二人分の、最初の仕事
【前回までの人物】
・ノア・フェルド:亡き父の工房で営業を試す修理職人。洗濯屋の暖房具を、追加銅貨百四十枚で修理する承諾を得た。
・フィーナ・ベルク:刻印と部品を作る職人。七十枚で切り出し・刻印・単体確認を担当し、翌朝から作業に入る約束をした。
・エダとテッサ:母娘で洗濯屋を営む。翌日の昼に試験へ進めたかの連絡を待ち、早くても夕方以降という納期を確認している。
七十枚でお願いします、と言った声が、工房の中にまだ残っていた。
フィーナは革巻きを抱え直し、ノアの帳面の空白へ鉛筆を置いた。
「もう一つ。部品を渡す時に、私の分は払ってもらえる? お客さんから入るのを待つ約束だと、次の材料が買えなくなるから」
「はい。単体の確認が済んで、受け取る時に七十枚。僕の組み直しが遅れても、その分は待たせません」
ノアが書くと、彼女は少し身を屈めて字を読んだ。
「七十の字だけ、大きいね」
「消してしまわないように、です」
「いいね。私の手帳にも、大きく書いとこう」
笑ってから、彼女は翌朝の時間を決めた。今日このまま全てを始めることは出来ない。他の仕事にも返事をしてあるのだという。
ノアは自分の都合だけを書いていた作業予定に、彼女が来る時刻を入れた。その下へ、昼には洗濯屋へ知らせる、と書く。
待つ時間も、仕事を進めるために使えた。
*
ウーヴェは、店の戸を開けたノアを見ると、端材の札を手前へ向けた。
「十八枚。こっちの板だな?」
短い灰色の髪の下で、眉が少し上がった。材具店の店主は昨日確かめた切り出し寸法を、前掛けから出した鉛筆で示した。
ノアは図と札を見比べ、同じ材であることを確認してから銅貨十八枚を渡した。
「これで、お願いします」
「今度は、頼まれた物を買いに来た顔だな」
ウーヴェは包みを返す前に、角を厚い紙で覆った。
「上手くいったら教えろよ。俺も、次に同じ板を探す人へ、使えたかどうかくらいは話せる」
「はい。どの形で使ったかも、残します」
帰る道で、ノアは素材を抱える腕へ力を入れすぎていることに気づいた。
部品になる前の板だった。値段も、寸法も、もう分かっている。
それでも、受けた仕事のために自分が買った物は、昨日の見本より重く感じた。
工房では暖房具から魔石を外し、清掃する場所と部品を置く場所を分けた。
熱板裏に溜まっていた糸屑は、柔らかな刷毛へ絡めて集める。隙間へ無理に棒を押し込まず、外した順に布の上へ並べた。初めに付けた印と帳面の図が、戻す場所を教えてくれた。
父の使った缶には、先を短く切った刷毛も入っている。
その毛先が、長い物では届かなかった角へ入った。どうしてこんな長さに、と子どもの頃に訊いた覚えがある。父は現物を見せようとしたが、その時の自分は外へ遊びに出たかった。
いまなら、見るまで待てるのに。
ノアは汚れを集めた紙を畳み、手を洗った。
父の仕事を思い出す時間と、自分の仕事を進める時間が、今日は同じ机の上にあった。
*
翌朝、戸を叩く音より先に、鏨の触れ合う音がした。
「おはよう。乾いてる? 昨日の布」
高く留めた銅色の髪が、戸口の風で少し乱れていた。フィーナは片手で押さえ、もう片方の腕で道具を抱えている。
「乾いています。部品を置く方は、こちらに」
ノアが空けた作業台へ革巻きが広がった。彼女は元の留め金の寸法を読み上げ、届いた板へ定規を当てる。ノアは帳面から数字を返した。
切り出しは彼女の仕事だった。
ノアの手が道具へ伸びかけると、フィーナが先に板を固定した。
「見てていいよ。持っててほしい時は、こっちから頼むから」
言われて、膝へ手を戻した。
手伝うつもりだった。けれど彼女が何をしようとしているかも分からないまま触れば、ただ仕事を止めるだけかもしれなかった。
金属を削る細い音が続く。切り屑が、窓から来る光を受けて短く光った。ノアは散った物へ手を出さず、彼女が一度道具を置いたところで集める場所を訊いた。
「この紙へ寄せても、大丈夫ですか」
「うん。細かいのは残したくないから、最後に一緒に拭こう」
刻印の線が入ると、見慣れた留め金に似てきた。
だが、似ているかどうかでフィーナの手は止まらない。拡大鏡で曲がりを追い、押さえる面へ印を当てる。光を傾け、削る場所をほんの少し戻した。
ノアは時計代わりの窓の影を見た。説明を急かす声は出さなかった。
単体の試験には、彼女の試験石と小板を使った。暖房具へ入れる前に、流れと接触の偏りを見るためだ。
一度熱を通し、冷まして、もう一度当たりを確かめる。
フィーナは最後に元の留め金を並べた。
「こっちは冷えた状態でも端が浮いてた。新しい方は、今の試験では戻ってる。ここまでが、私から渡せる物」
ノアは押さえる幅と、試験後の形を自分の目でも見た。
完成、と書きたくなる綺麗な部品だった。それでも、暖房具はまだ布の上に分かれている。
「受け取ります。次は、僕の試験です」
銅貨七十枚を渡すと、フィーナは数え、受取の印を入れた。自分の担当を終えた人の手が、机の上から少しだけ軽くなる。
ノアも材料十八枚の隣へ七十を加えた。対外の支払いは、合わせて八十八枚になった。
*
新しい留め金は、元の位置へ収まった。
接触する面を確かめ、外してあった魔石を戻す。点ける前に、帳面と現物をもう一度見比べた。
フィーナは横から覗き込まなかった。ノアが空けておいた場所で、使い終えた鏨を一本ずつ拭いている。
見張られていないのに、背筋が伸びた。
「通します」
小さな音がした。
熱板の温かさが、測る場所へゆっくり届いていく。昨日、支えている間だけ戻った動きが、今は手を離しても続いていた。
ノアは数えるのをやめそうになり、帳面へ視線を戻した。
嬉しいのは、試験が終わってからでも間に合う。
布を置く場所と、風の通り道は空けておく。まず通常の使い方で熱の回り方を比べ、いったん止めて冷ます。もう一度点けても、接触は同じ所で保たれた。
次に、決めておいた位置で風の通りを狭める。
熱の上がり方が変わった。
ノアが見ている前で、保護の刻印が働き、暖房具は止まった。
「止まったね」
鏨を置いたフィーナが、帳面の一行を指した。
「はい。止める方も残りました」
ノアはすぐ点け直さなかった。遮った物を外し、石も外して、冷えるのを待つ。その間に、さっき記録した熱の偏りを見返した。
保護が働いたことと、通常使用で止まらなかったこと。二つを同じ合格の丸へ押し込まず、別の欄へ記す。
もう一度、元の使い方に戻して確かめた。
暖房具は静かに熱を出し続けた。
「……出来ました」
声を出した途端、肩が下がった。朝から噛み締めていたらしく、顎の奥が少し痛い。
フィーナが、ノアの方へ手を差し出した。
部品を渡す手ではなかった。
「お疲れさま。記録、見せてもらっていい?」
ノアは握手をしかけて、慌てて帳面を渡した。
彼女が吹き出す。
「あ、それもしたかった。先にそっち」
差し直された手を、今度はちゃんと握った。指に薄い硬さがある。自分とは違う仕事で出来た硬さだった。
*
昼の知らせには、まだ温かい手応えを入れすぎないよう気をつけた。
洗濯屋では、テッサが客の札を並べ直していた。栗色の編み髪を背へ送り、ノアの顔を見る。
「試験、どうでした?」
「通常の動作と、熱が偏った時に止まることを確認できました。冷めてから最後に組み付けを見て、夕方、お持ちしてもいいですか」
テッサの指が札から離れた。大きな笑顔より先に、長く息が出た。
「はい。夕方なら、母もいます。客の布を全部入れる前に、こっちでも使い方を見たいです」
「そのための布も、一枚お願いできますか。最初から大事な預かり物で試さずに済むと助かります」
「あります。うちの物を使いますね」
彼女は新しい札を一枚取り、持ってきてもらう時間を書いた。すぐに客全員の受取日を早めるようなことはしなかった。
ノアはその手元を見て、完成したと伝えるだけでは終わらない仕事を、ようやく自分でも引き受けられそうだと思った。
*
夕方の洗濯屋には、石鹸と湿った木の匂いが残っていた。
エダが空けてくれた場所へ暖房具を戻す。白髪の混じる茶髪を小さく結んだ女主人は、蓋へ手を置きかけ、ノアの説明を待った。
ノアは交換した部品の古い方を、包みから出した。
「替えたのは、これです。熱を止める方の刻印は残しています。ここに糸屑が溜まると、また風が通りにくくなるので」
「そこは、私が開けて掃除していいのかい?」
「石を外して、冷めてから、この蓋までです。内側の留め金は外さずに。届かない所が増えてきたら、僕を呼んでください」
ノアが示したあと、テッサに同じ順でやってもらった。
彼女は魔石を外した場所へ置き、蓋を開け、刷毛が届く範囲を確かめる。戻す前に母へ向けて見せた。
「ここまで。奥へ押し込むんじゃなくて、取れる分を外へ」
「分かったよ。私の方を、今から見張らなくてもいい」
エダが鼻を鳴らし、娘の手から刷毛を受け取った。だが同じように石を置いた場所へ目をやってから、蓋に触った。
テッサは言い返さず、口元だけで笑った。
試しの布を掛けると、温かい空気が裾を揺らした。
ノアは風の当たる位置を、母娘と一緒に見た。濡れた布の端に、少しずつ乾いた色が戻る。
エダが指先で触れ、布の裏も返して確かめた。
「これだよ。この感じが、戻ってほしかったんだ」
大きな音のする成功ではなかった。
部屋の片隅へ溜まっていた湿気が動き、干し場の布が、ちゃんと風を受けている。
ノアは温度を見るふりをして、少しだけ顔を伏せた。
「明日の朝、先にうちの布を一組通します。変わったことがあったら、客の分を入れる前に連絡しますね」
「お願いします。僕も、次の様子を聞きに来ます」
点検の予定を控えへ書き、急に止まった場合は続けて入れ直さないことも伝えた。費用に含めた納品時の確認を、ようやく終えられた。
エダは見積もりの紙を確かめてから、銅貨百四十枚を渡した。
「二人で作った方だね。あの職人さんにも、礼を伝えて」
「はい。フィーナさんです。必ず伝えます」
受け取る手が、少し震えた。
不足のないよう数え、受領の印を入れる。診断料十枚はすでに払ってもらっている。今日、もう一度受け取る分ではなかった。
代金をしまうと、エダが古い留め金の包みを指した。
「それ、持って帰っていいよ。次を作る時に要るんだろう?」
ノアは、はい、と答えて包み直した。古い物を全部捨てなくていいことも、今日の仕事が残したものだった。
*
工房へ戻ると、父の帳面を置いた場所が、窓の光から外れていた。
ノアは灯りを寄せ、受け取った金と支払った金を別々に書いた。
診断料十枚、追加百四十枚。受領した分は合計百五十枚。材料十八枚と、フィーナへ七十枚を払っている。差は六十二枚だった。
六十二枚の全てが、自由に使える儲けではない。使った清掃用品も、火を灯した時間も、自分が外へ出ていた時間もある。今日はそこを調べるための行を空けた。
借入元本の百八十金貨へ、適当な線を引いて減ったことにはしなかった。
それでも、受注しただけだった数字が、果たした仕事の数字へ変わっている。
戸が開き、フィーナが顔を出した。帰る道の途中だという。革巻きはもう閉じられ、銅色の髪を留める棒も朝より少し低かった。
「どうだった? 洗濯屋さん」
「温かさが戻ってほしかった、と。フィーナさんにも、お礼を伝えてほしいと言われました」
彼女は戸を押さえたまま、ぱっと笑った。
「そっか。よかった。……あの人、うちの布も洗ってくれてるんだ」
自分の仕事が戻る先を思い浮かべている顔だった。ノアは帳面を持って戸口へ行き、今日の欄を見せた。
「刻印と部品の所に、お名前を書いてもらえますか。僕が全部作ったことにしたくありません」
フィーナは帳面を受け取った。
すぐには書かず、彼が残した試験の欄まで読んだあと、部品の横へ自分の名を入れる。
「じゃあ、ノアさんも。組んだ人と、確かめた人が空いてる」
灯りの下で、二人分の字が並んだ。
父の頁を閉じるのではなく、その次へ続けた字だった。
「また、一緒に作ってもらえますか」
「何を直すのか、先に見せてね」
彼女は笑い、戸の外へ片足を戻した。
「その返事なら、いくらでも聞くよ」
ノアは頷いた。まだ仕事のなくなった方の作業台も、今日は慌てて埋めなかった。
誰かへ頼む時に、空けておく場所だと分かったからだった。




