3話「奇跡の小路」
3話「奇跡の小路」
どれだけ歩いただろうか。
着慣れぬ灰色の外套の裾を夜風にたなびかせながら、ルシアンはただ無心で足を動かし続けていた。
市壁の陰になった薄暗い泥道まで辿り着いた時、彼は憑き物が落ちたように立ち止まり、顔を覆っていた仮面の革紐をほどいた。冷たい仮面を足元のぬかるんだ土へと投げ捨て、靴底で何度も踏みつけ、泥の奥深くまで押し埋める。
外套も脱ぎ捨てたかった。だが、秋の夜気は薄い寝間着一枚で耐えられるほど甘くはない。ルシアンは血の染みた外套を裏返し、灰色を内側に隠して羽織り直した。
そうして辿り着いたのは、パリの片隅に広がる貧民窟だった。
人々はそこを、奇跡の小路と呼ぶ。昼間は足を引きずって施しを乞う物乞いたちが、夜になると何事もなかったように歩き出す。その皮肉から付いた名だと、ルシアンは書物で読んだことがあった。
街路に足を踏み入れた瞬間、ねっとりとした不快な風が鼻腔を突いた。
腐肉と排泄物が入り混じった強烈な異臭。物陰から響く生々しい怒号と、肉を叩く鈍い音。路上では、虚ろな目をした男たちが盗品らしき包みを手渡し合い、樽の上で骰子を転がしては罵り合っている。
肌を露わにした女たちが、品定めする男たちの視線に擦り寄っていた。
足元には、数人の人間が泥に塗れて転がっていた。
泥酔して眠りこけているだけなのか、あるいはすでに冷たい骸となっているのかすら分からない。
貴族の屋敷という温室の中で、本の世界しか知らずに育ってきた十五歳のルシアンにとって、そこに広がる光景のすべてが、見たこともない悪夢だった。
書物で読んだ「奇跡の小路」は、こんな匂いをしていなかった。
「……っ……は、……ッ」
突如として、激しい吐き気が胃の底から突き上げてきた。
喉の奥が焼けるような感覚とともに、ルシアンは道端のへどろの脇に膝をつき、胃の中のものを激しく吐き戻した。
昼間、ガストンが半ば無理やり食べさせた、あの蜂蜜の黒パンと温かい葡萄酒。その甘さが、惨めな胃液の苦味となって口内に広がる。
「……うく……っ……、ぅ……」
ボロボロと溢れ出る涙で視界を歪ませながら、ルシアンは震える袖口で乱暴に口元を拭った。
立ち上がる気力すら奪われ、彼は湿った泥壁に弱々しく背中を預ける。
冷たい石の感触だけが、かろうじて彼がまだ生きていることを繋ぎ止めていた。
*
しばらくの間、ルシアンは冷たい壁に背を預けたまま、呆然と虚空を見つめていた。
——なぜ、自分がこんな目に遭わなければならないのか。
頭の中でいくら論理を組み立てようとしても、この世界の圧倒的な理不尽さを、何ひとつ理解することができなかった。
自分はただ、正しさを求め、学び、自分の足で立つための術を必死に積み上げてきただけではないか。それなのに、家を追われ、奪われ、泥に塗れて嘔吐している。
そもそも自分はなぜ、この世に生まれ落ちてこなければならなかったのだろう。
父も母も知らず、誰からも望まれず、改宗の烙印を押された家で息を潜めて生きるためだったのか。
(……いっそのこと、あのまま書庫で……ガストンやカニッシュと一緒に、死んでいればよかったんだ……)
黒い虚無が、冷たい泥のようにルシアンの意識を呑み込みかけた。
寒さに耐えきれず、膝を抱えて体を丸めた、その時だった。
胸元に、何か硬いものの角が食い込んだ。
ルシアンは、はっと息を呑んだ。
——ガストンが、命と引き換えにして託してくれた、あの封筒。
『何があっても、この封筒だけは手放してはなりません』
老執事の切迫した声が、鮮明に脳裏を駆け巡る。
そして、その後に続いた、もう一つの声も。
『坊ちゃんは……じーやの自慢でございましたよ』
目尻に深い皺を刻んだ、いつもの笑顔だった。
誰からも望まれなかった、などと。
そんなことを、あの老人の前で言えるはずがなかった。
胸の奥が、不意に焼けるように熱くなった。
ルシアンは残された力を振り絞り、血の乾きかけた指先で、自らの懐を探った。
指先に触れたのは、硬い感触。
引っ張り出したその手の中にあったのは、逃げる途中で揉まれ、皺だらけになった一通の古びた封筒だった。
夜の闇の中、赤い蝋の封印と、そこに刻まれた見たこともない紋章が、月明かりを受けて鈍く光っていた。
指先を震わせながら、ルシアンは手垢と血の混じった赤い蝋の封印を慎重に割り、封筒の口を開いた。
ガストンの言っていた通り、中には折りたたまれた二枚の羊皮紙が入っていた。一枚の地図と、長い年月を経て変色した一通の手紙。
ルシアンは月明かりを頼りに、手紙を静かに広げた。
そこに現れたのは、かつて書斎の本の余白で何度も目に焼き付けてきた、あの細く流麗な、しかし激しい衝動を秘めた筆致。
父、アドリアン・ド・モンフォールの真筆だった。
『1572年8月24日。
私はついに、開けてはならない禁忌の扉を開いてしまったらしい。
街には警鐘が鳴り響き、死の影がすぐそこまで迫っている。もはや、私の命が明日を迎えることはないだろう。
だが、不思議と命が惜しくはないのだ。
この身が滅びようとも、私はヴェリタスを守り抜くことができるのだから。
ただ、心残りが一つだけある。
愛しのエレーヌ。そして、間もなくこの狂った世界へと生まれてくる我が子よ。
何も知らぬまま逝く、哀れな父をどうか赦しておくれ。
アドリアン・ド・モンフォール』
「……ヴェリタス……?」
かすれた声で、ルシアンはその単語を呟いた。
1572年8月24日。まさにパリ中が血で染まった、サン=バルテルミの夜の当日に書かれた遺書。
単なる信仰の違いで殺されたとばかり思っていた父は、そうではなかったのだ。父は何か世界を揺るがす禁忌に触れ、それと引き換えに命を落とした。滲んだインクの文字が、静かにそう告げていた。
(父上は……改宗を拒んで死んだんじゃない。何かを……ヴェリタスを守るために、自ら死を選んだというのか……?)
そこまで考えて、ルシアンの指先が、ふと止まった。
胸の奥を、冷たい棘がかすめた。
泥に塗れた路上で、十五歳の少年の胸の奥に、絶望とは異なる、真実への激しい飢えが燃え上がり始めていた。
それが本当に「真実への飢え」なのか、それとも別の何かなのか。
ルシアン自身にも、まだ分からなかった。
(これをガストンに託したということは……母上は、父上の本当の死因を知っていたというのか……?)
脳裏に渦巻く新たな疑問を抑え込みながら、ルシアンはもう一枚の紙。畳まれた地図を手に取り、ゆっくりと広げた。
月明かりに照らし出されたのは、1572年当時のパリの精細な市街図だった。
入り組んだ路地や、中洲を挟んで分かれるセーヌ川の流れが、細かく描き込まれている。その中で一箇所だけ、市壁の外、わずかに高くなった丘の上に、赤いインクで小さな星の印が刻まれていた。
ルシアンは目を細め、指先でその印をそっと辿る。
(ここへ行け……父上は、そう言いたいのか……?)
セーヌ川の曲がり具合と、市門の位置から、今いる場所を地図の上に探し当てる。
星の印は、この貧民窟からそう遠くない位置にあった。貴族たちが住まうマレ地区や、華やかな市街の中心部からは完全に外れた、市壁の北東の外。
その場所の名を、ルシアンは知っていた。
モンフォコン。
王国で最も大きな絞首台が建つ丘だ。処刑された罪人の亡骸が、鴉に啄まれるまで晒され続ける場所。そのふもとには、街中の汚物と死骸が運び込まれる捨て場が広がっている。
そして十五年前のあの夜、殺されたユグノーの指導者、コリニー提督の亡骸が吊るされた丘でもあった。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
(父上が死んだ夜に……ユグノーの象徴が晒された場所を、父上は指していたのか)
少年の足であっても、小一時間も歩けば辿り着ける距離だった。
だが果たして、これを鵜呑みにして良いのだろうか?
ルシアンは手紙と地図の裏表を、何度も検分した。
だが、その印が何を意味するのか、そこに何があるのかといった記載は、どこにも残されていない。罠である可能性も、十五年の月日の中でとうに失われている可能性も、否定できなかった。
(だが……今の僕には、頼るべき後ろ盾も、帰るべき場所も、何ひとつない)
絶望の淵に立たされた自分にとって、この地図が唯一残された糸口であることもまた、紛れもない事実だった。
(行く価値はある……いや、行くしかないんだ)
ルシアンは冷たく濡れた壁に片手を預け、重い身体を引きずるようにして、ゆっくりと立ち上がった。
それから、裏返しの外套の襟元をきちんと正し、泥のこびりついた袖口を指先でつまんで、眉をひそめた。
(……こんな格好、ガストンが見たら卒倒するだろうな)
そう思った途端、喉の奥がまた熱くなった。ルシアンはそれを、奥歯で噛み殺した。
その瞳からは、先ほどまでの生への諦念が消え去っていた。代わりに宿りつつあったのは、父と同じ、何かを見極めようとする光だった。




