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明日の水を、二人の手だけで支えない

【前回までの人物】

・ノア:父の工房を継いだ修理職人。借金を返すため、町の魔道具を直している。

・フィーナ:刻印職人。ノアと共同井戸の修理を進めている。

・イリス:町の行政官。井戸の停止中に必要な水と人手を手配する。

 管理用の角材には、白い塗料で井戸の番号が書いてあった。

 工房の在庫ではない。ノアは受渡欄へ署名し、二本を荷台から下ろした。雨除けの下へ入った木の匂いが、朝の冷たい空気に混ざる。

「思ったより重いね」

 反対側を持つフィーナが、足を止めた。

「昨日の模型のつもりで持ちました」

「私も。先に下ろそう。昨日みたいに床を洗いたくない」

 二人は材を台へ置いた。濡らすための水は、今日は蓋付きの桶にある。

 彼女がその蓋を指で叩き、ノアも頷く。失敗を思い出して笑える朝だった。


 昨日作った模型は、完成棚に移っていない。

 金具を外す間だけ重さを受ける、二つ脚の小さな橋。今日はその形を、実際に使う大きさへ移す。

 ノアは木肌を見て、印の上へ鋸を置きかけた。

「待って。この端」

 フィーナの指が、黒い節を避けて止まる。

「ここを残す?」

「脚の溝に掛かります。荷重が来る所ですね」

 ノアは鋸を戻した。一本を少し長く取れば足りる。しかし、もう一本では節を避けると必要な長さにならない。

 借りた材だから無駄にしてはいけない、と切り始める所だった。

「管理の人へ、交換を頼みます」

「端材はこっちで買う?」

「まだ切ってません。使えない理由と一緒に、返します」

 フィーナは節の位置を図へ描いた。

 借金があるからこそ、使わない物の代金まで、黙って自分たちへ付けるわけにはいかなかった。


 井戸の管理担当は、材を見るなり苦い顔をした。

「囲い用に出した材と、混ざったな」

「削る前で良かったです。違う材を選び直してもいいですか」

「俺も見る。節の印を付けて、囲いの方へ戻す」

 男は謝罪を長く続けず、荷台の覆いを外した。用途が違えば、同じ角材の良し悪しも変わる。

 ノアが指した材を、男は明るい所で回した。割れの有無、保管中に下だった面、寸法。

 最後は二人で同じ場所へ墨を付けた。

「これを、明日の朝に入れるんだな」

「その前に、今日、井戸の外で合わせます。水を止めずに見られる所まで」

「覆いの受け、昨日の図より厚いぞ」

「現物を持って帰ったつもりになるところでした」

 ノアが言うと、男は口元だけで笑った。

「頭へは、入らん物がよく入る」


     *


 鋸を引く音が、工房の壁から返った。

 ノアが材を挽き、フィーナが刻みの位置へ浅い線を入れる。模型の丸と線を大きくするだけでは、持つ場所と削る場所が重なった。

「これだと、手袋で持ったら印を隠す」

 フィーナは自分で材を抱え、ノアへ見せた。

「置いてから見れば」

「見えない所へ入れるって、昨日聞いた」

「そうでした」

 ノアは材を受け取り、指の下へ印が潜るのを確かめた。安全のための印を、使う人の記憶だけに預けていた。

 印の位置を上へ移す。向きが違えば持ちにくいように、持ち手の当たりも削り直した。

 削り屑がフィーナの袖へ付き、彼女は口で吹きかけた。

「目に入ります」

 ノアが布を出すと、彼女は受け取って笑った。

「先に褒める約束は?」

「持ち手に気づいたの、助かりました」

「うん。今なら、ちゃんと受け取れる」

 照れ隠しに布を返す手が少し速かった。ノアは取っ手の縁をもう一度撫で、棘が残っていないか確かめた。


 昼前、イリスが配水の札を持って来た。

 炊事場、洗濯屋の通り、井戸の北側。十八桶の置場に変更はない。しかし、荷運びが通る道を示す線が、昨日より遠回りになっていた。

「北側の石段を、満水の桶では下りられません。家の前までを希望する方は、この角で受け渡します」

 ノアは自分が使う最短の道を見た。空の工具鞄では、考えたことのない曲がり角だった。

「時間、足りますか」

「人を増やしました。そのぶん、運搬費も変わります。町の枠で処理しますが、運び手が修理の助手を兼ねる想定は外しました」

「そちらを頼もうとしてました」

「では、今、外して良かったです」

 イリスの声は穏やかだったが、線を引くペンは止まらない。

 全員を一人で二役にすれば、紙の人数は少なくなる。片方で何か起きれば、もう片方の仕事から人が消えるだけだった。


 昼は、持参したパンを作業台とは別の卓で食べた。

 食べる物の横へ木屑を払わない。ノアは父が使っていた古い布を敷き、三つのカップを置く。イリスも短い休憩を取った。

「明日うまくいったら、すぐ水が戻るんでしょうか」

 彼女が訊いた。

「水を戻してよいと確かめられてからです。新しい台は、回すための支持ではありません」

「模型で見た説明、明日の利用者にもしてもらえますか。台が入った時点で終わったと思われそうなので」

「はい。僕が話します」

 ノアが答えると、フィーナがパンを置いた。

「ノアが井戸の中を見てる間は、私が。説明係が一人だと、作業をするたびに誰も答えられなくなる」

 イリスは二人の名を、違う欄へ書いた。

 工房の仕事に言葉が増えても、腕が四本になるわけではない。誰が手を使っている時かまで決めると、ようやく三人の昼が静かになった。


     *


 午後、完成した仮設架台を井戸の脇へ運んだ。

 井戸はまだ動いている。水を汲む人の列を避け、管理担当の示した場所で部品を広げる。

 湿った石の上へ、二つの脚を置いた。

 模型より、置いた音が低い。

 ノアは覆いの外側を測り、脚を通す向きを確かめた。まだ軸へ重さを掛ける試験ではない。動いている設備へ、手を入れもしない。

 排水溝の縁へ、片方の足の角がわずかに掛かった。

「そのままじゃ、滑る」

 管理担当が指す。

 ノアは息を止め、昨日付け足した溝の線を思い出した。図では避けた。現物では、溝の縁が斜めに削れている。

「削ります。ここで合わせるための余りは、残してあります」

「持って帰る?」

 フィーナが材の端へ布を巻く。

「手鉋で取れる分です。ただ、ここに木屑を落とさないように」

「じゃあ、向こう。水を汲む人と、風も反対」

 彼女が先に道を空けた。


 ノアは平たい石の上で少しずつ削った。

 急げば、曲面を真っ直ぐへ直せる。だが足を短くしすぎれば、左右の高さが変わる。

 一度削るたびに当て、光の透ける幅を見る。フィーナは寸法を控え、管理担当が覆いの邪魔にならないか確かめた。

 五度目に、足が石へ落ち着いた。

 押しても転がらず、溝も空いている。男が横から覗き、今度は何も指摘しなかった。

 それが、初めて少し怖かった。

「見えてない所、ありますか」

 ノアが訊く。

「中の軸。その重さは、明日、止めてからだ」

「はい」

「今見える所は、俺も見た。そこまでを、お前が疑って戻らなくていい」

 男は脚へ軽く手を置いた。職人を褒めるためではなく、自分も確かめた物として。

 ノアは、自分だけが信じるよりも少し楽に、頷けた。


 帰る前、道具を使わずに段取りを歩いた。

 ノアが止める時刻を告げる。フィーナが列の人へ向き、管理担当が覆いの置場を空ける。明日はここで台を入れ、手を離す前に声を掛け合う。

 口で言うだけの練習なのに、男が覆いを置くはずの場所に工具箱があった。

「俺のだ」

 男が苦笑して箱を持ち上げた。

「これは、朝もこっちへ置く癖がある」

「場所を変える札を付けましょう」

 フィーナは紐を取り出した。箱へ結ぶ札には、覆いの置場ではない方の壁を描く。

 ノアはその絵を見て、模型の丸と線を思い出した。明日の失敗を、今日の自分たちが少しずつ拾っている。


     *


 夕刻、予備水の配布先が全部確認できたと、イリスが知らせに来た。

 満たすのは明朝。今夜のうちに全てを汲んで、一晩誰も見ない場所へ置くのではない。運び手は先に集合し、利用者へ届いたかを確認してから、停止を始める。

「雨なら、止めません」

 イリスが空を見上げる。薄い雲の下で、井戸の輪がまだ回っていた。

「水を渡せなくても、止めません」

 ノアが続けた。

「台を入れる前に迷ったら、呼ぶ」

 管理担当は、持ち手の印を指でなぞった。

 フィーナだけが何も言わず、ノアの袖へ付いた木屑を取った。

「何か、ありますか」

「明日の服。今のうちに乾かしておいて」

「今日は、濡れてません」

「私のじゃなくて。ノアの」

 見ると、材を水へ当てた時の雫が肘へ染みていた。彼が気づかなかっただけだった。


 工房へ戻り、借りた金属輪の箱を閉じ直した。

 輪は未加工。現金は二百十銅、借金の元本は百八十金。まだ支払も受領も増えていない。

 それでも今日は、町の木材から現物の台が一つできた。利用者の十八桶に、運ぶ道と人の時間が付いた。

 ノアは台を完成棚へ置かなかった。明朝、最初に運び出せる戸口へ置いた。

「寝られそう?」

 フィーナが戸を閉める前に訊く。

「寝ないと、明日、この印が見えなくなります」

「うん。じゃあ、明日の二つ目の鐘より前に」

「お願いします」

 彼女の足音が遠ざかる。ノアは窓を少し開け、乾いた夜気を工房へ通した。

 父の万力には、削る物がもう挟まっていない。

 明日の水を支えるのは、ここにある台だけではなかった。止める前に水を配る人、戻す時間を見る人、違う向きを教える人。その一人として、ノアは自分の工具鞄を戸口へ並べた。

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