1話「死ぬことを学ぶ」
1話「死ぬことを学ぶ」
〈1587年〉
「坊ちゃん。またこちらにいらしたのですね」
扉の向こうから、しわがれた声がした。返事をする前に、扉は控えめに開く。白髪をきっちりと撫でつけた痩せた老人が、銀の盆を手に立っていた。
「ガストン。今、いいところなんだ」
「いいところでない時など、坊ちゃんにはございませんよ」
ガストンは呆れたように言いながら、机の端の、本の積まれていない僅かな隙間に盆を置いた。温めた葡萄酒と、蜂蜜を塗った黒パン。
「お昼もろくに召し上がっていないでしょう。せめてこれだけでも」
「いいよ。あとで食べるから」
「そうおっしゃって、昨日のパンはネズミの夕食になりました。庶民の方々は今日口にするものにも困っているのですよ」
ルシアンは小さく息を吐いて、ペンを置いた。パンを一口かじると、ガストンは満足げに目尻の皺を深くする。
「何をお読みに?」
「アリストテレスだよ。有名な『人間は社会的動物である』についてだ」
ルシアンは本をくるりと回して見せた。ガストンにギリシャ語が読めないことは分かっている。それでもこの老人は、いつも律儀に覗き込んでくれる。
「ほう。難しそうですな」
「難しくないよ。人は一人では生きられない、という意味だ。……ガストンは、本当だと思う?」
ガストンは少し考えてから、静かに笑った。
「さあ。じーやには分かりかねますが……アドリアン様なら、きっと一晩中でも語っておられたでしょうな」
ルシアンは、黙ってパンを置いた。
*
ルシアン・ド・モンフォール。十五歳。
背丈はもう大人とさほど変わらない。だが、ペンを握る指は細く、窓から差し込む秋の光に照らされた横顔には、まだ少年の線が残っている。
モンフォール家は、パリのマレ地区の外れに屋敷を構えるユグノー(プロテスタント)の貴族だった。
かつては宮廷にも出入りした名家だったという。
今では使用人も減り、屋敷を守る護衛は片手で数えるほどしかいない。それでも食卓に肉が並ばない日はなく、書斎には本が溢れている。没落した、と言っても、せいぜい「少し裕福な家」に落ちた程度のことだ。
ただ、この街でユグノーであることの重さは、財産とは別の話だった。
十五年前の夏、このパリで、数千のユグノーが殺された。サン=バルテルミの夜だ。その後、一族は表向きカトリックに改宗し、息を潜めるように生きてきた。二年前には王令によってユグノーの信仰そのものが禁じられ、改宗を拒む者は国を追われた。今のパリは、旧教同盟の街だ。
モンフォール家が没落した理由も、それだと言われている。
この書斎は、父のものだった。
アドリアン・ド・モンフォール。十五年前のあの夜、改宗を拒んで死んだ男。ルシアンが生まれる、数ヶ月前のことだ。
母のエレーヌも、もういない。年を重ねてからの出産が体に障り、ルシアンが幼い時に亡くなった。母について覚えているのは、髪の色と、子守唄の旋律の切れ端くらいだ。
それからずっと、ルシアンの傍にいたのはガストンだった。熱を出した夜に枕元にいたのも、初めてラテン語の詩を暗唱できた日に手を叩いて喜んだのも、この老執事だった。
棚に並ぶ本の多くには、父の細い筆跡で書き込みが残っている。ルシアンは、顔も声も知らない父を、その筆跡でしか知らない。
そしてこの屋敷では、父の名は滅多に口にされない。
*
机の上には、ラテン語の文法書と、ギリシャ語の写本、ヘブライ語の詩篇が広げられていた。ルシアンはその三つを突き合わせて、一つの文の解釈の違いを書き出している。誰に命じられたわけでもない。
(あと三年だ……)
十八になれば、大学に行ける。パリの大学は、ユグノーの血を引く者を歓迎しないだろう。ならばモンペリエか、ジュネーヴの学院か。学位を取り、論文を書き、名のある学者の推薦を得る。
そうすれば——
そうすれば、誰も自分を「アドリアンの息子」とは呼ばなくなる。
ルシアンは、学問こそがこの世で唯一、公平な物差しだと信じていた。家柄は没落する。財産は失われる。信仰は、人を殺す理由にさえなる。だが、ラテン語の格変化は誰が唱えても同じだ。学位は、それを得た本人の頭の中にしか宿らない。
だから、積み上げた。誰よりも早く、誰よりも多く。
六つの言語、修辞学、論理学、幾何学、天文学。屋敷を訪れた修道士と議論して言い負かしたのは、十三の時だった。
それでも、まだ足りなかった。
*
夕食の席は、いつも静かだった。
長い食卓の上座には当主である叔父が座り、その両脇に叔母と従兄弟たちが並ぶ。ルシアンの席は、末席に近いところと決まっていた。
燭台の火が揺れる。銀器の触れ合う音だけが響く。
「……ルシアン」
叔父が杯を置いて、口を開いた。父の兄にあたるこの男は、父とは似ても似つかないと誰もが言う。角張った顎に、疲れた目をしていた。
「先日、教区の司祭殿と議論をしたそうだな」
「はい」
ルシアンは背筋を伸ばした。議論ではない。司祭の引用の誤りを指摘しただけだ。アウグスティヌスの一節を、司祭は別の著作と取り違えていた。ルシアンは原典の巻と章まで示して、それを正した。
褒められる、とは思っていなかった。だが、ほんの少しだけ、期待はしていた。
「二度とするな」
叔父の声は低く、平坦だった。
「あの司祭は、旧教同盟の有力者とも繋がっている。改宗した家の小僧が、司祭の聖書解釈を正す。それがこの街でどう見えるか、分からないお前ではあるまい。……余計な目立ち方をするな」
「僕は、間違いを正しただけです」
「正しいかどうかは問題ではない」
叔父は、ルシアンを見ずに言った。
「お前の父も、正しかった。その結果がこれだ」
食卓の空気が、一瞬だけ凍った。
従兄のフィリップが、皿の上に目を落としたまま、口の端だけで笑ったのが見えた。二つ年上の彼は、ラテン語の詩を一行も覚えられない。それでも、いずれこの家を継ぐのはフィリップだ。
ルシアンは、それ以上何も言わなかった。ナイフとフォークを揃えて置き、静かに頭を下げて、席を立った。
*
書斎へ戻る長い廊下は、静まり返っていた。
燭台の火はとうに落とされ、窓から射し込む月明かりだけが、石の床に青白い格子を描いている。
(あと三年だ……)
歩きながら、もう一度、心の中で数えた。
学位さえ手に入れれば。誰も否定できない証を、この手に掴めば。そうすれば叔父も、フィリップも、この家の誰もが自分を「あの男の息子」としてではなく、ルシアンとして見るはずだ。
そう信じていた。信じることでしか、この屋敷で息をする方法を知らなかった。
ルシアンは窓辺で足を止め、ふっと冷笑を浮かべた。
「あんな人達の戯言を聞いて何になるんだ。この世は、知識を持つ者こそが本当の自由と力を手に入れるというのに」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
「僕は、こんな没落した貴族の権威なんていらないね。僕の知性と、この美貌……それさえあれば、どんな場所でも上り詰めてみせるさ」
窓硝子に映る自分の顔に向かって、十五歳の少年はそう言い放つ。
その時、足元で小さく爪の音がした。
白い巻き毛の犬が、廊下の暗がりから尻尾を振りながら駆けてくる。屋敷で飼われているカニッシュ犬だ。名前はない。ルシアンが犬種のままそう呼ぶので、屋敷の者たちもいつしか「カニッシュ」と呼ぶようになった。
カニッシュは一声鳴くと、ルシアンの足元に勢いよく飛びついた。
「うわっ……! なにするんだ、やめろ! 服が汚れるだろう!」
さっきまでの気取った態度はどこへやら、ルシアンは盛大に顔を引きつらせた。
「君という生き物は……。いいかい、僕はね、僕自身以外の、この世で勝手に息をして勝手に動いている生き物全般が、心底嫌いなんだ!」
身をよじりながら、ルシアンはまとわりつく犬を両手で引き離す。乱暴に払いのけるのではなく、怪我をさせない程度の、妙に慎重な力加減で。
カニッシュは主人の拒絶などまるで気にせず、舌を出して甘えた声を上げた。
「……触るなと言っているだろう、まったく」
眉間に皺を寄せたまま、ルシアンは再び歩き出す。
その後ろを、白い犬が当然のような顔でついていく。
ルシアンは一度も振り返らなかった。けれど、書斎の扉を閉める前に、犬が入れるだけの隙間を開けておくことは忘れなかった。
*
その夜も、ルシアンは書斎の古い机に向かっていた。
足元では、いつの間にか部屋へ忍び込んでいたカニッシュが、白い毛玉のように丸くなって静かな寝息を立てている。
開いているのは、七年前にボルドーで出版されて以来、評判を呼んでいる随想録だった。著者はミシェル・ド・モンテーニュ。つい二年前までボルドー市長を務めていた高名な思想家だ。
ルシアンは気に入らない一節を紙に書き写し、その余白にびっしりと反論を書き連ねていた。
「……『哲学するとは、死ぬことを学ぶことである』」
書き写したばかりの一節を口の中で小さく反芻し、心底くだらないとばかりに鼻で笑う。
(ラテン語ですらないフランス俗語で書かれた本で、言うことがこれか。死に方など学んでどうする。いま生きている人間が学ぶべきは、いかにしてこの愚かな世界の上層へ上り詰めるか、ただそれだけだろう)
カリカリと、羽ペンの先で紙の余白を小突く。
(死など、乞食にも国王にも等しく訪れるただの事象に過ぎない。だからこそ、息をしている間に圧倒的な差をつけるんだ。死を静かに待つための哲学なんて、戦う術を持たない敗者の惨めな慰めに過ぎないね)
主人の冷ややかな心の声に反応したのか、足元でカニッシュの長い耳がぴくりと跳ねた。
「……何だい。君も僕の意見に賛成かい?」
犬は答えない。ゆっくりと頭を持ち上げると、黒く湿った鼻先を、窓の向こうの闇へとまっすぐに向けた。
その時、遠くの夜空を震わせて、重苦しい鐘の音が鳴り響いた。
ゴォン……
一度。屋敷のすぐ近くにそびえるサン=ポール教会が、夜の祈りを告げる鐘だ。
二度。三度。
突如、カニッシュが跳ね起きた。背中の白い毛を逆立て、窓の格子に向かって猛烈に吠え立てる。
「おい、静かにしなさい! 夜中だぞ、叔父上に聞こえたら……」
四度、五度。
鐘の音は止むどころか、次第にその間隔を狂わせ、乱れていく。まるで誰かが綱にしがみつき、狂ったように引き続けているかのようだった。
ルシアンの指先から、羽ペンがぽろりとこぼれ落ちた。
ポタリと落ちたインクが、紙に書き写した「死」という文字を、黒く塗りつぶしていく。
十五年前のあの夏。パリ中のユグノーが狩り立てられた惨劇の夜も、この異様な鐘の音から始まったのだと、ガストンから教わっていた。
幼い頃から何度も聞かされてきたその話が、今、初めて匂いを持った。
窓の外、薄暗い裏通りの向こう側。
いくつもの松明の火が、闇の中で揺れていた。




