あの工房なら、と言われた朝
【前回までの人物】
・ノア・フェルド:亡き父の工房を継ごうとしている修理職人。洗濯屋の暖房具を修理し、納品と入金を終えた。借入元本の金貨百八十枚は、まだ減っていない。
・フィーナ・ベルク:刻印と部品の職人。七十銅貨の担当を終え、ノアと二人の名を修理記録へ残した。
・エダとテッサ:母娘で洗濯屋を営む。修理翌朝は自店の布で動きを確かめ、様子をノアへ伝える予定。
洗濯屋の前へ着いた時、テッサは昨日とは違う札を並べていた。
濡れた布を抱えて待っているのではない。乾いた物を畳み、客の名が書かれた札と合わせている。
ノアは戸口で足を止めた。石鹸の匂いは同じだったが、その奥を、温かい風が動いていた。
「おはようございます。暖房具の様子を――」
「聞きに来ると思って、これはまだ外さなかったんです」
栗色の編み髪を肩へ送り、テッサが干し場の端を示した。
短い布が一枚、細い竿に残っている。暖房具からの距離を昨日確かめた、店の物だった。
「朝一番に一組通しました。変な音も、途中で止まることもなくて。今は客の分です」
彼女が布の端を持ち上げると、表も裏も乾いた色だった。
ノアは近づき、触れてよいか訊いてから指を添えた。湿りを押し込めた硬さがない。昨日、試験用の一枚で見た変化が、今朝は一組の布へ続いていた。
「乾くまで、どのくらいでしたか」
「時間はここに。最初、何度も触りそうになったので、母に一度叱られました」
「触って熱を逃がしてたのは、どっちだろうね」
奥からエダが顔を出した。
白髪の混じる茶髪を小さく結び、今日の前掛けは、まだ上の方が乾いている。昨日より機嫌がよいと決めつける前に、ノアは彼女の持つ籠を見た。
客へ渡せる布が入っていた。
「動いている時の確認をしてもいいですか。止めて見る所は、次の切れ目で」
「今の分が終わるまで待てるなら、そうしておくれ。せっかく戻った朝を、丸ごと止めたくない」
「はい。待ちます」
ノアは通路から離れた。
直した物を見たい自分の都合より、使っている人の仕事が先にある。その順番を、今日ようやく実物で見られた。
*
待つ間に、テッサが小さな手帳を持ってきた。
「朝は、この順番に戻せたんです」
示された頁には、布を干す組と、客へ渡す組が分けてある。ノアには客の名まで読む必要がなかったので、彼女の指している時刻だけを見た。
「昨日は、こっちの布が乾くまで、次の分を入れる場所がなくて。干し場を空けるために、母ともう一度並べ直してたんです」
「暖まれば乾くだけ、と思っていました。場所も戻るんですね」
「はい。私の腕がもう一本増えたわけじゃないので、場所がないと、持って待つしかなくて」
ノアは、自分の工房の作業台を思い出した。
部品が届いても置く場所がなければ、包みを抱えたままになる。昨日フィーナへ空けておいた台も、ただ物を減らした場所ではなかった。
「今日は、昼に座れそうなんです」
テッサが、手帳を閉じながら言った。
暖房具の出力や、留め金の形とは違う言葉だった。ノアは返事を探し、嬉しいです、と短く答えた。
エダが籠を置いて戻ってくる。
「大袈裟に礼を言わせようとしなくても、娘はちゃんと喋るよ」
「そんなつもりでは」
「分かってる。あんたの方が、今にももう一回頭を下げそうだから」
ノアは、少し下がりかけていた顎を戻した。
エダが笑う。テッサは母へ、せっかく良い話をしてたのに、と言いながらも、手帳をしまう手が軽かった。
*
布が一組外されたところで、ノアは暖房具を止めた。
魔石を外し、熱が抜けるのを待つ。通気口に寄った糸屑は、昨日説明した範囲の清掃で取れた。
新しい留め金を見るため、奥まで無闇に分解はしない。納品時に残した目印と、見える取付の状態を比べ、外側の緩みや異臭がないことを確かめた。
そのあいだ、テッサはもう一方の干し場を使っていた。暖房具の前へ客の布を押し込んで待つことはない。
エダが、作業台の角に包まれた古い留め金を見つけた。
「また持ってきたのかい」
「記録と、ここの形を比べるのに。工房では、見本として残します」
「役に立つならよかったよ。壊れた物だからって、もう何も教えないわけじゃないんだね」
ノアは、父の短い刷毛を思い出した。
捨てずにいた理由を、持ち主がもう説明出来なくても、使って初めて分かることがある。
目の前の部品は、自分が説明を残せる物だった。
「どこが傷んだのかも、一緒に置いておきます」
「じゃあ、次の人には、うちが無茶な使い方をした見本にしないでおくれよ」
「しません。摩耗していた位置と、清掃で届く所を分けます」
「それならいい」
返事が早かった。信用するかどうかを、長い美談に変えない人だった。
ノアは蓋を戻し、通常の運転を短く確認した。昨日と同じ場所へ、温かさが来る。点検の記録へ、今朝の使用状況を聞いたことと、目で見た範囲を分けて書いた。
今回の確認は、昨日受け取った料金に含んでいる。追加の金を受け取るための袋は開かなかった。
「これで、今朝の分は終わりです。止まったり、今までにない匂いがしたら、続けて入れ直さずに呼んでください」
「はい。今朝と同じでも、糸屑は見ますね」
テッサが蓋を見る。ノアは頷き、道具を一つずつ戻した。
*
帰ろうとした時、エダが戸口まで来た。
「靴屋のマルタへ、あんたの工房の場所を教えてもいいかい」
ノアの指が、道具箱の持ち手で止まった。
「依頼、ですか」
「何を頼むかは、本人から聞いて。今朝、布を取りに来て、暖房具が戻ったのを見てね。直した人を探してるって言われたから、名前だけ先に教えた」
直した人。
父を訪ねてきた人へ、奥にいます、と答える時の言葉だった。いまは自分が、店の外からその言葉を受け取っている。
「もちろんです。でも、僕に出来るかは、見てからで」
「あんたが何でも直せるとは言ってないよ。直せる分と値段を、先に話した人だって言った」
ノアは口を開き、いったん閉じた。
どんな才能を持つかではなく、どんな受け方をしたかが、隣の店へ渡っていた。
「……ありがとうございます」
「紹介しただけ。受けるかどうかは、あんたたちで」
エダは店へ戻った。
布を取りに来た客へ、いつもの声で札の番号を尋ねている。その暮らしの途中から、一つの仕事が自分へ届こうとしていた。
*
工房の戸を開けると、昨日の二人分の署名が机に残っていた。
ノアは先に、今朝の点検をその下へ足した。次の客が来ることを、まだ売上の欄には書かない。
書き終えた頃、開けておいた戸が二度叩かれた。
「洗濯屋のエダに聞いて来たんだけど。いま、見せてもいい?」
女の人が、四角い木箱を持っていた。
焦茶の髪を一本に編み、革の前掛けをそのまま着ている。左の袖に付いた白い糸を、箱を置いてから指で摘まんだ。
「靴を直してる、マルタ。ここ、フェルドさんの工房で合ってるね」
「はい。ノア・フェルドです。こちらへどうぞ」
父の名前を訊かれたのではないと分かっても、名乗る時の喉は少し硬くなった。
マルタは箱の留めを外し、布に巻いた作業灯を出した。狭い机の端へ固定する型で、傘の片側が少し擦れている。
「針を通す時、ここがちらつく。明るさが欲しいから石を替えたけど、そっちは変わらなかった。前の石も持ってきたよ」
二つの魔石が、別々の小袋へ入っていた。どちらが新しいか、糸の色で分かるようになっている。
ノアは袋を混ぜず、灯りを使う時の置き方を訊いた。
「箱の中ではなく、縁へ挟んで使うんですね」
「そう。縫い目へ影を落としたくないから、頭の横より低く。傘を上げると、まだ少しましなんだけど」
彼女が支柱の角度を変えた。金具はしっかり止まるが、台座へ入る細い導線の辺りで、布巻きに古い折れが見えた。
ノアは触りたい指を止め、先に状態を描いた。
見つけた所が故障の全部だと、まだ決まったわけではない。
「いつまでに要りますか」
「夕方まで。無理なら、今日は普通の灯りでやる。その代わり、細かい注文は明日へ回す。代わりの明かりがないまま、ここへ持ってきたんじゃないよ」
ノアは、なるべく早く、と答えかけた。
その言葉だけでは、客の夕方を押さえたことになる。
「今日の昼過ぎに、どこまで分かったかお知らせします。修理出来るかと、追加の費用は、その時に。夕方の完成は、まだ約束出来ません」
「見る分はいくら?」
「診断が十枚です。そこまででやめても、その十枚は掛かります。部品を替える前には、必ず相談します」
マルタは財布を出した。銅貨を一枚ずつ数え、十枚を台へ置く。
「じゃあ、まず十枚。明るすぎて縫い目が見えない灯りにされても困るから、直ったら、この革で試させて」
箱の底から、細い針穴が並んだ革片が出てきた。
ノアは受取の控えへ、灯りと魔石二袋、試す革片、と一つずつ書いた。マルタ自身にも確かめてもらう。
客の望む明るさは、机の数字だけでは決められなかった。
*
預かり物の置場へ箱を移し、ノアは金を記した。
新しく受け取った十枚は、これから行う診断の代金だ。暖房具の売上百五十枚と合わせ、受領は百六十枚。対外に払った八十八枚とは別の欄へ置く。
差だけ見れば七十二枚になる。だが、今しがた引き受けた診断をまだ終えていないのに、昨日より儲かったと言う気にはなれなかった。
金貨百八十枚の元本にも、返済済みの印は一つもない。
それでも、昨朝まで空いていた受注の次の行が、今日はもう空白ではなかった。
傘と台座の埃を、客の許した範囲で落とす。石を外した状態で留め方を見てから、位置を戻した。
ちらつきを確かめる短い点灯は、傘の近くへ紙を置かず、熱の逃げる場所で行う。
灯りが一度、弱くなった。
支柱を無理に折らず、普段の可動範囲で少し戻すと、明るさが変わる。
ノアはすぐ、切れている、と断定しなかった。接続部と、そこへ力が掛かる位置を別々に見たい。追加で開く必要がある場所を、下書きの図へ丸く囲った。
ここまでは、診断の途中だった。
戸口に影が落ち、鏨の入った革巻きが少し鳴った。
「おはよう。洗濯屋さん、今朝はどうだった?」
フィーナだった。銅色の髪を高く留め、昨日とは違う小さな包みも持っている。
「布を一組通してから、客の物へ戻していました。今日は昼に座れそうだと、テッサさんが」
フィーナの目が、ふっと細くなった。
「そっか。あの家、忙しいと立ったまま食べてたから。……よかったね」
ノアは頷く。試験が成功した時と、嬉しい場所が少し違った。
フィーナは作業台の灯りを見て、口元を上げた。
「もう次?」
「紹介してもらいました。でも、まだ診断の途中です」
「暖房具から、急に靴が来たのかと思った」
「僕も、最初はどちらの修理か分からなくて」
二人で笑った。
彼女は革巻きを開かない。今日も別の納品があるという。ノアも、立ち寄っただけの相手へ、当たり前のように試験を頼まなかった。
「刻印の方も必要そうなら、現物と図を持って相談に行っていいですか」
「うん。今日は午後の遅い方なら。今すぐ来ても、私、外に出てるよ」
「分かりました。まず、診断した所をまとめます。加工が要るなら、その時に相談させてください」
「うん。急ぐなら、それも先に教えてね。私も、出来る時間を見て返すから」
軽い声だったが、ノアはちゃんと頷いた。
昨日、二人分の名を書いたからといって、今日から一人分の予定になるわけではない。
そのままでも、次を頼める相手でいられる。
フィーナが戸の外へ戻りかけ、振り向いた。
「昼、座れるって話。私も、あとで洗濯物を取りに行ったら聞いてみる」
自分の客にもなっている人を思う声だった。
ノアは、はい、と答え、道を空けた。彼女の靴音が通りの音へ混じっていく。
*
工房へ一人で戻ると、父の顧客帳が目に入った。
知っている名前の横に、何年も前の日付がある。子どもの自分が、父へ渡す小銭を数えていた頃の客もいた。
その帳面を埋めれば父の仕事に追いつける気がして、空いている行が怖かった。
ノアは今朝の受注を、新しい帳面へ書いた。
紹介元は洗濯屋。依頼主はマルタ。修理の可否と追加料金は未定。昼過ぎの連絡。
借金を消す数字ではない。
だが、父の名前を知らなくても、昨日の仕事を見た人が、この戸まで来てくれた。
ノアは帳面を閉じず、作業灯の図を隣へ置いた。
ちらついている物を、もう直ったことにするつもりはない。
今日引き受けた十枚の分を、まず果たそう。
そう思って、黒髪が目へ落ちないよう袖で額を拭った。
戸の外で、通りを行く籠が擦れた。
あの中にも、今朝乾いた布があるかもしれない。
それを確かめるために仕事を止めず、ノアは灯りへ顔を戻した。




