直す人の、入る場所
【前回までの人物】
・ノア:共同井戸の修理に向けて、小さな模型試験を進める若い職人。固定方法の失敗を役場へ報告した。
・フィーナ:刻印職人。ノアと木型の片当たりを確認し、次の比較には条件を揃えるよう助言した。
・ウーヴェ:ノアの父とも付き合いのあった材具店主。材料の用途と、使った後の違いを現物で確かめる。
ノアが持ってきた箱には、失敗した方だけが入っていた。
翌朝のトルン材具店で蓋を開けると、削れた木の輪を見たウーヴェが、前掛けから鉛筆を抜いた。
「こっちが、要る物か」
「いえ。これと同じ材で、同じ大きさの物を二つ作りたいんです」
「削れた形に合わせるのか?」
「あ。削れる前の方です。図は、こちらに」
黒髪へ手をやりかけ、ノアは指を止めた。失敗を見せる準備をしてきたはずが、肝心の注文を先に間違えている。
ウーヴェは笑わず、図と輪を並べた。
「現物を持ってきたら、説明がいらなくなるわけでもないな」
「昨日から、よく分かります」
「俺もよく間違える。客が同じのをくれと言った時、壊れてない方の同じかどうかは、先に聞く」
店主の鉛筆は、削れていない側へ小さな丸をつけた。
店の奥では、立て掛けた板が朝の風に軽く鳴っていた。金具の油と、切ったばかりの木の匂いがする。ノアが子供の頃から知っている匂いなのに、今日は、箱を置く手が少し硬かった。
借りた金属の輪は、工房に置いてきた。
磨かず、加工せず、魔石も繋がず、昨日の位置印を残したままだ。役場へ持っていったのと同じ木型を、今度は材を扱う人へ見せに来た。
木の粉を金属の寿命へ読み替えないこと。新しい固定を描いただけで、もう直ったと言わないこと。
昨夜、そう書いた紙を、箱の内側へ入れてあった。
ウーヴェは二枚の図を見比べた。
「ここは、昨日の形。こっちは、まだ作ってない形だな」
「はい。共同井戸の固定の試しです。片方へ位置を決めて、反対側は軸に沿う方へ少し動けるようにしたいです。まず、同じ木型で当たり方を比べます」
「動く向きは、この矢印か」
「そうです。回る方には、逃がしません」
ウーヴェが頷きかけた時、横から低い声がした。
「それで、水が出なくなった朝は、誰が外す」
ノアは箱から顔を上げた。
受取台の向こうに、短い褐色の髪の男が立っていた。濃紺の前掛けへ、包まれた金具を押し当てている。ウーヴェが先ほど奥へ用意した注文品らしかった。
「ガレス、そっちの控えも取ってくれ」
店主に呼ばれ、男は紙を受け取った。
ガレス・ベイル。町で工房を構えている親方の名は、ノアも知っていた。父とは別の工房へ修理を頼む客もいる。同じ町で仕事をする以上、いずれは会う相手だった。
よりによって、削れた物を箱に入れている時に。
「ノア・フェルドです」
「知ってる。フェルド工房の方だな」
ガレスは、父の図ではなく、ノアが昨日引いた線へ顎を向けた。
「誰が、その留めを緩める」
「修理をする人が。僕が行ける時は、僕です」
「行けない朝は?」
すぐには、答えが出なかった。
ノアは、工房で椅子を置く場所を図へ足したばかりだった。
フィーナの手が入る幅も見た。それで、人の場所を考えたつもりになっていた。
井戸の具合が悪くなるたび、自分の台へ持ち帰って直せるわけではない。
「持ち帰るために、外す人も要ります」
「その人の工具は、上から入るのか。横からか」
ガレスの指は、図の留め具の前で止まった。紙を取り上げたり、勝手に線を引いたりはしない。
ノアは、自分の描いた覆いの線を見た。
「……上です。いまの図だと」
「その上に、何が載る」
「井戸の囲いの端が、近くに」
ノアは鞄から現場の控えを出した。見ていない寸法を、いま思い出したふりにはできない。囲いと部材の位置を写した図はあるが、工具を差し込んで確かめた記録はなかった。
「この幅は、測り直します」
「なら、空いてると書くな」
短い言葉が、頬へ少し熱く来た。
新しい案を、よくできていると見てもらいたかったのだと思う。昨日の自分より先へ進んだと、知らない親方にも認めてもらえたら、安心できた。
だが、ガレスは、ノアの安心を請け負いに来た人ではない。
「ここは、未確認に直します。ほかにも、いま見える所はありますか」
ガレスの目が、初めて、紙からノアへ移った。
「二枚だけなら、見てる間は話す。現場へ行く仕事を、引き受けたんじゃないぞ」
「はい。今日の話だけで、井戸へ取り付けていいとは言いません。現場を頼む時は、別に相談します」
「その答えは、紙にも残せ」
ガレスは自分の包みを抱え直し、台の端に置かれた木の輪を見た。
「それを先に見せたのは、悪くない。削れた物を隠して、図だけ売られるのは困る」
褒められた、と喜ぶには、声はまだ硬い。
それでも、図を畳めとは言われなかった。
ウーヴェが、売り物とは別に置いた薄板を、店の台へ立てた。
「ここを囲いのつもりにしてみな。実際の幅じゃない。手の通り道を見るだけだ」
ノアは自分の工具袋から、小さな締め具を出した。売り場で部品を組んで動かすのではなく、指をどちらから入れるつもりだったか、板の横で示す。
上から持つと、手首が板へ当たる。
横へ回すと、今度は、外した部品を抜く向きが工具袋の方へ重なった。
「回っている所ばかり、見ていました」
「止まってる時にも、人は触る」
ガレスが、床へ目を落とした。
「外した留めを落としたら、どこへ行く」
ノアは井戸の暗い内側を思い浮かべた。
なくした一個を探すために、作業が止まる。代わりを取りに戻る。そのあいだ、次の桶を待つ人がいる。
「外した物を受ける所も、先に決めます。落としたら拾えばいい、では済まないので」
「そういう図が欲しい。よく回る図だけじゃなくてな」
ノアは二枚目の裏を開いた。
外から触れる面。覆いを外した時、その板を置く所。部品を引き抜く向き。その順で、手を描く。
工具の先だけを、細い線で隙間へ入れることはできた。けれど、それを握る手まで描くと、紙の上の余裕が急に狭くなる。
ガレスが鼻から息を出した。
「俺の手も、その細さにしてくれるなら助かるが」
厚い親指を示され、ノアは、つい笑ってしまった。
「僕の手も、実際より小さいです」
「じゃあ、二人分の嘘を描いたな」
「一枚の図で済んでよかったです」
ウーヴェが短く笑った。
「済ませるな。直してから持って帰れ」
ノアは手の輪郭を描き直した。
肩に入っていた力が、少しだけ抜ける。言い返して勝つ場ではないが、黙って叱られるための場所でもなかった。分からない所を示して、仕事の話を続けてよかった。
ガレスは、修正した覆いの位置を見る。
「横へ外すなら、その向こうの通り道も見ろ。誰かが桶を持って待つ場所へ出すなよ」
「そこは、店の人たちとも決めたいです。止める間にどこから水を使うかも、まだ話せていません」
「なら、その人たちの場所を、いま勝手に空白へするな」
井戸の図の外側へ、ノアは、桶、とだけ書いた。
そこに誰を立たせるかは、実際に使う人へ訊くことだった。
ガレスは、受け取った包みの端を開いた。
中には、揃った二つの金具と、取付けに使う小さな板があった。ノアの木型ではなく、親方が今日、自分の仕事へ持ち帰る品だ。
「こっちを持ってくれ。端の紙が、下へ潜った」
頼まれ、ノアは板の端を支えた。ガレスが包みの折り目を戻し、金具の角へ当て直す。
指が離れる場所を空けてから、親方は紐を回した。ノアも、締まる所へ手を残さずに済んだ。
「前に、手袋で外せん蓋をつけた」
ガレスは、その紐を引きながら言った。
「素手では届いた。俺の台ではな。冬の客先じゃ、手を出した時点で指が言うことを聞かん」
「それで、蓋を作り直したんですか」
「蓋の留め方と、受ける所をな。あったかい工房で、先に気づきたかったよ」
声に、わずかな苦さがあった。
ノアは自分の手を見た。包みを支えることはできた。その手が冷えた時、濡れた時、同じ形で動くかまでは、今朝の紙に入っていなかった。
「僕も、手袋をして触る所を、分けておきます。全部を大きくすればいい、ではないですよね」
「大きくした分、何かへ当たる。だから、その場所で見るんだ」
ガレスは包みを持ち上げた。
「支えは、もういい。助かった」
「はい」
ノアは手を離した。
短い礼が、叱られた熱とは違うものを胸へ残した。自分が有能だと証明したわけではない。それでも、この人と同じ台の前で、ただ一つの物を扱うことはできた。
ウーヴェが、ノアの図の端を押さえる。
「話を聞いて、材を買う前に図が増えたな」
「木の方が、少なくて済むといいんですが」
「それは、失敗が減ってから喜べ」
店主の返事に、ノアは頷いて笑った。
材を売る人が、何でも多く買えとは言わない。無駄を減らして、次の仕事でまた店へ来る客がいる。その長い付き合いの中へ、自分も入りたいと思った。
受取台の鈴が鳴り、ウーヴェが戸口を見た。
「続きは工房だ、ノア。客が来た」
「ありがとうございました。材は、同じ板から取れる物が二つ、ありますか。今度の比較用です」
ウーヴェは棚から短い木材を二片出した。
「これなら取れる。二つで十二銅。細かい仕上げは、お前の方でやってくれ」
「お願いします」
ノアは十二銅を支払い、控えと木材を受け取った。帳面に残していた現金差は、百五十四銅から、百四十二銅。役場の試験費を、先に受け取ったことにはしない。
ガレスは自分の注文品を持ち、戸へ向かっていた。
「ガレスさん」
呼び止めると、親方は立ち止まった。
「直した図を、また見てもらいたいです。その時は、お願いする範囲と時間を、先に持ってきます」
「見られる日を聞け。明日までに返事が要る仕事を、今日の帰り道へ放り込むな」
「はい」
「あと、その図の刻印は、誰が見る」
「フィーナ・ベルクさんです。まだ、この案の仕事を頼めてはいません」
「なら、俺が言ったから通ると思うな。現物を知ってる職人へ渡せ」
扉が開き、金具の包みが朝の光へ出た。
それは、工房を助けるという約束ではなかった。
次に仕事を頼む相手の一人として、ノアの言葉を聞いてくれた、という所までだった。
工房へ戻っても、新しい輪をすぐ削り始めることはできなかった。
ノアは買った二片を台の端へ置き、まず、手が入る場所だけを端材で囲った。
これは摩耗を比べる模型とは別だ。材も寸法も揃えず、強さも回る具合も測らない。板をどちらへ外し、外した物をどこへ置くかを見る、手順のための仮の形だった。
囲いの外へ工具を置く。覆いの板を横へ抜く。
思った以上に、肘が張り出す。
ノアは椅子を退けようとして、昨日、そこへ丸を描いた理由を思い出した。来た人が座る場所を、また、残った所へ追いやりかけていた。
椅子を動かす前に、台の向きを変えた。
今度は抜いた板が、足元の箱へ当たる。
紙なら簡単に広がった余白が、工房では何度も物にぶつかった。
「……手だけじゃ、帰ってこられないか」
自分の肘を見て、ノアは笑った。
人の線を描けば、それで人を考えたことになるわけでもなかった。
箱を移し、板の置場を台の外側へ決める。やり直した時、覆いを持つ手が、一度も部品の上を横切らずに済んだ。
たったそれだけなのに、少し嬉しかった。
回る仕掛けの中でなく、その横にある工夫だった。直す人が、直すために余計な物を壊さずに済む。
昼が近づき、通りから焼いた麦の匂いが入ってきた。
ノアは買った材へ寸法を写す前に、台の空いた所でパンを食べた。新しく買った物ではなく、朝、持って出るつもりで包んだ分だ。箱と紙の準備に気を取られ、置いていったままだった。
冷えて硬い端を噛みながら、昨日、手を洗えと言われたことを思い出す。
今日は洗ってから座った。こんな小さいことばかり、先に覚えていく。
食べ終えた手で、新しい図の表を開いた。
固定を変える案。手と部品を出し入れする案。どちらも、実際の井戸ではまだ確かめていない。
フィーナへ頼みたい欄には、刻印の位置と負荷を見てほしい、と書いた。ガレスから聞いた意見も添えるが、彼女の返事の欄は空けておく。知らない所で、既に二人の承認が揃った図にはしなかった。
同じ木材から作る二つの輪は、これからだ。
借用した金属の輪は、箱の中で動かない。
失敗は、まだ直り切っていない。けれど、昨日の図に足りなかった人の姿が、今日は少し見えた。
ノアは、井戸の外側へ書いた、桶、の文字を指で押さえた。
水が止まるのを待つ人にも、ここを空けてもらう人にも、話しに行かなくてはならない。
次に持っていく紙は、よく回る物を作るという、工房の都合だけの図ではなくなっていた。




