水が戻るまでが、工房の仕事
【前回までの人物】
・ノア:父の工房で修理を続ける職人。共同井戸の試験で部品が合わず、旧仮支持へ戻して水を再開した。
・フィーナ:刻印職人。受け金具の位置と木枠の乾湿差を調べ、借りた金属輪は未加工で保っている。
・イリス:町の行政官。次の修理に必要な人手と予備水を相談し、停止日はまだ決めていない。
朝、工房の床に水が広がっていた。
ノアは入口で固まった。昨夜最後に戸を閉めたのは自分だ。父の工具箱は床から上げたが、借りた金属輪の箱は――。
「右の棚。濡れてない」
奥からフィーナの声がした。
「桶を倒した。私が」
彼女は雑巾を踏み、片手で模型を持ち上げている。濡れた前髪が頬に張り付いていた。
ノアは棚を確かめるより先に、模型を受け取った。
「怪我は」
「ない。自尊心だけ、少し」
「それは布で拭けますか」
「今、笑ったら乾く」
彼は笑った。彼女も、半分だけ。
水は井戸の模型を濡らすためのものだった。
昨日、現地に入らなかった薄板。右へ寄った受け金具。濡れて膨らみ、乾くと縮む木枠。その三つを同じ台で確かめるため、朝から水を用意していたらしい。
ノアは模型を拭こうとして、手を止めた。
「これは、濡れたままですね」
「そこまで拭いたら、私が床を洗っただけになる」
雑巾を絞ると、冷たい水が指の間を落ちた。昨日、十二分で戻すと決めた時の汗より、よほど冷たかった。
水を吸わせた模型の木枠へ、ノアは糸を渡した。右の受けを現地と同じだけ寄せると、薄板はやはり途中でつかえた。
削って細くすれば入る。
だが、また受けが動いたら同じことになる。父から受け継いだ古い万力へ模型を挟み、ノアは受け金具の下を覗いた。
「ここを元へ戻す時、軸は誰が持つんでしょう」
「昨日の見積もりだと二人」
「手で支えたまま、釘が抜けるのを待つ?」
フィーナは雑巾を置き、模型の端を指で押さえた。
「その二人が、ずっと同じ高さを守れるならね」
「無理です。釘が固ければ、十分じゃ抜けない」
ノアは軸を持ち上げた。金具から重さが抜けた途端、浮いていた釘が目で分かるほど揺れた。
手を緩めれば、また沈む。
「薄板を入れる前に、重さを別の所で受ける台が要ります」
最初は一本の角材を両枠へ渡した。
模型の軸は載った。しかし、受け金具を横へ引くと角材が出口を塞いだ。
「丈夫な邪魔物」
フィーナが端を叩く。
「二本なら?」
ノアは同じ長さの端材を二つ、少し離して置いた。間を通して金具を抜く。今度は抜けたが、軸を載せ直すと片側の材が転がった。
乾いた音がして、模型の輪が台へ落ちる。
通電していない木製の輪だ。それでも二人の手が同時に止まった。
「現地でこれをやったら」
「指だけでは済まないね」
フィーナは落ちた輪を拾い、ノアの掌へ戻した。
「まだ工房。ここで落とせてよかった」
ノアは角材の底へ、短い横木を当てた。二本の足を、軸の左右に置く。軸を受ける上部には浅い溝を作り、横へ転がらない形にする。
万力と模型の重さは別だ。いきなり現地の軸を載せられる物にはならない。
それでも、金具を外す道は初めて空いた。
「形が、橋みたい」
フィーナが小さく言った。
「水じゃなく、外した金具が下を通ります」
「通行料、取る?」
「借金を返せるほどは通りません」
彼女が今度は声を出して笑った。ノアはその音を聞きながら、二本目の足の墨を引いた。
*
昼前、イリスと井戸の管理担当が来た。
管理担当は模型を持ち上げる前に、床の濡れた跡を見た。
「井戸が先に工房へ来たか」
「迎えたのは私。見事にこぼした」
フィーナが答えると、男は肩を揺らした。
イリスは笑いながらも、机へ二枚の紙を置いた。共同炊事場の予備桶六つは借りられる。ただし、満たして返すこと。利用者へ貸した桶を、空のまま取り上げないこと。
「町の十二と合わせて十八です」
「井戸を止める間、どこへ置きますか」
ノアは模型から顔を上げた。
イリスの指が、紙の三つの印を順に押さえる。
「炊事場に六つ、洗濯屋の通りに六つ、井戸の北側に六つ。必要量は聞いています。でも、運ぶ人が決まっていません」
「僕が修理の前に」
「全部?」
フィーナが、今朝から濡れている彼の靴を見る。
「十八桶運んだ手で、軸を受ける台を入れるの?」
ノアは閉じかけた口を開き直した。
「町の荷運びを、作業人数へ入れてください」
「はい。その費用も含めた支出案を出します」
管理担当は模型の橋を覗き、足の横木を爪で弾いた。
「これ、現物の溝を塞がんか」
「排水溝ですか」
「左の足元。水がそこへ抜ける。模型にはまだ彫ってない」
ノアは即座に図へ溝を書き込んだ。現地を知る男の指は、紙の上でも迷わない。
足を少し外へ広げれば溝は空く。しかし、今度は覆いを掛ける受けへ近づく。
フィーナが模型の覆いを持ち、斜めから差し込んだ。
「修理中だけなら外せる。でも、戻せなくなった時に仮の台が残っても覆える?」
「足の高さをここで止める。金具を戻せなくても、この台で一時的に受けられるように」
「それを使って水を汲ませるのは、また別の試験だぞ」
管理担当の声に、ノアはうなずいた。
「支えた状態で水は動かしません。手を外せる台と、運転できる支持は別にします」
男はそこで初めて模型を持ち上げ、裏まで見た。
「なら、俺も使い方を覚える」
四人で、模型の軸を載せては外した。
持ち上げる高さは、必要な分だけ。受けが軽くなったことを確かめ、台の足が溝へ落ちていないか見る。
ノアが台を置き、管理担当が確かめる。次は逆にした。
男が足の一つを外向きに置くと、ノアが止めた。
「その向きだと、覆いの受けへ当たります」
「見えねえ所から入れると、どっちも同じだ」
フィーナは足の内側へ大きく丸、外側へ線を引いた。色が落ちても指で触れられるよう、刻みも一つ入れる。
「正しい向きが、一番入れやすくなるまで直そう」
職人が気を付ければ済む、とは誰も言わなかった。
*
午後、昨日の老人が桶を二つ抱えて来た。
「ここに水があるって聞いたが」
ノアは濡れた床を見た。フィーナが窓へ顔を向ける。
「試験用ならありますが、飲めません」
「冗談だ。井戸の方で、桶を借りる家を数えてた」
老人は空の桶を床へ置き、腰を伸ばした。
「二杯あればいいと言っただろ。汲んで置けば済むと思ってた。運ぶのは、腰に来るな」
「家まで持って行きますか」
「今日は空だ。明後日止めるなら、北側へ置いてほしい。家から近い」
まだ止める日は決まっていない。イリスは紙を開き、その希望を先に書いた。
「明後日の朝を候補にしています。夕方までに正式に知らせます。北側の置場からは、運び手を頼めるようにします」
「炊事場の分を、うちへ回さなくていいぞ」
「十八桶は場所ごとに割り当てます。誰が早く来たかだけで配りません」
老人はうなずき、模型の橋を見つけた。
「今度はこれで直るのか」
ノアは答える前に、模型の輪を載せた。
「金具を外す間、軸を支える台です。直す道具が一つ増えました。直るかは、外した金具と木の傷みを見てからです」
「難しいな」
「僕も昨日まで、薄板が入ればいいと思っていました」
「水が出ればいい。俺は、そこしか分からん」
老人の声に責める調子はなかった。
ノアは木の輪を指で回した。小さな音さえ、今日はまだ本物ではない。
「そこまでを、仕事にします」
老人が帰ってから、仮設架台の模型へ重りを載せた。
現物の軸の荷重を勝手に何倍と決めず、今日使った重りの数を残す。濡れた台、乾いた台、横から手を当てた時。
一本目の足の底は、水を吸うとわずかに反った。
フィーナが削り直しかけ、止まる。
「今削ると、乾いた時に片足が短い」
「足裏を二つの接点にしたら?」
ノアは木片を二枚当てた。広い底の真ん中を浮かせ、端で支える。
今度は傾かなかった。重りを外して濡らし、載せ直しても同じ位置で止まる。
管理担当が模型の金具を抜いた。
誰も軸を手で支えていない。
金具は二本の足の間を通り、机の上へ出た。
「抜けた」
ノアの声が漏れた。
「ああ。戻すぞ」
管理担当が金具を差し戻す。ノアは軸を降ろし、台を抜いた。覆いが、元の受けへぴたりと座る。
フィーナが、乾いた指で机を二度叩いた。
「もう一回」
笑っていた。ノアも笑い、同じ順でやり直した。
夕刻、正式な停止の札が届いた。
明後日の朝、二つ目の鐘から一時間以内。雨なら延期。事前の予備水配布。復旧に必要な時間を途中から残すこと。作業中止時には旧仮支持へ戻すこと。
当日の日当と運搬費は町の支出枠が確保され、ノアが立て替える契約ではなかった。工房への支払条件は、検査と説明を終えてから。まだ銅貨を受け取ってはいない。
「明日は現物の台を作ります」
ノアは札へ触れずに言った。
「材料の持主と、強さを確かめてから」
「管理用の角材を出す。使った分は俺の帳へ付ける」
管理担当が答えた。
「工房の在庫が、勝手に増えたことにはしない」
「お願いします」
片付けの最後、フィーナは濡れた靴を戸口へ並べた。
「刻印の輪、一度も光らなかったね」
「今日は、光らせる所がありませんでした」
「私、刻印職人なんだけど」
「だから、必要ない所で使わずに済みました」
彼女は靴の踵を押さえたまま、少し止まった。
「それ、褒めた?」
「はい」
「じゃあ明日は、先に言って」
ノアは模型を棚へ置いた。完成棚ではない。現地へ持って行く道具を置く棚だ。
現金二百十銅。元本百八十金。借りた輪は未加工。八十銅の条件付き調査費も、まだ受け取らない。
その横に、金具を外して戻せた模型が一つある。
父の万力を緩めた時、濡れた木の香りが新しく立った。工房の窓から、井戸の輪を回す音が聞こえる。
今はまだ、昨日と同じ音だ。
ノアは明日の材料取りの欄へ自分の名を書き、フィーナがその隣へ刻みの向きの図を描いた。
水が戻るところまで、二人で作る。
今度の図には、人の手を離しても軸が落ちない橋があった。




