8話「迷える者への導き」
8話「迷える者への導き」
祭壇の裏にひっそりと隠された小さな木の扉を抜けると、そこには、外の廃墟からは到底想像もつかない空間が広がっていた。
かつては聖具室であったのだろう。壁という壁が、天井近くまでびっしりと書棚で埋め尽くされていた。ギリシャ語、ラテン語、アラビア語。見たこともない奇妙な文字で記された羊皮紙の写本。背表紙の革が剥げ落ちた古書が隙間なく押し込まれ、それでも収まりきらない書物が、床のあちこちに塔のように積み上がっている。
鼻をくすぐるのは、古い紙とインク、そして乾いた羊皮紙の匂い。
初めてこの部屋に足を踏み入れた日、ルシアンは息を呑み、しばらく言葉を失った。あの夜に燃え落ちた父の書斎が、形を変えて再び現れたかのような気がしたのだ。
……もっとも、その感動は三日ともたなかった。
「……どうやったら、ここまで散らかせるんだ」
床に積まれた本の塔を崩さないよう、慎重に脇へ退けながら、ルシアンはうんざりと溜息を吐いた。
天文学の論考の上に、無造作に置かれた料理の覚え書き。アラビア語の医学書の頁に挟まれた、すっかり乾き切ったパンの欠片。棚の分類など、あってないようなものだった。イムホテプは本を読み終えると、ただその場に置き、すぐに次の本を読み始める。その果てしない繰り返しの末に出来上がったのが、この混沌とした書庫だった。
書物の整理。それが、今日のルシアンに命じられた新たな雑用だった。
薪割りよりは遥かにましだ。少なくとも、手のひらの豆が増えることはない。それに、見たこともない稀少な本を自由に手に取れるのは、素直に言えば、ほんの少しだけ心が躍る作業でもあった。
言語ごとに分け、さらに主題ごとに並べ替える。ルシアンは黙々と、しかし手際よく作業を進めた。
その最中、ふと、指先が止まった。
書棚の一番下の段。分厚い法学書の陰に、古い布にくるまれた何かが押し込まれていた。
そっと引き出してみると、それは少年の手にすっぽりと収まるほどの、小さな一冊の本だった。布をほどくと、角が丸く削れ、背が柔らかく撓んだ、擦り切れた革の表紙が現れた。何度も、何千回も開かれてきた証拠だった。
頁をそっとめくった瞬間、ルシアンは目を瞬かせた。
ヘブライ語だ。
右から左へと流れる、角張った異国の文字。ルシアンは指先でその行を静かに辿り、声に出さずに読んだ。
(聞け、イスラエルよ。我らの神、主は、唯一の主である……)
(……シェマーの祈りだ)
かつて詩篇を読むために、父の書斎でヘブライ語の文法書を何冊も読み込んだ。この一節が、ユダヤの民にとってどれほど重い祈りであるかも、知識としては知っていた。
これは、学者が研究のために手元に置く資料などではない。
祈りを捧げるための本だ。それも、毎日欠かさず手に取られてきた、生きた信仰の本だった。
さらに頁をめくると、余白に掠れた細かな文字で書き込みがあった。ヘブライ語ではない。ラテン語の綴りに似ているが、より崩れた筆致。
(……イタリア語……いや、違う。ポルトガル語か)
読めないわけではなかった。ラテン語とイタリア語の知識があれば、おおよその意味は拾える。
そこに記されていたのは、薬草の名前と、それを配合するための分量だった。
(祈祷書の余白に、薬の処方を書き留めている……?)
ルシアンは、手の中の小さな本を見つめた。
イムホテプの書き込みではない。あの老人の筆跡は、いつもギリシャ語か、コプトの文字だからだ。
ヘブライ語で祈り、ポルトガル語で書き留め、薬草の分量を気にする誰か。
そして、このフランスの地では、ユダヤ人は二百年も昔に国外へ追放されているはずだった。
*
背後で、古い扉の軋む音が響いた。
ルシアンがはっと振り返ると、書庫の入り口に、一人の男が立っていた。
年の頃は五十を少し過ぎたあたりだろうか。黒い帽子を手に持ち、仕立ての良い、しかしよく着込まれた上着を身につけている。肩からは、使い込まれた革の鞄を下げていた。白髪の混じった髪をきちんと撫でつけ、目元には、穏やかで温厚そうな皺が刻まれている。
貧民窟のドブの臭いとも、処刑台の死臭とも無縁の、清潔で温かな空気をまとった男だった。
「おや……」
男は、ルシアンを見て驚いたように目を丸くした。
「先生のところに、若いお客がいるとは珍しい。はじめまして、坊や。私は——」
そこで、男の言葉がぴたりと止まった。
その視線が、ルシアンの手元へと落ちていた。
擦り切れた革の表紙。ほどかれた古い布。そして、開かれたままのヘブライ語の頁。
男の顔から、潮が引くように血の気が失せた。
穏やかな笑みは、そのまま顔に貼りついていた。だが、帽子を握る指先が、白くなるほど強張っているのを、ルシアンは見逃さなかった。
(……この男だ)
ヘブライ語で祈り、ポルトガル語で書き、薬の分量を気にする誰か。医者の鞄を下げた、この男。
狭い書庫に、息の詰まるような沈黙が降り積もった。
ルシアンは、ゆっくりと手の中の祈祷書を持ち上げた。
頭の中で、冷たい計算が組み上がっていく。いまのこの国で、ユダヤの祈りを捧げる者が、それを知られたらどうなるか。異端審問。火刑。財産の没収と、一族の破滅。
この男の命は、いま、この小さな本一冊にかかっている。
そして、その本を握っているのは、他ならぬ自分だ。
ルシアンの唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がりかけた。
ここ数日、薪を割り、泥に塗れ、老人の着替えを手伝い、ことごとく言い負かされてきた。その自分が、久しぶりに、誰かより上の立場に立っている。
「……これは、あなたのものですか」
男は答えなかった。いや、答えられなかったのだ。
「ずいぶんと熱心に読まれた本ですね。毎日のように手に取っていなければ、こんなふうに表紙は擦り切れない」
ルシアンは頁をめくってみせた。男の喉が、小さく上下するのが見えた。
「それに、この余白の書き込み。ポルトガル語ですね? ヘブライ語の祈りの横に、薬草の分量が几帳面に記されている」
そこまで一気に畳みかけて、ルシアンは男の目をまっすぐに見据えた。
男は、もう笑っていなかった。
穏やかだった瞳が、ただ静かに、ルシアンを見つめ返していた。
怯えている目だった。だが、それだけではなかった。
覚悟を決めた者の目だった。
いつか、こんな日が来るのではないかと。いつか誰かに見つかり、築き上げた暮らしも命も、すべてを失う日が来るのだと。最初から知っていながら、それでも祈ることをやめなかった者の目だった。
ルシアンの脳裏に、ふと、別の光景が蘇った。
十五年前に改宗し、息を潜めて、ひっそりと暮らしてきたモンフォールの屋敷。余計な目立ち方をするなと、影のように生きていた叔父。その一族が、それでも灰色の仮面たちに焼き尽くされた、あの夜。
名を隠し、信仰を隠し、ただ生き延びるために偽り続け、それでも最後には見つかって殺されていく者たち。
ルシアンは、口の端に浮かびかけていた笑みを、そっと引っ込めた。
そして、手の中の祈祷書を、ゆっくりと閉じた。
「……珍しい写本ですね」
何事もなかったかのような、平坦で澄んだ声だった。
「ヘブライ語の文法を学ぶのに、ちょうどいい。詩篇の勉強をしていた頃、こういう写本を探していたんです。……学者が言語の研究のために、異国の書物を手元に置くのは、ごく自然なことですしね」
男が、わずかに目を見開いた。
ルシアンは祈祷書を古い布で丁寧にくるみ直すと、男の前まで静かに歩み寄り、両手でそれを差し出した。
「これ、法学書の陰に押し込まれていましたよ。ああいう湿気のある場所に置くと、紙が傷みます」
男はしばらくの間、差し出された包みと、少年の青い瞳を見比べていた。
やがて、震える両手で、そっとそれを受け取った。
壊れやすい宝物を扱うような、ひどく慎重な手つきだった。
*
コツン、コツン。
礼拝堂の方から、聞き覚えのある杖の音が近づいてきた。
「……来ておったか、フランシスコ」
書庫の入り口に顔を出したイムホテプは、男と少年を交互に見比べ、白い髭の奥で、わずかに片眉を上げた。
「……何かあったか」
「いいえ、先生」
男は素早く包みを鞄の奥へしまい込むと、いつもの穏やかな笑みを取り戻していた。
「こちらの若い方に、書庫を案内していただいていたところです」
イムホテプは、もう一度二人をじっと見比べた。何かを察したのかどうか、その皺だらけの顔からは何も読み取れなかった。
「そうか。ならば、さっさと診察を済ませるとしよう」
礼拝堂の長椅子に腰を下ろしたイムホテプの前に、男は静かに膝をついた。鞄から使い慣れた道具を取り出して並べると、老人の細い手首を取り、脈を数え始める。
ルシアンは書庫の戸口にもたれかかり、腕を組んでその光景を眺めていた。
「……どこも悪くないと、毎回言っておるだろうに」
イムホテプが、不機嫌そうにぼそりとぼやいた。
「ええ、毎回伺っておりますよ」
男は顔も上げずに答えた。
「ですが、先生のお歳では、どこも悪くないことを確かめるのが、医者の務めですから。……さあ、舌を見せてください」
「……」
「先生」
イムホテプは、子供のように不服そうな顔で、しぶしぶ口を開けた。
ルシアンは危うく吹き出しかけて、慌てて拳を口に当て、咳払いでごまかした。
どんな問いにも眉ひとつ動かさず、自分を何度も言い負かしてきた、あの気難しい老人が。この穏やかな医者の前では、まるで苦い薬を嫌がる幼子だった。
「……何を笑っておる」
「いえ、何も」
ルシアンは、すまし顔で天井へと目を逸らした。
一通りの診察を終えると、男は道具を鞄にしまいながら、満足そうに頷いた。
「脈も呼吸も、相変わらずお見事なほどしっかりしておられます。この分なら、私の方が先に参ってしまいそうですね」
「だから言っておるのだ。医者の道楽に、老いぼれを付き合わせるなと」
イムホテプはそう言って袖を下ろすと、顎で戸口のルシアンを示した。
「フランシスコ。これは、しばらくここに置くことになった小僧だ」
男が、改めてルシアンの方に向き直る。
「先ほどは、名乗りそびれてしまいましたね。フランシスコ・エンリケスと申します。この先の街で、ささやかな医者をしております」
男は胸に手を当て、丁寧に一礼した。
「あなたのお名前を、伺っても?」
ルシアンは、口を開きかけて、止まった。
ルシアン・ド・モンフォール。十五年間、自分を縛り、そして誇りとしてきた名前。
だが、あの刷り物の上では、モンフォール家の人間は全員死んでいる。いまその名を軽々しく口にすれば、灰色の外套がどこから聞きつけてくるかも分からない。
それに。
その名は、もう今の自分のものではないような気がした。
「……ルシアンです」
少しの間の後、少年は静かに言った。
「ただの、ルシアンです」
フランシスコは、それ以上は何も尋ねなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、瞳の奥に深い温もりを宿して、ルシアンを見つめた。本当の名を隠して生きる者だけが分かる何かを、少年の中に見つけたかのような眼差しだった。
「……よろしく、ルシアンくん」
穏やかな声で、フランシスコはそう言った。
*
日が茜色に傾きかけた頃、フランシスコは帰り支度を始めた。
イムホテプはすでに書庫の奥へ引っ込んでおり、礼拝堂の扉まで見送りに出たのは、ルシアン一人だった。もちろん、誰かに命じられたわけではない。ただ、なんとなく足がそちらへ向いただけだった。
扉の外では、モンフォコンの絞首台が、燃えるような夕陽を背に、黒く長い影を伸ばしていた。
フランシスコは帽子をかぶり直すと、ふと立ち止まり、振り返った。
「ルシアンくん」
「何ですか」
「……先ほどは、ありがとう」
ルシアンは、わざとらしく小首を傾げてみせた。
「何のことですか。僕はただ、散らかった書庫を片付けていただけですよ」
「……そうでしたね」
フランシスコは目尻の皺を深くして、柔らかく笑った。その笑い方が、ほんの少しだけ、自分を庇って死んだガストンに似ている気がして、ルシアンは慌てて視線を逸らした。
「あの本はね……私の祖母のものだったのです。昔、リスボンを追われる時に、外套の裏地に縫い込んで持ち出したのだと聞かされています。……もう、私にはあれしか残っていないのですよ」
フランシスコは鞄の上から、包みのあたりにそっと手を置いた。
「家に置いておけば、いつ誰に見つかって訴えられるか分からない。だから、先生にお預かりいただいているのです。ここなら……処刑台のすぐそばの廃墟になど、誰も近づきませんから」
ルシアンは、何も言えなかった。
掛けるべき言葉が、どうしても見つからなかった。家も名も奪われた自分と、名を偽り、祖母の祈りを廃墟に隠して生きる男。どちらが惨めで、どちらがましなのか、今のルシアンには分からなかった。
「来週もまた、先生の診察に参ります」
フランシスコは、坂の下へと続く薄暗い道に目を向けた。
「その時、もしよろしければ、私の往診について来ませんか? この街には……書物には決して書いていないことが、たくさんありますから」
「……僕が、ですか?」
「ええ。君のように賢い若者が、この街の現実を見たら何を思うのか。少し、興味があるのですよ」
ルシアンは、鼻で小さく笑ってみせた。
貧民窟の泥と、吐き気のするような匂い。路地に打ち捨てられていた、生きているのか死んでいるのかも分からない人々。あの夜に通り抜けた光景が、脳裏をかすめる。
「あんな場所の人間を診たところで、一体何になるんです。薪割りより無駄な労力ですよ」
フランシスコは、まったく気を悪くした様子もなかった。
ただ、穏やかに微笑んだまま、帽子のつばに軽く手をかけた。
「では、来週。それを確かめに来てください」
坂道をゆっくりと下っていく背中は、すぐに深まりゆく夕闇の中へと紛れて消えた。
ルシアンは古い扉にもたれかかり、その背中が見えなくなるまで、ぼんやりと見送っていた。
絞首台の鎖が、冷たい夕風に揺れて、軋む音を立てていた。




