プロローグ「神殺しの夜」
プロローグ「神殺しの夜」
〈1668年〉
冬の庭は、白く乾いていた。
石造りの回廊に差し込む陽の光は、あまりにも弱々しい。その日陰の隅に置かれた木製の長椅子に、一人の老人が深く腰を掛けていた。
長い年月が刻んだ深い皺。白く痩せ細った手には、使い込まれた一本の木杖が握られている。だが、その双眸だけは歳月に濁ることなく、澄み切った冷たさと、どこか恐ろしいほどの知性を宿したままだった。
「……先生」
隣に立った若い生徒が、その佇まいに気圧されるように、恐る恐る声をかけた。
「……どうしたんだい」
老人は穏やかに、しかし相手の胸の奥まで見透かすような響きで答えた。その視線は生徒を見ることなく、ずっと遠く、庭の向こうに広がる灰色の空へと向けられている。
生徒は促されるように、その隣へ腰を下ろした。冷たい石の感覚が、服越しに伝わってくる。
「……先生は、怖くないのですか」
「何がかな」
「王様の御代が、これほどまでに大きくなっていくことです。宮廷の方々は皆、陛下お一人の栄光のために競うように財を注ぎ込んでいる。……その陰で民は、日々の重税に喘いでいるというのに」
老人は小さく、優しく笑った。目元の笑い皺が、さらに深く刻まれる。
「君は、賢い子だね」
「褒め言葉には聞こえません」
「ちゃんと褒めているつもりなんだけどね」
老人はゆっくりと杖を持ち直し、その先で庭の隅にある枯れた薔薇の茂みを指し示した。
「あの薔薇を、よく見てごらん。今は枯れ果てているように見えるだろう。でもね、根はまだ死んではいないんだよ。冷たい土の下で、じっと次の春を待っている」
「……それが、何だというのです」
「権力というものはね、咲き誇れば咲き誇るほど、その根元をやせ細らせていくものなんだ。より多く、より高く、美しい花を咲かせようとすればするほど、土の養分は際限なく吸い上げられ、枯渇していく」
生徒は黙って、老人の横顔を見つめた。かつてどんな光の中にいたのかすら分からない、その横顔を。
「今、この国の王は、歴史上誰も見たことのないほど見事な花を咲かせようとしている。……ただ、その花があまりに大きく、あまりに美しくなった時。支える側の根の方は、一体どうなっていると思う?」
「……痩せ細っている、ということですか」
「そうだね。そして痩せた根は、いつかきっと、支えきれなくなる日が来る。どれほど誇り高く、見事な花であろうともね」
乾いた冬の風が、回廊を吹き抜けた。老人の白い髪が、わずかに揺れる。
「それは……いつのことなのですか」
「分からないよ」
老人はあっさりと、どこか柔らかく答えた。
「私は予言者でも何でもない。ただの、年老いた教師にすぎないからね。明日のことすら、本当のところは何も分からないんだ」
「でも、先ほどのお話は……」
「ただね」
老人は言葉を重ね、その瞳をわずかに細めた。
「長く生きるということはね、同じ形の過ちを、何度も、何度も見てしまうということでもあるんだよ。……私はね、自分たちだけの『正しさ』のために、何の罪もない人間を容赦なく焼き払うのを見たことがある。まだ私が、ほんの若者だった頃のことだ」
生徒は息を呑んだ。
老人が自らの過去について口にするのを聞いたのは、これが初めてだった。
「あの夜から、もう幾年月が経つことだろうね……。それでも、人というものはちっとも変わらないものだ。信仰という名を、国家の栄光という名に、少しばかり着替えただけのことさ」
老人はそこでふっと言葉を切り、小さく息を吐いた。
「……年寄りの戯言だ。忘れておくれ」
「……先生」
生徒は思わず、強い声で呼びかけていた。
「先生は、一体……何をご覧になってきたのですか」
老人はしばらくの間、答えなかった。
ただ、枯れた薔薇の茂みの向こうに広がる冬の乾いた空を、じっと見つめ続けていた。
その横顔からは、何も読み取れなかった。それでも生徒には、皺に埋もれたその目の奥に、自分の知らない長い歳月が、今も眠っているように思えた。
やがて老人はふっと目を細め、小さく笑って、こう呟いた。
「さあ、どうだろうね」
それ以上は、何も語られなかった。
老いた教師と若い生徒は、ただ並んで、冷たい冬の庭をいつまでも眺めていた。
〈1589年〉
一人の少年が、もう一人の少年を見つめていた。
二人とも、背丈はもう大人と大して変わらない。
問いかけようとする少年の頬には、まだあどけなさが残っていた。張り詰めた空気を纏ってはいるが、その硬さはどこか不器用で、強がりが透けて見える。
「……君は、誰を殺そうとしている?」
低く、落ち着いた声だった。けれどその奥の震えまでは、隠しきれていない。
問われた少年は、しばらく何も答えなかった。
年齢に似合わない険しさが、その横顔を覆っている。引き返す道を自らの手で焼き捨ててきた者だけが持つ、危うい静けさだった。
やがて彼は、低く答えた。
「神を」
問いかけた少年が、わずかに目を細める。
「……いや」
暗闇の奥の何かを見据えるように、問われた少年の瞳が冷たく澄んだ。拭いきれない青さと、引き返せない覚悟とが、そこには同時に揺れていた。
「世界だ」




