2話「灰色の仮面」
2話「灰色の仮面」
鐘は、鳴り止まなかった。
不気味に乱れる響きに重なるように、屋敷の外からまったく異なる喧騒が這い寄ってくる。
石畳を打つ蹄の音。重い扉や窓が砕け散る音。そして、夜空を引き裂くような、生々しい人間の悲鳴。
ルシアンが冷や汗の滲む額を押さえて椅子から立ち上がるのと、書斎の重い扉が乱暴に開け放たれるのは、ほとんど同時だった。
「坊ちゃん!」
飛び込んできたのは、老執事のガストンだった。
いつもは隙なく整えられている白髪は乱れ、寝間着の上に間に合わせの上着を引っ掛けただけの姿で、肩を激しく上下させている。この老人が走るところを、ルシアンは初めて見た。文字通り、死に物狂いで駆けてきたのだと一目で分かった。
「ガストン、いったい外で何が——」
「説明は後です。これを!」
ガストンは震える手で懐を探り、一通の封筒を取り出した。古びた封筒には硬い赤い蝋の封印が施され、ルシアンがこれまで一度も見たことのない、複雑な紋章が刻み込まれている。
「これは……」
「アドリアン様が遺されたものです。坊ちゃんが大人への階段を上られた時に渡してほしいと、エレーヌ様が私にお預けなさり、今日まで守り通してきたものです」
「父上の……?」
「中には、お手紙と一枚の地図が入っております。これがあれば、坊ちゃんはこの屋敷を出ても、生きていけるかもしれないのです」
ガストンは一歩踏み出し、その封筒をルシアンの胸元へと押し込んだ。皺だらけの老いた手が、ルシアンの手ごと封筒を強く握りしめる。
「いいですか、坊ちゃん。何があっても、この封筒だけは手放してはなりません。……たとえ、この屋敷がどうなろうとも」
普段は穏やかな微笑みを絶やさなかったその瞳に、ルシアンが今まで一度も見たことのない、静かで揺るぎない決意の光が宿っていた。
その瞬間——。
轟音。
書斎の窓硝子が、びりびりと嫌な音を立てて震えた。
弾かれたようにルシアンが窓辺へ駆け寄ると、正門の方角から、黒々とした煙が立ち上っていた。
重い鉄の門扉が内側へと吹き飛び、その向こうから、おびただしい数の人影が雪崩れ込んでくる。
灰色の外套。灰色の仮面。
松明の炎に照らされても、誰一人として素顔を見せない。感情を削ぎ落とされた人形の群れのように、無機質な面々が夜の闇を埋め尽くしていく。
屋敷のわずかな護衛たちが、恐怖に顔を引きつらせながらも剣を抜き、庭へと駆け出していくのが見えた。
だが、灰色の集団は足を止めない。
ドンッ、ドンッ——。
腹の底に響く轟音と、白い硝煙。銃声だ。
先頭に立った護衛が一人、また一人と血飛沫を上げて石畳に崩れ落ちていく。
「……まさか、旧教同盟の暴徒か……っ」
ルシアンは唇を噛みしめた。
どれほど息を潜め、カトリックに改宗して地を這うように生きてきたところで、ユグノーの血を引く家は、いつか必ずこうして狩られる運命なのだ。
だが、どこかがおかしかった。
狂信に駆られた民衆にしては、動きが揃いすぎている。誰も叫ばない。誰も神の名を唱えない。ただ黙々と、あらかじめ決められた手順をなぞるように、屋敷の人間を殺していく。
これは暴動ではない。訓練された殺戮者たちだ。
「坊ちゃん、こちらへ!」
思考に沈みかけたルシアンの腕を、ガストンが力任せに引いた。
*
裏の使用人階段へと続く細い回廊には、すでに咽せ返るような黒煙が流れ込み始めていた。
角を曲がろうとしたその瞬間、前を走っていたガストンが足を止めた。階下の暗がりから、階段を上がってくる規則正しい複数の足音が響いている。
ガストンは一瞬も迷わなかった。ルシアンの肩を掴んで書斎へ引き返すと、奥の小さな書庫の扉を押し開け、壁と本棚のわずかな隙間へとルシアンを押し込んだ。自らもその狭い隙間へと身を滑り込ませ、息を殺す。
「決して……声を出してはなりませんよ」
耳元で、ガストンの掠れた声が微かに震えていた。
だが、白いプードルのカニッシュはついてこなかった。
いつもなら真っ先にルシアンの足元にしがみつくはずの臆病な犬が、書庫の扉の前に立ち尽くし、書斎の入り口へ向かって低く唸り続けている。
「カニッシュ、おいで……! こっちだ……」
隙間から手を伸ばし、ルシアンが蚊の鳴くような声で呼んでも、犬は一度も振り返ろうとしない。
やがて、重い足音が書斎の床を踏みしめて入ってきた。
扉のわずかな隙間から見えたのは、二つの灰色の外套だった。顔を覆う仮面には、目元に細い覗き穴が開いているだけだ。一人が室内を検分するように見回すと、もう一人が廊下に向かって低く声を張った。
「Ὁδὸς ἄνω κάτω——(ホドス・アノー・カートー)」
廊下の奥から、別の声が即座に応じる。
「——μία καὶ ὡυτή(ミアー・カイ・ホウテー)」
本棚の隙間で、ルシアンは息を止めた。
古代ギリシャ語。
それも、文人でもめったに口にしないヘラクレイトスの断片だった。『上り道と下り道は、一つにして同じ』。父の書き込みのある写本で、貪るように読んだ一節だ。
(……合言葉だ)
一人が前半を言い、もう一人が後半で応じる。原典を読み込んだ者でなければ、続きを口にすることはできない。
ルシアンの頭の中で、死の恐怖とはまったく質の異なる、冷たい思考が回り始めた。
この男たちは、狂信に踊らされる暴徒などではない。ギリシャ語を操り、古代の哲学を諳んじる教養人だ。自分と同じ本を読み、自分と同じ言葉を知る人間たちが、いま、この屋敷の人間を狩っている。
《知は、人を高めるためにあるのではない》
父が書物の余白に遺した筆跡が、なぜか警鐘のように脳裏をよぎった。
灰色の男の一人が、何かを感じ取ったように、書庫の扉へと歩み寄ってくる。
その瞬間。
カニッシュが、弾けたように吠えた。
白い毛を逆立て、小さな牙をむき出しにして、男の足元へ躍りかかる。屋敷で一番臆病だった犬だ。雷が落ちれば寝台の奥へ潜り込み、ネズミ一匹にさえ怯えて震えていた犬が、自分の何倍も大きな仮面の男の前に立ちはだかり、一歩も引こうとしない。
男は無言のまま、重いブーツでカニッシュの胴体を蹴り上げた。
鈍い音と甲高い悲鳴が上がり、白い毛玉が床を転がる。それでもカニッシュは、ふらつきながら立ち上がった。後ろ足を引きずり、口元から血を滴らせながら、もう一度、男に向かって牙を剥く。
男が腰から短銃を引き抜いた。
ドンッ。
白い毛並みに、鮮血の赤がじわりと広がっていく。カニッシュは激しくよろめきながらも、倒れなかった。
もう一人の男も、無言で銃を抜く。
ドンッ。
最初の男が、腰からもう一丁を抜き放った。
ドンッ。
三発目の硝煙が部屋に満ちた時、犬はようやく崩れ落ち、二度と動かなくなった。白い巻き毛が床に広がる血を吸い上げ、少しずつ暗い赤へと色を変えていく。
ルシアンの喉から、叫びにならない声が漏れかけた。
それを止めたのは、ガストンの手だった。
口元を塞ぐ、皺だらけの乾いた手。その手が、痛々しいほど小刻みに震えていた。
*
「犬一匹に、三発も使いやがったのか」
「無駄口を叩くな。奥の書庫を改めろ」
重い足音が近づいてくる。
書庫の扉に、灰色の革手袋がかかった。
本棚の影の中で、ガストンがルシアンの耳元にそっと唇を寄せた。
「坊ちゃん……」
それは、ほとんど声にもならない掠れた息だった。
「じーやが出ましたら、十、数えてください。それから……振り返らずにお逃げなさい」
「何を言っているんだ、ガストン……!」
「坊ちゃんは……じーやの自慢でございましたよ」
ガストンは小さく微笑んだ。目尻に深い皺を刻む、いつもの、あたたかな笑い方だった。
ルシアンが何かを言い返すより早く、老執事は本棚の陰から躍り出た。
暖炉の脇から持ち出していた火掻き棒を両手で握りしめ、扉を開けた灰色の男に、真正面から体ごと突進していく。
「ぬ……っ!?」
不意を突かれた男が体勢を崩し、二人はもつれ合うようにして書斎の床へ倒れ込んだ。ガストンは火掻き棒を振り上げた。老いた細い腕のどこにそんな力が隠されていたのか、鉄の棒が男の肩を打ち、鈍い音が響く。
ドンッ、ドンッ。
銃声が、二つ重なった。
ガストンの体が、大きく跳ね上がった。
背中に一つ、脇腹に一つ。上着に黒い穴が開き、そこから溢れ出た血が、見る間に白いシャツを赤く染めていく。
老執事は膝をついた。それでも火掻き棒を握りしめたまま、もう一度それを振り上げようとし、その腕から、静かに力が抜けた。
ガストンの体が、カニッシュのすぐ傍らに崩れ落ちる。
倒れたその顔は、書庫の方を向いていた。
本棚の隙間に潜むルシアンと、見開かれた目がまっすぐに合う。
ガストンの血の気の失せた唇が、微かに動いた。音は出なかった。けれど、ルシアンには分かった。
——お逃げなさい。
肩を押さえて立ち上がった男が、倒れたガストンの頭に銃口を向けた。
ルシアンは、固く目を閉じた。
最後の銃声は、どこか遠くの出来事のように、ひどく小さく聞こえた。
「……書庫に潜んでいたのは、この老いぼれ一匹か」
「生存者は一人も残すな、との命令だ。次へ行くぞ」
足音が、少しずつ遠ざかっていく。
ルシアンは暗闇の中で目を閉じたまま、心の中で数えた。
一つ。二つ。三つ。
ガストンに言われた通りに。ガストンが最後に遺した、約束の通りに。
九。
十。
本棚の陰から這い出た時、書斎は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
ガストンと、カニッシュ。
老執事の血と、白い犬の血。赤と白の境界が失われ、床の上で重なり合い、冷たく混ざり合っている。
ルシアンは膝をつかなかった。涙も溢れなかった。泣くという感情そのものを、どこか暗い底に置き忘れてきたかのようだった。
ただ静かに腰を落とし、見開かれたままのガストンの目を、震える指先でそっと閉じた。カニッシュの血に塗れた巻き毛に、一度だけ、優しく触れた。
生き物全般が嫌いだと、今日、この犬に吐き捨てたばかりだったというのに。
胸元の封筒を確かめる。冷たい蝋の感触が、確かにそこにある。
ルシアンは、立ち上がった。
回廊に出ると、黒煙は呼吸すら遮るほどに濃くなっていた。階段の踊り場に、屋敷の護衛が一人倒れている。そのすぐ傍らに、灰色の外套の男も仰向けに倒れていた。護衛の剣が、男の喉を深々と貫いたままになっている。相打ちだったのだろう。
ルシアンは、その死体を見下ろした。
灰色の外套。灰色の仮面。背丈は、自分とさほど変わらない。
頭の中で、冷たい計算が一つずつ組み上がっていく。
(連中は全員、仮面で素顔を隠している。互いの顔を知らない。……仲間かどうかを確かめる術は、あの合言葉だけだ)
そして自分は、その答えを知っている。
ルシアンは死体から外套を剥ぎ取った。指先に絡みつく、まだ温かい血の湿り気。込み上げる吐き気を歯を食いしばって噛み殺し、外套を羽織り、冷たい仮面を顔に宛がう。革紐を後頭部で強く結ぶと、世界は細い覗き穴の大きさに切り取られた。
*
大階段を下りる途中で、ルシアンは一瞬だけ足を止めた。
玄関広間の冷たい石の床に、叔父が倒れていた。手には抜きかけた剣が握られたままで、角張った顎が、虚ろに天井を向いている。
余計な目立ち方をするな。正しいかどうかは問題ではない。そう言い続け、事なかれ主義を貫いてきた男は、目立たずに生きたまま、何の意味もなく殺されていた。
そのすぐ傍らに、叔母。少し離れた場所に、従兄のフィリップ。
ラテン語の詩を一行も覚えられなかった従兄は、目を見開いたまま、口を半開きにしていた。いずれこの家を継ぐはずだった男の顔には、もう何の野心も残っていない。
カトリックに改宗しても。息を潜めて従順に生きていても。
結末は、何一つ変わらなかったのだ。
ルシアンは、彼らの横を黙って通り過ぎた。
玄関の扉の前に、灰色の男たちが数人溜まっていた。そのうちの一人が、近づいてくるルシアンの気配に気づき、静かに振り向く。
「Ὁδὸς ἄνω κάτω——(ホドス・アノー・カートー)」
心臓が、肋骨を叩き割らんばかりに跳ね上がった。
ルシアンは喉を絞り、仮面の奥から声を低く落として告げた。
「——μία καὶ ὡυτή(ミアー・カイ・ホウテー)」
一瞬の、息の詰まるような沈黙。
男は小さく顎を引いて頷くと、屋敷の奥を指し示した。
「書庫を燃やせ。一冊残らず、だ」
ルシアンは無言のまま頷き返し、男たちの間をすり抜けて、夜の寒気の中へと足を踏み出した。
正門の崩れ落ちた残骸を越え、暗い裏通りへ入り、角を二つ曲がったところで、ルシアンはようやく立ち止まり、振り返った。
モンフォール家の屋敷が、炎に包まれていた。
二階の北の端。父の書斎の窓から、赤と橙の炎が吹き荒れている。熱風に煽られた紙片が、無数の白い鳥の群れのように、夜空へ舞い上がっていく。父の遺した書き込み。ギリシャ語の写本。そして、あのモンテーニュの随想録も。
——哲学するとは、死ぬことを学ぶことである。
今夜、自分は何一つ学びはしなかった。
死んだのは、自分以外のすべてだった。
ルシアンは、胸元の封筒を破れんばかりに握りしめた。
合言葉を見抜き、この地獄を生き延びたのは、自分の知性だ。この知性こそが、自分を救ったのだ。
そう、自分に言い聞かせようとした。
だが灰色の仮面の内側で、一筋の熱い雫が、頬を伝って静かに落ちていった。




