教える時間も、仕事のうち
【前回までの人物】
・ノア:父の工房を継ぐか判断する期限の中で、修理を請ける青年。共同井戸の部材を、試験台で調べる準備をしている。
・フィーナ:王都で刻印を学んだ職人。翌朝三十分・二十銅で部材を診ると、ノアと合意した。
・イリス:町の行政官。井戸を止めない小試験を依頼したが、本修理の発注はまだ。
人がもう一人立つ場所を作ったら、自分の椅子が置けなくなった。
ノアは椅子の背を持ち、壁の隅へ運んだ。昨日まで、狭いと思っていなかった工房だった。
窓を開けると、冷たい朝の空気が、乾いた油の匂いへ混じる。試験台にはまだ何も繋がず、借りてきた輪は箱に収めたままにしてあった。
戸を叩く音がした。
「おはよう。場所、変えたね」
フィーナは入ってすぐ、台より窓を見た。光の方から来た顔の半分が、工房の中で少し暗くなる。
「昨日、二人で立てるか試して。僕の椅子が余りました」
「椅子は余ったんじゃなくて、立つ所が足りなかったんでしょ」
「はい。そっちです」
ノアは苦笑して、箱を開けた。
フィーナは工具の包みを自分の脇へ置き、工房の時計へ目をやる。小さな歯車が一度鳴った。
「ここから三十分。今日は、表面と線の見分けまでね」
「お願いします。磨いていないままです」
彼女は輪の端を見て、すぐには触れなかった。
斜めから覗き、窓の光を遮るノアの肩へ目を上げる。
「半歩、そっち」
「あ。はい」
「これで見える。ありがと」
歯切れよく言ってから、彼女は木の受けを二つ置いた。金属の輪が転がらず、刻印の面だけを上へ向けられる位置だった。
ノアは父の図を開きかけ、自分の写しへ替えた。
「ここが、切れて見えた所です」
「うん。でも、こっちの線も一緒に見たい」
フィーナの指は、ノアが太く写した線ではなく、外側の薄い筋へ向いた。
「これ、傷じゃないんですか」
「傷かもしれない。だから、先に消さないでいてくれてよかった」
彼女は短い柄の鏡を傾けた。
暗く固まって見えた所へ光が入り、一本だと思っていた筋が、縁を持った二つの影になる。
ノアは思わず顔を寄せた。
「線の中にも、削れた所が」
「見える? こっちは、まだ続いてる。繋がってないと決めるにも、少し早かったね」
否定された、とは思わなかった。
自分の目だけでは、一つの光しか当てていなかった。それが分かる方が、今は嬉しかった。
ノアは写しの横へ、小さな欄を作る。
その時、戸の外で靴が擦れた。
少年が一人、開いた戸の端から工房を覗いていた。
短い茶髪の先に木粉が残っている。胸の前では帽子を両手で持ち、片方の袖口だけが、何度も捲った形に伸びていた。
「あの。フェルドさんは、いらっしゃいますか」
ノアは返事をしてから、父を呼ばれた時の響きがまだ、自分の方へ来ることに少し遅れた。
「僕です。何か、修理のご相談ですか」
「いえ。テオ・モルスです。見習いを、探してるかと思って」
少年は帽子を握り直す。
「木工のモルスの、下の方の息子です。十六です」
フィーナが輪から手を離し、時計を見た。
ノアも見た。三十分のうち、まだ前半だった。
「来てくれて、ありがとうございます。いま、この方へ仕事をお願いしている所なんです」
「待ちます」
テオはすぐ答え、空いている台へ帽子を置こうとした。
「そこは、置かないでください」
ノアの声が少し強くなった。
テオの手が止まる。少年の目が、油の滲んだ台と、自分の帽子の間を動いた。
「すみません」
「こちらこそ。先に、置いていい所を言うべきでした。帽子は、その椅子へどうぞ」
ノアは隅へ移した椅子を指した。
テオは帽子を置き、自分は立って待とうとした。
「座っても、大丈夫です。ただ、そちらの工具棚には触らないで。ここで三十分の仕事が終わってから、話を聞きます」
「はい」
フィーナはそのやり取りを待ち、輪へ視線を戻した。
「時計は、止まってないよ」
「分かっています。いまの所から、続けてください」
新しい人が来たからといって、頼んでいた人の朝まで、無料で延びるわけではなかった。
テオの前で格好よく説明したくなる気持ちを、ノアは自分の中に見つけた。
だから、写しへ指を置く前に、フィーナの手を見た。
細い針を当てる位置が変わるたび、輪の影の方が、図より多くのことを見せた。
「ここは、何を見ているんですか」
「深さ。こっちと違うか、それとも汚れでそう見えるだけか」
「いま、削れば分かりますか」
「削ったら、削る前の深さが分からない」
フィーナは顔を上げずに答えた。
少し遅れて、口の端が動く。
「早く答えが欲しい顔してる」
「しています」
「じゃあ、先に言える答え。いま彫り直す注文は、受けない」
「……それは、困りません。まだ頼む根拠もないです」
「うん。そう言ってくれるなら、仕事しやすい」
時計がまた鳴った。
彼女は輪を持ち上げず、木の受けごと少し回した。ノアは、自分の紙の上下へ印をつける。
その向こうで、テオが膝へ置いた指を動かした。
ノアが見ていることに気づくと、少年は指を止めた。
「何か、気になりましたか」
「番号、ないんだなって」
テオは輪を指ささず、自分の膝の上で丸い形を作った。
「うちで戸の部品を外す時、戻す所へ先に番号つけるので。図が回ったら、こっちも回らないのかなって」
ノアは紙の上下を見た。
いま付けた小さな印は、自分が先に見た側を示すだけだった。フィーナが何を基準に回したかと、同じとは限らない。
「その見方は、助かります。ただ、この輪へ番号を彫るのは、今日はできません。借り物なので」
「紙の方へ、です」
少年が小さく言い直した。
ノアは、自分がまた、相手の言いたいことを最後まで聞かずに道具へ手を出しかけたと気づく。
「そうですね。紙と、台の向きを合わせましょう」
フィーナが木の受けの横へ細い紙を置いた。
「ここの欠けを、始まりにする。ノアさん、その位置から番号を書いて」
彼女はテオへ、少しだけ顔を向けた。
「気づいた所、いまみたいに言って。手は、まだ出さない」
「はい」
返事の声が、先ほどより少し太くなった。
三十分が終わった時、輪はまだ、直っていなかった。
だが、ノアの紙には、太い線一本の代わりに、見分けるべき四つの箇所があった。
フィーナは工具を拭き、包みへ戻す。
「今日、見た所はここまで。次は、試験台で動かす前の固定を見たい。そこを変えるなら、また別で話そう」
「はい。今日は二十銅ですね」
ノアは財布から、数えた銅貨を卓の乾いた所へ並べた。
フィーナは数え、布へまとめる。
「受け取りました」
その言葉を聞いてから、ノアは帳面へ書いた。
百九十四から、二十を引く。百七十四銅。
役場へ報告して得られる小試験の上限六十銅は、まだ、入っていない。井戸が直った代金でもなかった。
見学していたテオが、支払う銅貨をじっと見ていた。
「刻印、直してなくても、払うんですね」
フィーナの手が、包みを閉じる所で止まった。
少年は慌てて続けた。
「違う、払わなくていいっていうんじゃなくて。家だと、直した戸を渡す時に頂くから」
「今日は、直せるかを診る仕事を頼んだんです」
ノアは、紙を指した。
「僕が知らなかった所が、四つ、分かりました。それに、まだ分からない所も」
フィーナが、工具の包みを持ち直した。
「削ってみたら、だめでした。その二十銅よりは、安くしたつもり」
テオは輪を見て、ゆっくり頷いた。
「僕、魔法、あまり上手くないです」
唐突に聞こえたが、少年の目は真剣だった。
「ここで働くなら、先に言っとかないとと思って。線を見ても、動かす方は、たぶん」
「それなら、今日は動かさない理由が一つ増えました」
ノアが答えると、テオは笑っていいのか迷う顔をした。
フィーナは、今度こそ笑った。
「知ってる人でも、今日は動かさないけどね」
フィーナは自分の次の仕事へ出ていった。
ノアは借り物の輪を箱へ戻し、蓋を留めた。それが終わるまで、テオへ手伝ってとは言わなかった。
少年は帽子を持ち上げ、ようやく椅子へ座った。
「見習いを探している、と聞いたんですか」
「いえ。水を運ぶ道具が動いたって。ここの工房、また開いてるって聞いて」
ノアは戸口を振り返った。
開けておくことには、客を待つ以外の意味もあった。
「僕も、直る所を見たくて。父さんの所だと、木が多いから。木も好きなんですけど、これと繋がったら何ができるのか、見たかったんです」
少年の膝の上で、帽子の縁が曲がった。
「でも、今日は、仕事の邪魔をしました」
「見習いの話を聞く時間を、僕がまだ作っていませんでした。今日は、来ると約束していたわけではないですよね」
「はい。勝手に来ました」
正直な返事に、ノアは頷いた。
「すぐに雇うと、約束はできません。僕自身、この工房をどう続けるか、決める期限があるんです。教える人も、いまは僕になります」
テオは、工具の並ぶ台へ目をやった。
「掃除なら、できます。お金、いらないので」
ノアは、すぐに断る言葉を口にできなかった。
床に溜まった木粉。拭けていない窓。紙を整理する時間。
手が増えたら、助かる。
その助かる所だけを、先に数えてはいけないと思った。
「掃除してほしい気持ちは、あります。でも、今日は、頼む約束をしていません」
「下手だから、ですか」
「違います。工具に触ってはいけない所や、捨ててはいけない切れ端を、僕がまだ教えていないからです。教える時間もなしに、働いてもらうのは、できません」
テオは帽子の縁を戻そうとした。指が、同じ場所を何度か往復する。
ノアは、工房の時計を見た。
「いまから十五分だけなら、話せます。見る場所と、教わりたいことを聞く時間です。仕事をしてもらう時間ではありません。それでも、いいですか」
「……はい。お願いします」
ノアは空いた木枠を持ってきた。
魔石も刻印もない、昨日、二人の幅を確かめるために使った枠だった。
「今日は、これが何に使われるか、当てなくていいです。触る前に、どこが動くか見てもらえますか」
テオは身を乗り出し、途中で止まった。
「手は、出していいですか」
「木枠だけなら。ささくれを先に見てください」
少年は袖を上げ、指ではなく目で縁を追った。
木工の家で身についた順だった。
ノアは、そこを教える必要はなかったのだと知る。
「左の留めが、少し浮いてます。ここ、押すと回りそう」
「僕には右に見えます。どちらから見て、左ですか」
テオの手が止まった。
ノアのいる側と、自分の側を見比べる。
「僕から。……じゃなくて、印のある方から、右です」
「印を決めてからなら、同じ場所を指せますね」
ノアは紙へ二つの四角を描き、一方へ印をつけた。
少年は横から覗き、すぐに何かを言いかけた。
その口が閉じる。
「いま、何かありましたか」
「いえ」
返事の早さが、さっきまでと違った。
ノアは紙の上で手を止める。
「僕の図でも、違って見えたら教えてください。いまなら、消して書けます」
テオは、少しだけ目を上げた。
「その印、反対です。僕が触ったの、こっちの欠けの方で」
ノアは枠を見た。
本当だった。
自分の側へ回した時、欠けと目印を取り違え、説明しやすい位置へ図だけ戻していた。
顔が熱くなる。
「ありがとう。僕が、間違えました」
ノアは印を消した。消し跡の上へ、正しい向きの小さな三角を書く。
「いまのは、言ってくれなかったら、そのまま次へ行っていました」
「でも、僕の言い方も、先に左って」
「両方、直せます。僕の図が違うことまで、テオくんの言い方のせいにはしません」
少年は、丸めかけた帽子を膝へ広げた。
それから、もう一度、枠を見た。
「じゃあ、こっちは動きます。こっちは、まだ触ってないです」
見た所と見ていない所が、違う声で並んだ。
ノアは、自分の紙へ、その順番のまま書いた。
十五分が終わった時、床の木粉は、まだ減っていなかった。
井戸の輪も直っていない。仕事を引き受ける時間は、むしろ減った。
けれど、ノアの紙には、テオができることと、これから教えることが、分けて残った。
「お父さんには、今日ここへ来る話をしていますか」
「仕事を見たいって話は。雇ってもらえるとは、言ってないです」
「では、今日も、それは言わないでください。僕と働くかどうかの話は、時間とお金のことも含めて、改めてしたいです」
テオは頷いた。
「次は、いつ来ればいいですか」
ノアは、すぐ明日の朝と言いかけた。
そこには、小試験の準備がある。フィーナへ、次に何を頼むかも決めなくてはならない。
「先に、僕の方で時間を取れる日を決めます。お父さんと話せる時刻も、聞いてきてもらえますか。ここで何時から何時までなら教えられるか、曖昧なまま来てもらいたくないので」
「はい。聞いてきます」
少年は帽子を被り、戸口で一度振り返った。
「今日、図の印、直してよかったですか」
「よかったです。次に同じ所を見られる人が、一人増えました」
テオは、帽子のつばを少し下げた。
その下で口元が動いたが、ノアには、返事の言葉までは聞こえなかった。
駆け出さずに戸を出ていく靴の音が、通りへ混じった。
ノアは、隅の椅子を元へ戻そうとして、やめた。
別の日にも、誰かが座るかもしれない。
自分がずっと立っていればよい、と決めるのでなく、台の置き方をもう一度考えればよかった。
時計の下へ、新しい紙を一枚留める。
刻印の診断、三十分、二十銅、支払済み。
テオとの見学と話、十五分、雇用未決。
どちらも、今日、工房で使った時間だった。
ノアは、役場へ出す試験の紙を開いた。父の借金百八十金を、小さな銅貨で消せたわけではない。営業を続ける契約への署名も、まだだ。
それでも、人が増えれば仕事が増える、とだけ考えていた朝より、必要なものが分かった。
教える人の時間。
知らないと言える場所。
間違えた図を、そこで直す手。
ノアは、先ほど消した印のそばへ、自分の名を書いた。
父の工房で、今日間違え、今日直したのは、自分だった。




