届かない部品を、待つだけにはしない
【前回までの人物】
・ノア・フェルド:父の工房を継ごうとしている修理職人。終えた二件の実績を商会へ提出し、次の仕入れを確かめようとしている。
・ルドルフ・ケスナー:工房への貸し手。元本金貨百八十枚と、三十日以内の継続審査の期限はそのまま。
・フィーナ・ベルク:独立した刻印職人。自分の納品に必要な材を待ち、ノアへ川の便の情報共有を頼んだ。
船が来ないと言われた時、ノアは、最初に自分の空いた作業台を思い浮かべた。
河港には、積み上げた木箱と濡れた縄の匂いがあった。荷を載せていない車も、並んでいるだけで場所を取る。工房なら壁際へ寄せれば済む物が、ここでは誰かの通る幅を狭くしていた。
川へ向いた事務小屋の前で、ノアは渡し板の図を広げている女性へ声を掛けた。
「マリナ・ロスさんは、こちらにいらっしゃいますか」
「私。荷物を出す方? 待ってる方?」
「待っている方です。フェルド工房のノアといいます」
彼女は濃茶の髪を襟元で結び、生成りのシャツへ藍の短い上着を羽織っていた。図を押さえる手には、縄に擦れた白い線がある。
ノアの名を聞くと、紙から手を離した。
「ロルフさんの。工房、開けてるんだね」
「まだ、続けられるかを確かめている所です」
「じゃあ、今日こそ届くよって顔で迎えられなくて悪いけど、聞いて。上の桟橋、渡し板を支える所が傷んでる。直す間、重い荷は下ろせない」
彼女が図の端を折った。
出発を予定していた船は、上流の別の荷も合わせて運ぶという。ノアの欲しい導線や金具だけを抜き出して、先にここへ届かせる便ではなかった。
「いつ頃なら」
「早くて明後日。今あるのは、直す人から来た見込み。積んだ知らせが入ったら、到着の予定をもう一度出す」
明後日、とノアは自分の紙へ書きかけた。
途中でペンを止め、その前に「最短」と足す。
マリナは、その字を横から見た。
「お父さんも、手帳を持ってきたよ。端が丸くなるまで使ってた」
「覚えていたんですね」
「荷を待つ時の顔は、覚える。怒る人も、黙って帰る人もいるから」
「父は、どっちでしたか」
「何を今日中に降ろせるかって、聞く人。あとは、帰ってから困ってたのかもしれないけど」
彼女は、そこから父の気持ちを説明しなかった。
ノアも、黙って続きを待つ代わりに、荷の一覧へ目を戻した。
*
別の船へ分ける方法は、あった。
ただし上流で積み替える手間と、小口の運賃が増える。そもそも、欲しい部材がどの箱に入っているかは、出荷する店へ確かめなければならない。
マリナは二つの経路を指で辿った。安い便の線を、都合よく短くはしなかった。
「急がせるなら、その代金を出す人と、受け取れる人を決めて。早い船に載せても、夕方に店を閉めてたら、私たちも荷物と一緒に立ち尽くす」
「受け取るのは僕です。でも、いま全部を早める費用を払うのは……」
「必要な物が全部かどうか、そっちを先に決めたら?」
ノアは一覧を見直した。
導線も、板材も、いつか使う。けれど、次の客が何を持ってくるかはまだ分からない。
不足しそうな物を全部先に揃えれば、作業台より先に財布が空く。
「今朝は、便の状況だけ教えてください。出荷元への問合せは、必要な寸法を揃えてから、改めて頼みます」
「うん。その方が、向こうの人も箱を何度も開けずに済む」
彼女は、図を押さえていた小石を外した。
風に煽られる前に紙を畳む手が、早い。
「船が動かない間、ここも仕事が止まるんでしょうか」
「荷が来ない日は、荷車が壊れてたのを思い出す日になるね」
マリナが、小屋の横を顎で示した。
一台の荷車が、片輪を止めて置かれている。車の後ろに、短い斜面板と、縄を巻く小さな巻取器があった。
「片側の巻取りが跳ねる。使うのをやめたまま、修理を頼みそびれてた。あれも、届かない部品を待ってるのかと思って、見ないことにしてたんだ」
ノアは近寄る前に、彼女の顔を見た。
「まだ、原因は見ていないんですね」
「うん。船の話ならするけど、歯車の中身まで見える顔はしないよ」
少し笑ってから、彼女は巻取器へ目を戻した。
「工房へ持っていけば、調べてもらえる?」
*
その場で直せるとは、ノアは答えなかった。
まず、いつ跳ねるのか。軽い箱でも起きるのか。音が変わったのはいつか。
マリナは車を動かさず、後ろの巻取器を指して答えた。最後に使った時、重い樽を載せる途中で、右だけ縄が少し戻ったという。下に人は入れておらず、樽は斜面板の途中で止められた。
「止めておいてもらえて、助かりました。ここで荷を掛けて、もう一度起こしてみるのは、やめましょう」
「同じ樽をもう一回転がす気はないよ。今度は、樽が大丈夫でも、私の胃が保たない」
笑う声のあと、彼女の指が縄の上で止まった。
ノアは、取付けの形を見た。
巻取器は、車へ直接埋め込まれていない。台座ごと外せる。縄の端を荷から離したまま、工房へ持ち込める形だった。
「まず原因を調べる分が、銅貨十枚です。開ける前に、預かった形も控えます。修理の値段は、必要な物が分かってから。それでよければ」
「お願い。今日は取り外して持っていく。車をもう一台借りるくらいなら、先に中が知りたい」
「急ぐとは思いますが、今日使えるようになるとは、まだ言えません」
「うん。借りる費用と比べたいんだ。中身が分からないまま決めるより、いい」
彼女の返事は、はっきりしていた。
同じ十枚の説明でも、エダへ話した時とは、聞きたい所が違う。
急ぐ理由を持つ客に、急ぐと答えるだけでは、役に立てないのだと思った。
持込みは、午後。
マリナが自分の所で台座を外し、運べる人の手が空いてからに決めた。
ノアは巻取器に触らず、寸法の控えだけを持って戻った。
*
工房の前で、フィーナに会った。
細い筒を持ち、戸を叩くか迷っていたらしい。ノアの手元の紙を見て、眉が少し上がった。
「帰ってきた。川は、どうだった?」
「早くて明後日です。でも、積込みはまだ決まっていません」
フィーナは息を吐いた。
銅色の髪を押さえ、筒の端を掌へ軽く当てる。
「じゃあ、午後に別の店へ行く。少し長めの材から取る案も、値段を聞いて比べる」
「納める日に、間に合いますか」
「それを、これから相手に話す。間に合うって顔で帰る方が、あとで嫌な顔になるから」
ノアは頷きかけ、彼女の持つ筒を見た。
図面の端に、小さな数字が並んでいる。自分の部品を待つ人にも、その先で待っている人がいた。
「僕も、午後は荷車の巻取器を診断します。まだ部品は決めていません」
「じゃあ、今日中に直すとは言ってない?」
「はい。中を見てからにしました」
「よかった。昨日、寝てる間の三件目って言ったけど、起きてる間の無茶も、見逃したくはないから」
彼女が笑う。
ノアも、昨日の冗談を思い出して笑った。
フィーナは机へ道具を広げず、自分の納品先へ向かった。今日の巻取器に刻印の仕事が要るかも、まだ分からない。要った時に、担当と対価を頼めばよかった。
*
午後、持ち込まれた巻取器は、見た時より重かった。
マリナと一緒に台の低い所へ載せる。縄は外したままで、魔石も別の袋に入っていた。ノアはその二つを控え、預りの紙を渡した。
受け取った銅貨十枚が、机で短い音を立てる。
暖房具と作業灯の代金ではない。新しい、原因を調べる仕事の十枚だった。
「動かす石は、こっち。大きいのに替えたら持ち上がるかって話も出たけど、やめといた」
「途中で戻ったなら、強く回せば直るとは限りません。先に、戻らないように止める所を見ます」
取っ手をゆっくり回す。
荷のない軸は、軽い擦れ音を立てた。だが、一周のうち同じ所で、細い引っ掛かりがある。
ノアは印を付け、その位置で止めた。
蓋を外すと、古い油の匂いが上がった。
歯の端に、黒い欠片が寄っている。一枚の歯だけが、隣より短かった。
ノアはそこを布で拭う前に、マリナにも見えるよう灯りを寄せた。
「ここ、欠けています。これだけが原因とは、まだ言えません。でも、石を強くしても、この形は戻りません」
「川の便を待つ前に、もう駄目になってた方か」
「はい。あと、こっちも見ます」
歯車を抜く順を紙へ残し、留めを緩めた。
マリナは作業台へ肘を載せず、ノアの手が動く場所を空けた。気になる所があると、手ではなく声で止める。
「その輪、裏表があるの?」
「あります。厚さも、片方が少し減っています。今の向きで写しておきます」
軸を支える輪に、片寄った擦れがあった。
歯だけを交換すれば終わり、と言いたくなる所だった。ノアは抜いた部品を元の順に並べ、軸の動く幅を確かめる。
前世の工場の値と同じには出来ない。当地の材と、刻印が与える力を見なければならない。
それでも、どこが擦れたかは、実物が教えてくれる。
「軸が、この輪の中で余分に動いています。欠けた歯だけを換えても、同じ片側へ寄るかもしれません」
「じゃあ、輪も新品?」
「その寸法で使える物があるかを、調べたいです。削って使える材かも、厚さを見てから。今日は、候補までにさせてください」
そう答えると、マリナは椅子の背から体を起こした。
「船を待つだけの紙じゃなくなったね」
ノアも、台の上を見た。
朝は、導線も板も金具も、全部まとめて「待つ物」だった。
いまは、傷んだ歯車と支えの輪、それぞれの寸法がある。再利用してはいけない歯の欠けと、材の厚さを確かめれば候補になる部分が分かれた。
部品は届いていない。それでも、頼む物を減らす仕事は進んでいた。
*
外した部品は、マリナにも一つずつ見てもらった。
欠けた歯を指すと、彼女は荷車を使った時の右腕を、少しだけ前へ出した。
「こっちだけ、最後に力が抜ける感じだった。縄が伸びたのかと思ったんだけど」
「縄も、戻す前に見ます。今日は外れて届いたので、巻取器だけが全部の原因とは、まだ決めません」
「見てない方まで、壊れてませんって話にはならないんだね」
ノアは頷いた。
机の上で歯車が回ることと、二つの巻取器で一つの荷を引くことは違う。直した一個だけを眺めて、左右の縄の長さや巻く順を見なければ、車へ戻した時の話が抜ける。
試す時の欄へ、空で左右の動きを確認、と書き足した。荷を増やす試験は、そのあとに相談する。
マリナはその行を読み、指を開いた。
「車の方は、私が見せる。樽を載せる時、立つ場所が狭いのも、そっちで分かるから」
「お願いします。僕がここで見えた分を、持っていきます」
依頼人から受け取るのは、銅貨だけではなかった。使う人の動きを教われば、直したつもりで見落とす物を、減らせる。
修理へ進むなら、歯車だけでなく軸の支えも確かめる。使える候補が見つかってから、材料代と工賃、試す時の荷を相談する。
今日は、巻取器を使える形で返せない。
ノアがそこまで言うと、彼女は、動かす石の袋を先に結んだ。
「預けておく。車は使わない印を残してきた。明日の昼までに、候補があったかどうかを聞きに来るよ。それなら言える?」
「はい。直ったかどうかではなく、何が使えるかの返事なら」
「じゃあ、その約束で。私も、船が出た知らせと、出る見込みを分けて伝える」
紙へ書くと、互いに同じ所へ目が止まった。
曖昧なことを減らせば、約束することまで無くなるわけではなかった。
マリナが帰る前に、ノアは河港の小石のことを思い出した。
「父の手帳、今も工房にあります。でも、僕が今日書いた寸法は、まだ載っていませんでした」
「そりゃあ、今日開けたんだからね」
あっさり言われて、ノアは笑った。
父が書いていなかった理由を探すより、自分が見た今日を足せばよい所もある。
「次に来る時は、ノアさんの字を読みに来るよ。小さすぎない字でお願いね」
「父のよりは、大きく書きます」
「あれを基準にすると、まだ小さいかも」
戸口の鈴が鳴り、川の方へ向かう足音が離れていった。
ノアは部品へ布を掛け、壁の予定へ一行を足した。
明朝、材具屋で寸法と厚さを照合。昼、マリナへ返事。
便は最短明後日、積込みは未確定。その行は、動かさなかった。
今日受け取った十枚を、暖房具と灯りの控えとは分けて記す。昨日までの仕事の現金差百二枚に、この診断分を足せば百十二枚。生活や工房の全ての費用を引いた利益の額ではない。
借入元本の金貨百八十枚も、そのままだ。
大きな数字は減っていないのに、今日の小さな十枚には、次に何をするための金かが付いていた。
ノアは欠けた歯車の図へ、もう一つ寸法を入れた。
届く物を待つだけなら、空いた台を見て過ごしていたはずだ。
いま、その台には、明日、自分の足で確かめに行く物が並んでいた。




