百二枚を、全部返してはいけない
【前回までの人物】
・ノア・フェルド:亡き父の工房を継ごうとしている修理職人。暖房具と靴修理屋の作業灯を直したが、借入元本の金貨百八十枚は未返済。
・ルドルフ・ケスナー:父に融資していた商会主。最初の三十日間で、工房を続けて支払える見込みを示すようノアへ求めている。
・フィーナ・ベルク:刻印を専門とする独立職人。ノアと担当・報酬を決めて協力し、自分の納品仕事も続けている。
百二、と書いた下へ、ノアは「返せる」と足しかけた。
翌朝の工房は、まだ炉を入れていない。
窓辺に置いた紙だけが白く、昨日灯りを試した革片には、小さい針穴が並んでいた。作業灯も持ち主も帰ったあとの台は、いつもより広く見える。
ノアはペンを持ち直した。
受け取った代金、銅貨二百十枚。外へ払った分、百八枚。引けば百二枚。
借入元本の金貨百八十枚へ届く数字ではない。それでも、手を動かして残った分だった。
せめてこれを見せれば、と思った。
次の行へ、灯りを直すための導線、と書く。
今度も同じ材料が要るなら、まず二十枚。昨日使った紙や布の残りも、いつまでも同じ量ではない。
ペン先が止まった。
全部を差し出した翌日、また同じ仕事を頼まれたら、何で直すのだろう。
ノアは「返せる」を消した。
消した跡が、思ったより黒く残った。
*
ルドルフの商会では、戸口に濡れた靴を拭く布が敷いてあった。
ノアは足元を見て、一度止まった。工房の床の感覚で、そのまま上がるところだった。
奥の机にいた男が、書類から顔を上げる。
撫でつけた髪のこめかみに白い物が混じり、濃い上着の袖口には糸のほつれもなかった。父へ金を貸していた商会主、ルドルフ・ケスナーだ。
「朝から来たね。まだ、三十日にはなっていない」
「昨日までに終えた仕事を、先に見てもらいたくて」
「終わった物なら、聞こう。どうぞ」
椅子を引かれ、ノアは腰を下ろした。
机の隅にある革鞄には、使い込んだ艶があった。新しい物で固めた人ではない。それでも、長く使うための手間を省いていないのが分かる。
自分の袖口を引きそうになり、ノアは紙を広げる方へ手を戻した。
暖房具の診断。フィーナへ頼んだ刻印。材料と試運転。代金を受け取った日。
作業灯では、首の導線と留めの傷みを直した。持ち主が使う角度で試し、追加の五十枚を受領した。
ルドルフは最初の頁を読み終えても、すぐ次へ捲らなかった。
「この七十枚は?」
「フィーナさんの担当分です。僕が受け取った中から、お支払いしました」
「自分で全部した方が、残ったのでは」
ノアは顔を上げた。
責める声ではなかった。だが、知らないまま答えを誘うほど、優しい問いでもない。
「刻印を直せなければ、暖房具を返せませんでした。それに、僕が真似していたら、何日掛かるかも分からなかったので」
「次は?」
「同じ範囲なら、先に担当と値段を相談します。毎回、来てもらえるとは数えません」
ルドルフの指が、七十の横で止まった。
「その返事も、ここへ書いておくといい。代金だけ見れば、他人へ払いすぎた修理にも見える」
ノアは空いた欄へ一行を足した。
紙を戻すと、男はその字を読んでから、次の頁へ進んだ。
*
「百二枚を、全部入れるつもりだった?」
消した字の所で、ルドルフが訊いた。
ノアは、少し遅れて頷いた。
「来る前は。でも、残さないと次の材料が買えないと思って、消しました」
「よかった。まだ工房を引き受けると決めていない君から、今朝、勢いで受け取る相談を始めずに済んだ」
安堵してよい言葉か迷った。
ノアが黙っていると、ルドルフは机の引出しから、以前渡した物と同じ契約の控えを出した。
「私は、返してほしくないわけではないよ」
「はい」
「だから、返す仕事を明日も出来るのかと訊いている。百二枚を持ってきた手が、翌朝から動かせなくなるなら、残りの回収には近づかない」
差し出しかけた数字が、急に、作業台の広さへ戻った。
次の品を置く場所。
必要な材料を買う分。
ノア自身が、食べて戻って来る時間。
全部、百二の外にあるわけではなかった。
「父も、残していればよかったんでしょうか」
訊いてから、紙へ目を落とした。
父を知らない人へ、急に答えを頼んだわけではない。それでも、この机に来てまで、父の正解を聞き出そうとしている自分がいた。
ルドルフは、すぐには返さなかった。
「残せば済んだ取引もある。残せないほど、先の支払いを当てにした取引もある。君の父親の仕事を、今日の灯り一台で片づけないでおこう」
男が、別の綴じ紙を開く。
水路の設備、納入の日、入金を待った日。父の名前が、工房の帳面とは違う字で並んでいた。
ノアは、そこへ手を伸ばす前に、見てよいか尋ねた。
ルドルフが、工房に関わる箇所だけを指す。
「この金を、もう受け取ったつもりで次を買ってしまえば、両方止まる。私も、若い頃にやった」
「ルドルフさんも、ですか」
「私が数字を読むように見えるのは、読まなかった時に痛い目を見たからだよ。生まれた時からこの上着で帳簿を抱えていたわけではない」
乾いた声のあと、口元が僅かに動いた。
ノアも笑いかけ、父の名前へ目を戻した。
父の失敗を見つけたいのではない。
続けたい仕事を、同じ場所で止めないために読んでいた。
*
担保の表は、机の上で思っていたより短かった。
工房の建物と、契約で指定された主要な設備。工具一つ一つを、商会が気分で持ち去ってよいという白紙の約束ではない。
ノアは父の署名と、設備の番号を指で辿った。
「これを継ぐかどうかは、まだ僕が決められるんですね」
「そうだ。選ぶ前に、知らない額まで引き受けましたと書かせるつもりはない。ただ、引き受けるなら、書いた分は守ってもらう」
「今日、持ってきた数字で、もう少し待ってもらえるわけではなくて」
「最初に話した三十日の期限は、そのままだ」
胸の奥が少し沈んだ。
けれど、もう知っていた期日を、悪い知らせのように受け取るのも違う。
ルドルフは、試しの営業中に終えた二件を、継続の審査資料として受け取ると明記した。代金を受領した控えと、外へ払った控えを、別に挟む。
ノアの出した仕事が、頑張っていますという話ではなく、相手の机にも残った。
「納期と、代金をいつ受け取るか。この二つが、次の紙には欲しい」
「一日に何台直せるか、だけでは駄目ですか」
「その一台の代金が翌月なら、今日の材料は買えないね」
ノアは、今朝消した字を見た。
作業する速さなら、前世の職場でも考えていた。止める時間。人の空く時間。必要な予備。
だが、自分が金を払う日と受け取る日を、同じ紙で見る癖はまだなかった。
「全部の客に、先払いしてもらうのは」
「君が初めて行った店で、直るか分からない物へ全額払うかい」
「……診断の分なら、何をしてもらうか聞いてから」
答えて、ノアは背を伸ばした。
エダもマルタも、最初はそこへ払ってくれた。
原因を調べ、そのあとを選ぶための仕事。それを、ただの修理待ちの時間にしていなかったのだ。
「材料が大きく要る時は、見積もりに同意をもらってから。仕入れに必要な分だけ、先に相談します。出来る前の利益を、使える金にはしません」
「その書き方なら、客も私も同じ紙を読める」
ルドルフはペンを置いた。
「利益が出るかどうかは、まだ別だ。君自身の食費や、工房を開けているだけで出ていく物も、この表には全部入っていない」
「はい。百二枚を、儲けた額とは書きません」
「減った希望を持って帰る顔をすることはない。分からない所が減ったのだから」
ノアは紙をまとめかけた手を止めた。
それから、返事をした。
「少し、怖くなりました。でも、明日も何をするかは、前より見えます」
「それなら、今日は無駄ではないね」
同情で期限を延ばしてはもらえなかった。
代わりに、自分が次に持ってくる紙を、相手の前で決められた。
*
工房へ戻る途中、ノアは靴屋の前を通った。
マルタの作業台に、昨日返した灯りがあった。
傘を低く下げた光の中で、革が少しずつ回されている。針を引く彼女の手は止まらない。
声を掛けようとして、ノアはその手の速さを見た。
故障はないかと尋ねるためだけに、今すぐ仕事を止めてもらわなくてもいい。
戸口からこちらに気づいたマルタが、片手を少し上げた。
ノアも手を上げ、歩いた。
直した物は、自分の工房の成果物である前に、誰かが今日使う道具だ。
その明かりが点いている間、自分は次の仕事の支度をしてよい。
そう思うと、工房の空いた台が、昨日の終わりの寂しさではなくなった。
*
フィーナが来た時、ノアは父の顧客帳へ薄い紙を挟んでいた。
彼女は銅色の髪をまとめ、片手に細い金具を持っている。今日はノアの検査をしに来たのではなく、自分が納める部品に合う端材を、前に見た棚で確かめたいのだという。
「その棚なら、右です。使っていい物は、下の箱へ移しました」
「ありがとう。値段は、測ってからね。……ずいぶん、紙が増えた」
ノアは机の上へ視線を戻した。
昨日までの仕事の控えに、これからの支払いと、受取りの時期を分けた紙が加わっている。
「今日、全部返そうかと思っていました」
「全部って、百八十枚?」
「そっちは、まだ無理です。昨日までの仕事で残った方を」
「ああ。びっくりした。私、三件目の修理を寝てる間に見逃したかと思った」
ノアは笑った。
商会で何度も触った数字が、ここでは少し違う声になった。
「でも、残した分を、全部材料に使っていいわけでもないんですよね。工房を開けるための分も、自分の暮らしの分もあります」
「私も、売れた日は工具を見に行きたくなる。だから、使っていい方を先に別にするよ。買わなくて困る物からね」
フィーナは自分の寸法の紙を広げた。
頼んでいない計算を引き受ける代わりに、棚から出した端材を一つずつ測る。
ノアも並んで、材の傷と、残る長さを見た。
表面は使えても、端の亀裂を避ければ必要な寸法が取れない物がある。彼女は惜しそうに見てから、元の箱へ戻した。
「合うと思ったんだけどね。今日は買わない」
「削って合わせられませんか」
「これだと、薄くしすぎる。別の仕入れを待つ。先に安く買って、あとで自分の仕事を捨てたくないから」
彼女は手を払った。
買わなかったからといって、相手へ悪いという顔をしない。
ノアも、端材を売れなかった損を、今朝の百二へ引くことはしなかった。
まだ、自分が持っている材だった。
「次の仕入れなら、僕も時刻を確かめたいです」
「川の便?」
「はい。届くと思っている物と、届くと決まった物を、分けてから仕事を受けたくて」
「じゃあ、聞いてきたら教えて。私も、別の店を回るか決めたい」
同じ物を待っていても、同じ仕事をしているわけではない。
約束を一つだけ交わし、彼女は自分の紙を持って出ていった。
*
昼前、ノアは顧客帳の最初の頁を、もう一度開いた。
父の字で埋まった名前には、修理が終わった印も、代金を受け取った印もある。だが、次に顔を見に行く日が、書いていない所が多かった。
父が覚えていたのか、行くつもりで行けなかったのかは、今の自分には分からない。
分からないまま、全部を引き継いだ顔で戸を叩きたくはなかった。
まずは、終えた二件。
エダの暖房具と、マルタの作業灯について、使っている様子を尋ねる予定を記した。新しい有料仕事を勝手に足すのではなく、納めた物の続きとして短く確かめる。
未受注の名前へ、入金の予定は書かない。
部品が必要な欄には、仕入れの確認待ち、と入れる。
紙を壁へ貼ると、作業台からも読めた。
忙しそうに見せるための、一面の注文ではない。空いている所の方が、まだずっと多い。
それでも、その空白は、誰かが無理をして埋めなければならない穴ではなかった。
ノアは、朝の紙へ戻った。
百二の下には、もう「返せる」とも「全部残す」とも書かなかった。
次の材料、工房の維持、自分が働く日々。そのあとに、期日のある支払いの欄を並べる。
額をまだ決められない所は、決まっていないと分かるように空けた。
ルドルフへ渡した二件の控えは、商会にも残っている。
工房を引き受けるための署名は、まだしていない。借入も、一枚も減っていない。
だが、何を選ぶのか分からないまま名前だけを書く日は、今日、少し遠のいた。
窓の下で、風が紙の端を持ち上げた。
ノアは父が使っていた小さい重しを置く。
父の道具で、自分が書いた予定を押さえた。
「次は、届く方を確かめよう」
ひとりで言う声は、朝ほど固くなかった。
工房を続けるとは、直った物を一台ずつ増やすだけではない。
次も直せる朝を、自分で残しておくことだった。




