底から支配し、動かしている秘密の結社だ」

 

老人の擦り切れたような声は低く重く、夜の礼拝堂の冷たい石壁へと静かに吸い込まれていく。

 

「奴らは何よりも『知』を恐れている。……そして同時に、何よりも『知』を愛で、狂執しておるのだ」

 

「……恐れているのに、愛でている……?」

 

矛盾した老人の言葉に、ルシアンは眉をひそめた。

 

「そうだ。もしもこの世に引きずり出されれば、奴らが築き上げてきた支配の根底を瞬時に覆しかねない、あまりにも危険な記述……。それが刻まれた写本が存在する」

 

イムホテプの落ち窪んだ黒い瞳が、手の中に収まった一通の古びた封筒へと落とされた。

 

「それこそが……お前の父アドリアンが遺書に記した真の正体。『ヴェリタス』だ」

 

一瞬の、息の詰まるような沈黙。

次の瞬間、ルシアンはフッと鼻で嘲笑った。

 

「秘密の結社……? 古本が世界の支配者たちに恐れられている……?」

 

先ほどまでの膝の激痛も、泥の冷たさもすべて忘れ去ったかのように、十五歳の少年の薄い唇に、いつもの不遜で冷ややかな笑みが戻ってくる。

 

「馬鹿馬鹿しい。そんなものは、場末の酒場で酔っ払いが語る与太話(よたばなし)か、退屈を持て余した修道士がでっち上げた作り話でしょう。僕はね、そういった非科学的で底の浅いおとぎ話の類いは一切信じない主義なんですよ」

 

自らの高い教養と知性を誇示するように、ルシアンは冷たく言い放った。

だが、イムホテプは眉ひとつ動かさなかった。

 

「……それが単なるおとぎ話であるならば」

 

乾き切った老人の声が、静かに、しかし絶対の重みを持って返ってくる。

 

「お前は今、ここに生きてはおらんはずだ」

 

ルシアンの口元に浮かんでいた冷笑が、その場に凍りついた。

 

脳裏に、あの焼き尽くされたモンフォール邸の玄関で聞いた、仮面の男の冷徹な声が鮮烈に蘇る。

 

『書庫を燃やせ。一冊残らず、だ』

 

古代ギリシャ語の写本を諳んじるほどの最高峰の知性を持った者たちが、父の遺した書物を一冊残らず焼き払っていた。

 

知識を愛でる者たちが、知識の拡散を恐れて燃やし尽くす。

目の前の老人が口にした「天網会」の矛盾と、自分がこの目で見てきた地獄の光景が、寸分の狂いもなく完全に重なり合っていた。

 

(違う……そんなはずは……!)

 

反論の言葉を探した。己の論理と誇りにかけて、この老人の言説を打ち破るためのロジックが、何十も頭の中を嵐のように駆け巡った。

だが、そのどれ一つとして、彼の唇から音になって出てくることはなかった。


 ルシアンは、乾いて荒れた唇を舌先で舐め、なおも強がるように食い下がった。

 

「そ、それが仮に実在の組織だとして……具体的に、奴らは何者なんですか」

 

「さあな。私も、そのすべてを知っているわけではない」

 

イムホテプは、礼拝堂の深い暗がりへと静かに目を向けた。

 

「始まりは、ある商人たちの小さな組合だったと聞く。だが、戦火が繰り返されるたびに、その網の目は広がっていった。力ある王族や貴族、名を馳せた知識人。果ては、夜の闇に生きる殺し屋どもまでもが、いつしかその網に加わるようになったのだ」

 

老人の擦れた声が、わずかに低く、重くなる。

 

「奴らは、弱き者をひどく嫌う。役に立たぬと見なせば、容赦なく切り捨てる」

 

ルシアンは細い腕を胸の前で組み、身構えた。

 

頭の中で、聞かされたばかりの言葉の断片を素早く並べ直し、一つの筋道へと組み立てていく。そうして頭を働かせている間だけは、胸の奥の恐怖も、打ち付けた膝の痛みも、不思議と遠のいていった。

 

「なるほど……」

 

少年の唇に、いつもの不遜(ふそん)な冷笑が浮かぶ。

 

「つまり、戦のたびに行き場をなくした恨みと鬱憤を抱えた連中が、身を守るために寄り集まって膨れ上がっただけの、烏合(うごう)の衆というわけですね。一人では何もできないからこそ群れている。ある意味では、最も哀れな弱者の集まりだ」

 

「低脳の集まり、とでも言いたげだな」

 

イムホテプの声は、どこまでも静かだった。

 

「ヘラクレイトスを諳んじる者たちが、か?」

 

ルシアンの言葉が、喉の奥でぴたりと詰まった。

ほんの数刻前、書斎の本棚の隙間で聞いた、あの乾いた古代ギリシャ語の響き。自分と同じ書物を読み、自分と同じ言葉を知り、それを殺しの合図に使う男たち。

 

「……それは……」

 

「それだけではない」

 

イムホテプは、少年の苦し紛れの言葉を待たなかった。

朱鷺の頭が彫られた杖が、石の床を一度だけ、コツンと鳴らす。

 

「奴らの最大の武器は、暴力ではない。奴らは、この国を二つに引き裂いている信仰そのものを、利用しているのだ」

 

「信仰を……利用している、だと……?」

 

ルシアンは、胸元で頑なに組んでいた腕を、ゆっくりとほどいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。