父と同じ値段では、灯りを直せない
【前回までの人物】
・ノア・フェルド:亡き父の工房を継ごうとしている修理職人。洗濯屋の暖房具を直し、代金を受け取った。借入元本の金貨百八十枚は未返済。
・フィーナ・ベルク:刻印と部品を扱う独立した職人。暖房具の修理では、自分の担当と報酬を決めてノアに協力した。
作業灯は、叩かなくても暗くなった。
支柱を右へ倒すと、一度だけ。左へ戻せば、また点く。
ノアはその位置を紙へ描いてから魔石を外した。明かりが消えると、午前の陽が窓枠の傷をはっきり浮かべた。
昼過ぎには、靴修理屋のマルタへ返事をする。直せると言っていない代わりに、いつ知らせるかは約束していた。
蓋を開けると、布巻きの導線が二本、細い首の中を通っていた。一方の折れ目には、粉のような細い屑がある。
引き抜きたい手を止め、先に留めの位置を写した。元の長さを失えば、違う所まで引っ張る線を作ってしまう。
ノアは見本用の短い導線と、傷んだ線を並べる。片方ずつ、支柱の動きで引かれる位置を調べた。
外から見えた折れは、ただの布の皺ではなかった。何度も曲げられた所で、内側の導線が細く裂けている。
新しい魔石に替えても、途中の道は直らない。
「……ここか」
ひとりで言ってから、浮かれた顔を少し戻した。
原因らしい物を一つ見つけたことと、客の灯りを直したことは違う。
ノアは可動部の当たりも調べた。線を替えただけでは、同じ角度でまた挟む。留めの端に、磨かれて光る小さな筋があった。
昨日の暖房具でも、止まった部品だけを見ると、負荷の掛かる場所を取り落としかけた。
今度は、灯りの首を最後までゆっくり動かした。
*
値段を出すために開いた帳面に、父の字があった。
ノアが探していたのは、材具の仕入れ値だ。だが、紙を一枚めくると、似た灯りの小さな図が出てきた。
丸い傘。短い支柱。机へ挟む金具。
同じ型だ、と胸が先に跳ねた。横に修理の値段もある。父はこれを直したことがある。
その下の材料名を追ううちに、喜びが少しだけ重くなった。
当時の導線の仕入れ値は、いま材具屋で聞いた値段より安い。修理の代金は、何年も同じだった。
帳面の後ろへ挟まれた仕入れの控えでは、値段だけが上がっている。
ノアは最初、父が計算を書き忘れたのだと思った。
しかし、次の頁にも同じ印があった。材料を買った日。客へ渡した日。金を受け取った印。どれも、仕事が終わった記録だ。
「これだと、手を動かした分が……」
ペン先を浮かせた。
残った銀が、全部、自分の取り分ではない。炉や工具の手入れ、失敗した時にやり直す材料。昨日の試験では、紙も布も使っている。
父がいなければ分からない値段もある。帳面の一枚で、工房の赤字の理由を全部見つけた顔は出来なかった。
それでも、この修理を、前と同じ代金で引き受ければ足りない。
ここだけは、いま買う材料の値段で確かめられた。
黒髪が額へ落ちた。ノアは袖で押し戻し、父の帳面を閉じる代わりに、その隣へ白い紙を置いた。
マルタの灯りは、マルタへ出す値段で直す。
父の仕事を続けたい気持ちと、昔の値札を続けることを、同じ物にしてはいけなかった。
*
靴屋の戸口には、革を削る甘く乾いた匂いがあった。
マルタは踵を手で押さえ、小さな刃を引いていた。焦茶の三つ編みが肩から滑るたび、顎で横へ払う。
ノアを見ると、すぐ道具を放るのではなく、刃を台へ置いてから顔を上げた。
「返事、来たね。灯りは?」
「折れ曲がる所の導線が傷んでいました。首の留めにも当たっています。線を替えて、挟まない通し方に直したいです」
現物は工房へ残していた。持ち歩いて、開いた所へ埃を入れたくなかったからだ。
代わりに、首の図と、傷んだ位置を描いた紙を広げた。
マルタの指が、今朝自分で動かしてみせた角度を辿る。
「この向きへ傘を下げるからね。縫い目が見やすいんだ」
「そこを使わないでください、とは言いたくありません。元の可動範囲で動かして、点くことを確かめます」
「直したあと、真っ直ぐしか向けられない灯りじゃ困る。値段はいくらになる?」
ノアは、父の帳面にあった額を口にしかけた。
慣れた数字の方が、喉を通りやすかった。
でも、持ってきた紙を見て言い直す。
「追加で銅貨五十枚です。新しい材料と消耗品が二十枚。直す作業と、動かして確かめる分が三十枚。先にいただいた十枚は、今日原因を調べた代金です」
紙の上に六十と書いて、十と五十に分けた。
マルタはすぐ頷かなかった。削りかけた踵へ目を戻し、ノアの図をもう一度見た。
待っているあいだ、ノアは安く出来ますと足したくなる自分の唇を、そっと閉じていた。
「父さんの時は、もう少し安かった気がする」
来た、と思った。
責められていないのに、肩だけが硬くなる。
「帳面を見ました。材料の値段が、あの時とは変わっています。僕も、その値段では、同じ直し方を続けられません」
「じゃあ、変わった分は教えて。あんたが急に高くした、とこっちで勝手に決めたくないから」
ノアは顔を上げた。
言い負かすための一言を探していたのは、自分だったのかもしれない。
仕入れの数字と、古い導線を再利用しない理由を、短く話した。
マルタは頷き、作業台の片隅の大きな灯りを指した。
「新しいのを買えば、置く場所から変えなきゃいけない。私には、その五十枚を払って今のを使う値打ちがある。頼むよ」
ノアの胸にあった空気が、少しずつ通った。
「ありがとうございます。ほかの傷みが出たら、勝手に追加せず、お知らせします」
「うん。ただ、知らせに来るために何往復もして、あんたの昼飯をなくさないでね。追加なら、今日はここで止めるって返事でもいい」
彼女は靴の内側へ手を入れた。客の足に当たる所を指で確かめる仕草が、支柱の可動を見ていた自分と、少し似ていた。
「新しい底だけ見て返すと、前から出てた釘に気づかないことがあるんだ。やってくれる分は、ちゃんと数えて」
ノアは、はい、と答えた。
その言葉を、値引きを断れた自分への褒め言葉にしないで、工房へ持ち帰りたかった。
*
新しい導線は、材具屋の切り売りで銅貨十八枚だった。
ノアは長さを測った紙を持ち、必要な分を買った。絶縁布と洗い材の小分けが二枚。受取の控えを財布とは別へ入れる。
帰り道で焼いた穀物の匂いがしたが、今日は新しい菓子を売上の先取りで買わなかった。工房に残していた昼食を食べ、指の汚れを洗ってから台へ戻る。
仕事を続けたいから、休まずやる。その考え方を、父の手帳まで真似したくはなかった。
灯りの古い線を外し、癖の付いた所を伸ばして測る。切れた一箇所だけを継いで隠すのではなく、同じ力が掛かっていた区間を交換した。
留め金の角を丸める。大きく削って支えを弱くせず、線に当たっていた小さな返りを落とす。
導線には、首を動かした時に引かれ切らない長さを残した。だが、余りを押し込んで、反対側へ挟むこともしない。
何度も蓋を閉じかけ、紙の図と比べ直した。
刻印そのものを、ついでに変える必要はなかった。
魔石と灯りを繋ぐ刻みは、見える傷と接続を調べた範囲で保たれている。フィーナが来れば何でも改良してもらえる、という物ではない。
今日は自分が見つけた故障を、自分で直す仕事だった。
閉じた灯りへ、元の魔石を戻す。
ノアは少し離れて、光の揺れを見た。
右へ倒す。左へ戻す。低く下げて止める。
革片の小さな穴が、一列ずつ浮かんだ。
さっきまで明かりが落ちた角度へ来ても、穴は暗闇へ隠れなかった。
「よし」
短く声が出た。
もう一度動かし、今度は、そのまま時間を置く。直った嬉しさだけで、すぐ客の箱へ入れない。
窓の陽が作業台の端を動くあいだに、明るさと、手を近づけて分かる熱の変わり方を記録した。
途中で、革片を台の端へ寄せた。マルタが踵を押さえていた時のように、片手を作業の位置へ置く。傘を下げても、指で光を全部遮らないか。故障が消えたかだけでなく、あの針穴が見える位置へ戻せるかも確かめた。
父の帳面には、完成したと分かる小さな丸が並んでいる。ノアは自分の紙へ丸を付ける前に、試した角度と、点けていた時間を書いた。後でまた同じ灯りを開ける時、今日の自分の記憶だけに頼らなくて済む。書く間も、細い光は揺れなかった。
新品ではない傘の傷は、そのまま残る。
でも、使いたかった角度で点く灯りが、机へ戻っていた。
*
マルタが工房へ来た時、ノアはまだ受取の紙を伏せていた。
先に、彼女が持参した革片を台へ置く。灯りは普段の高さへ下げてもらった。
彼女の指が、首を右へ動かす。
ノアは口を挟まなかった。
「……揺れないね」
針穴へ細い針を通し、一度引き抜く。今度は傘を少し左へ。三つ目の穴で、彼女の眉間がほどけた。
「糸が、ちゃんとそこに見える」
明るくなりました、より嬉しい言葉だった。
ノアは外した線を包みから出した。傷んだ所を示し、同じ所へ強い折れを付けない動かし方も話す。
だからといって、首を怖がって使わないでほしいわけではなかった。
「この範囲なら使えるように直しました。急に端まで捻らず、傘を持って動かしてください。使っている時にまた揺れたら、石を大きい物に替えて続けないで、止めて呼んでください」
「石を替えたのは、最初に私がやったやつね。次は、そこをいじる前に呼ぶ」
彼女は笑い、追加の五十枚を数えた。
ノアも一緒に数えて、受領の印を付ける。灯りと、二袋の魔石と、試しの革片。預かった物を一つずつ、持ち帰る箱へ戻した。
取り外した導線を見本に残してよいか尋ねると、マルタは短い方だけ持って帰ると言った。
「相棒に見せる。灯りの首は、首じゃなくて中身が折れるって」
「では、こちらを。端が尖っているので、この包みごと」
マルタは箱を抱え、戸口で振り返った。
「今夜、縫い目の細かい分を一つ戻せる。夕方って言った私の方も、ちゃんと数えてくれたね」
完成を約束していなかった夕方へ、今日は間に合った。
毎回そう出来るとは、ノアも言わなかった。今日出来た分として礼を受け、箱が傾かないよう戸を開けた。
*
作業台を片づけた頃、フィーナが戸口から顔を出した。
「相談の灯り、まだある?」
「いま、持ち帰ってもらいました。刻印は触らずに済みました」
「そっか。刻まなくていい所を刻まずに済むの、私にはいい報告だよ」
銅色の髪を留めた頭が、空になった台を覗く。自分の納品も済ませた帰りだという。ノアは、直した部分の図を広げた。
フィーナへ検査や署名を頼むためではなく、相談が要らなくなった理由を、約束した相手へ伝えるためだった。
「それで、別のことで少し困っています。父のこの値段、いまの仕入れで計算すると、仕事をする分が残らないんです」
ノアが帳面を指すと、フィーナは横の椅子へ自分の荷を置いた。
「私も、前に受けた値段を変える時が一番、嫌。上手くなったから安く出来るでしょって言われると、特にね」
「今日、昔と違うって言うだけで、随分掛かりました」
「言えた?」
「はい。マルタさんは、変わった分を教えてって」
「じゃあ、聞いてくれる人だったんだ。そこ、帳面の外に書いておけば」
彼女は父の字を批判しなかった。ノアの新しい数字を、正しいからと褒めもしなかった。
紙へ値段を書くことと、その値段を客へ話すこと。そのあいだが一番難しいのを知っている声だった。
彼女を見送ってから、ノアは帳面へ今日の分を足した。
受領は、これまでの百六十枚に、修理の五十枚を加えた二百十枚。外へ払った分は八十八枚に二十枚を加え、百八枚。
差は百二枚だ。そこへ、自分の食費や工具の減りまで含めた純利益だとは書かない。
借入の元本は、金貨百八十枚のままだった。
だが、値段を決める前に父の帳面を閉じていたら、今日の修理も、数字の奥へ沈んでいただろう。
ノアは顧客帳のマルタの欄へ、今の灯りの状態と、次に訊くことを記した。
その横に、小さく足す。
値段の変更は、先に話せた。
父の字と、自分の字は似ていなかった。
同じ工房で、この先も仕事を続けるためなら、似せなくてよい所もある。
ノアは明日、ルドルフへ持っていく紙を、新しい方の帳面から抜いた。




