4話「朽ちた祈り」
4話「朽ちた祈り」
やがてルシアンは、息を潜めるようにして夜のパリの街を歩き始めた。
路上に転がる正体不明の影に絶えず神経を尖らせ、息を呑みながら進んでいたが、すれ違う貧民やならず者たちは、誰一人としてルシアンに見向きもしなかった。
十五歳とはいえ、彼の背丈や声の低さは、すでに大人と変わらない。細身の体躯も、暗闇の中ではどこにでもいる若者に紛れてくれた。それだけが、この狂った街での唯一の救いだった。
やがて、行く手を黒い市壁が塞いだ。
夜の市門は固く閉ざされている。だが、地図を睨みながら壁沿いを歩くうちに、ルシアンは壁の根元に口を開けた、石組みの排水溝を見つけた。街中の汚水が、ここから壁の外へと流れ出ているのだ。鉄格子は錆びて朽ち、人ひとりが這って通れるほどの隙間ができている。足元の泥には、無数の足跡が残っていた。密輸人たちの抜け道なのだろう。
ルシアンは、しばらくその暗い穴を見つめていた。
それから外套の裾をたくし上げ、唇を固く結んで、膝まで汚水に浸かりながら身を屈めた。
ぬるりとした底の感触が、靴の中まで染み込んでくる。鼻が曲がるほどの悪臭に何度も嘔吐きそうになりながら、ルシアンは四つ這いで壁の下をくぐり抜けた。
(……二度と、二度とこんな真似はしない……)
壁の外へ出ると、道は急な上り坂へと変わり始めた。
屋敷の書斎に閉じこもり、ひたすら頁をめくり、羽ペンを滑らせるだけの生活を送ってきた少年だ。脚力も体力も、人並み以下と言ってよかった。
「は……っ、……くっ……」
何度も湿った泥に足をすくわれて膝をつき、寝間着の裾を泥で汚しながら、その都度、血の滲む指先で地面を這うようにして立ち上がる。荒い息が途切れ、全身から嫌な汗が噴き出した。
(僕が……この僕が、こんなドブネズミのような場所で野垂れ死ぬ底辺になるなんて……それだけは、絶対に許せない……!)
惨死した家族への想いよりも、泥に塗れて死んでいくことへの猛烈な拒絶。貴族としての、そして知性を持つ者としての、最後のプライド。
そして何より、父が命を懸けて守り抜いたヴェリタスの正体を知りたいという、激しい飢え。それだけが、その夜、足をもつれさせる彼を前へ前へと突き動かしていた。
坂を登り切った時、ルシアンは足を止めた。
月明かりの下に、巨大な影がそびえ立っていた。
石を積み上げた高い基壇。その上に、何本もの太い石柱が並び、柱と柱の間には梁が渡されている。梁からは鉄の鎖が垂れ下がり、夜風に軋むたび、低く錆びた音を立てていた。
鎖の先に、何かが吊るされていた。
人の形をしていた。だが、もう人ではなかった。肉は削げ落ち、黒ずんだ布切れと骨だけが、月光の中でゆっくりと揺れている。その肩に止まった一羽の鴉が、首を傾げてルシアンを見下ろした。
甘く腐った死臭が、風に乗って押し寄せてくる。
王国最大の絞首台。モンフォコン。
書物の挿絵で見たことはあった。だが、挿絵には匂いがなかった。
ルシアンは吐き気を奥歯で噛み殺し、絞首台から目を逸らすようにして、地図の印が示す方角を探した。
その影の奥に、それはあった。
「本当に……こんな場所に……?」
荒い息を吐きながら見上げた先にあったのは、廃墟のような、小さな石造りの教会だった。
長年の風雨に晒された石壁には、太く青々とした蔦がびっしりと絡みつき、打ち捨てられた獣の亡骸のように静まり返っている。
かつて神聖であったはずの十字架は傾き、崩れかけた尖塔が、夜空を突き刺す針のように、ひっそりと佇んでいた。
処刑台の影に隠れるように建つ、神に見捨てられた礼拝堂だった。
ルシアンは、重い足取りで扉へ近づいた。
何十年も雨風に晒されてきたのであろう古びた木材は、見た目通り固く強張っている。ルシアンは華奢な指先で、その表面をそっと撫でた。
(本当に、この中に父上の遺した手がかりなどあるのだろうか……?)
一息ついて気持ちを整えると、ルシアンは扉の把手に手をかけ、体重をかけて引いた。
しかし、蝶番が固まっているのか、それとも扉そのものが歪んでいるのか、びくとも動かない。
「はぁ……。こんな廃墟に期待していたこと自体、愚かだったか」
何度も泥に足をすくわれ、限界まで体力を削られた果ての徒労感。ルシアンは自嘲気味に息を吐くと、扉に背を向け、他に入れそうな隙間がないかを探そうと一歩を踏み出した。
その時——。
ギィィィィ……
静寂を切り裂いて、背後で重々しく木の軋む音が響いた。
ルシアンの足が、ぴたりと止まる。
ぞくり、と背筋を冷たいものが駆け抜けた。
脳裏をよぎったのは、坂の上で見た、鎖に吊るされたあの亡骸だった。風に揺れていた、骨と布切れの影。
(まさか……)
迷信の類いなど信じないはずの知性が、極限の恐怖と疲労によって、あっさりと崩れていく。
ルシアンは、ぎこちなく振り返った。
開いた扉の向こうは、底の見えない闇だった。その闇の中に、ゆらりと小さな灯りが揺れている。灯りに照らされて浮かび上がったのは、戸口を塞ぐほどに大きな、黒い人影だった。
全身に一気に鳥肌が立つ。猛烈な眩暈が、視界を黒く塗りつぶしていった。
*
「わ……っ!?」
ルシアンは、飛び起きるようにして身体を起こした。
荒い息を吐きながら激しく瞬きをし、必死で辺りを確かめる。
そこは、先ほどの廃墟のような教会の内部だった。
天窓から差し込むかすかな月光の下、礼拝堂はがらんとしていた。祭壇の上には何もない。壁に並ぶ壁龕には、かつて聖人の像が立っていたのだろう。
だが今は、どれも空っぽだった。わずかに残った石像の顔は、何者かの手で削り取られている。
(……聖像破壊の跡だ)
ルシアンは、すぐに気づいた。偶像を嫌うユグノーたちが、カトリックの教会から聖像を引き剥がし、壊して回った時代があったことを、書物で読んで知っていた。
かつてここに集った誰かが、この礼拝堂から神の飾りを剥ぎ取ったのだ。
そして、礼拝堂の奥。祭壇の向こう側に、月光の届かない暗がりがある。そこから、かすかに漂ってくる匂いがあった。
古い紙と、インクの匂い。
屋敷の書斎と同じ匂いだった。
どうやら自分は、礼拝堂の片隅に置かれた固い長椅子の上に、雑に転がされていたらしい。外套も靴も、身につけていたものは何一つ奪われていない。
「ここは……」
乱れた息を整えながら、ルシアンは安堵とともに、手探りで自らの胸元を確かめた。
次の瞬間、ルシアンの表情が恐怖で引きつった。
——ない。
「な……っ!?」
指先に触れるのは、泥と汚水で湿った外套の、冷たい生地だけだった。血の気が一気に引き、指先が激しく震え始める。裏返した外套の内側を、何度も、何度も乱暴に探った。寝間着の懐まで手を突っ込み、長椅子の下まで覗き込んだ。だが、あの皺だらけの封筒は、どこにもなかった。
父が命と引き換えに守り抜いた、ヴェリタスの手紙と地図。ガストンが最後に託してくれた、唯一の遺品。
「どこだ……どこにやった……っ!?」
あまりの焦燥に呼吸が浅くなり、長椅子から転がり落ちるように立ち上がろうとした、その時だった。
コツン……コツン……
静まり返った礼拝堂の石畳に、固い木が当たる乾いた音が響いた。
規則正しく、ゆっくりと、暗闇の奥から近づいてくる杖の音。
ルシアンは弾かれたように固まり、息を呑んで振り返った。
月明かりが落ちる中央の通路に立っていたのは、深く腰の曲がった一人の老人だった。
老人の背丈は、ルシアンの胸のあたりまでしかなかった。足元にぽつりと置かれた小さな角灯の火が、その小柄な影を廃教会の壁いっぱいに、まるで巨人のように大きく引き伸ばして映し出している。
ルシアンは、壁に揺れる巨大な影と、目の前に佇む小さな老人を、交互に見比べた。
あの時、戸口を塞ぐように立ちはだかっていた、おぞましい黒い人影。
暗闇と恐怖が生み出した悪夢の正体は、目の前の老人だったのだ。
(……僕は、こんな縮こまった老人の影に怯えて、気を失ったというのか)
冷え切っていた頬が、屈辱と恥ずかしさで、かっと熱くなる。
「……起きたか」
老人は、擦り切れた皮袋を揉むような、低く乾いた声で言った。
「扉というものはな、引いて開かぬなら、押してみるものだ」
「……っ」
ルシアンは言葉に詰まった。
自尊心を鋭く刺され、返す言葉が一つも見つからない。六つの言語を操り、十三歳で修道士を議論で言い負かしたこの自分が、扉一枚の開け方すら分からず、見知らぬ老人に窘められている。
老人はルシアンの動揺など意に介した様子もなく、身の丈ほどもある木の杖を突いて、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
コツン。コツン。
角灯の橙色の光が、近づくにつれてその姿を照らし出していく。
陽に深く焼けた褐色の肌には、乾いた大地のひび割れを思わせる深い皺が刻まれていた。短く揃えられた白い髭が顎を覆い、色褪せた裾の長い長衣の上に、幾重にも繕われた古い外套を羽織っている。首元には、見たこともない異国の縞模様の布が、擦り切れたまま巻き付けられていた。
小さく痩せこけ、強い風が吹けば今にも折れてしまいそうな老人だ。
だが、その瞳だけが異様だった。
落ち窪んだ眼窩の奥に沈む、黒い瞳。それは歳月の重みにも少しも濁ることなく、研ぎ澄まされた刃のように、静かにルシアンを射抜いていた。
老人が握る杖の頭には、細く長い嘴を持つ一羽の鳥が、緻密に彫り込まれている。
(……朱鷺……)
ルシアンの記憶が、反射的にその意味を引き出した。古代エジプトにおいて、知恵と文字を司る神、トートの象徴だ。
さらに、杖を握る老人の痩せた右手首。その内側に、青黒いインクで小さな十字の刺青が刻まれているのが見えた。縦と横の長さが等しい、独特の意匠。
(コプトの十字……。エジプトの古いキリスト教徒か)
カトリックでも、ユグノーでもない。
いまこのフランス全土を血で染め、人々が互いに憎み合い、殺し合っている二つの信仰の、どちらにも属さない、真の異邦人。
老人は、固まっているルシアンの目の前で、静かに足を止めた。
そして、使い古された外套の懐から、ゆっくりと何かを取り出した。
皺だらけの手の中に収まっていたのは、手垢と血で汚れた、あの一通の古びた封筒だった。
「……探しているのは、これのことかね」




