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帰ってきた手で、彫りたいもの

【前回までの人物】

・ノア:亡父の工房で修理の仕事を始めた青年。町の井戸に使う部材を、本体とは別の試験台で調べる依頼を受けた。

・フィーナ:王都で刻印を学んだ職人。ノアの修理に協力しているが、自分の仕事と家庭の予定も持っている。

・イリス:町の行政官。井戸を止めずに行う小試験を依頼した。本修理の発注はまだ決まっていない。

 借りてきた部材は、磨く前に乾かした。

 ノアは窓の下へ布を敷き、井戸で使われていた輪を置いた。表面の色が濃い所と薄い所を、父の修理帳ではなく、自分の紙へ写していく。

 古い図の中では繋がっている線が、現物では端の手前で切れていた。

 壊れたのか。初めからそう作られたのか。

 分からないまま、汚れと一緒に消してはいけないものだった。

 昼下がり、斜めになった光の中で、ノアは片目を細める。

 紙へ写した途端、線は綺麗に見える。自分の手が、見えない部分まで繋ぎたがっていた。

 そこへ短い斜線を入れ、未確認、と書く。

 刻印を見てほしい。

 そう思って、隣へ呼びかけそうになった。

 けれどフィーナは、いつでも工房にいる助手ではない。

 ノアは借用品を箱へ戻し、蓋の隅へ、まだ洗っていない、と紙を挟んだ。それから、彼女へ見せるための写しを一枚だけ持った。


 フィーナは家の前で、小さな金具を盆へ分けていた。

 戸の脇には畳んだ布が掛かり、その下へ短い杖が立て掛けられている。工具の匂いに、煮た根菜の甘い匂いが混じっていた。

「ノアさん。部品、もう届いた?」

「届いたんじゃなくて、お借りできました。刻印の見積もりを、お願いしたくて」

 フィーナの指が盆の上で止まる。

「今から?」

「都合のいい時に。今日、少しだけ内容を説明してもいいですか」

「少しなら。母さんが休む前までね」

 彼女は金具を数え終え、紙の上へ伏せた。途中の仕事を、そのままノアへ渡してくることはなかった。

 家の奥から、椅子を引く音がする。

「フィーナ、その蓋、まだ戻ってない?」

「いま持っていく」

 フィーナが小箱を取り、ノアを振り返った。

「上がる? 紙を広げるなら、こっちの卓が空いてる。作業はしないけど」

「ありがとうございます。お邪魔します」

 敷居を越える時、ノアは父の家の癖で、足元へ目を落とした。低い段差の端だけ、新しい色の木が添えられている。

 奥の窓際には、膝へ薄い掛物を載せた女性が座っていた。頬に疲れが見えたが、卓へ伸ばした指は、フィーナの持っている箱を待っていた。

「母です。ノアさん、工房の」

「ノア・フェルドです」

「フェルドのお名前を聞くと思ったら、あそこの工房の方なのね。来てくださってありがとう」

 ノアが返事を探す間に、フィーナは母の手元へ箱を置いた。

「蓋、きつかった?」

「きついのもあるけど。持つ所が滑るの。ここを押さえると、反対が逃げるでしょう」

 母親は自分で蓋を摘まんだ。上げようとすると、丸い縁が指の間から外れる。

 フィーナは箱へ手を出しかけ、途中で止めた。

「私が開けようか」

「いま開けてほしいんじゃなくて、一人の時にも開くようにしたいの」

「ああ。うん、それは違うね」

 歯切れのよい声が、その一言だけ少し柔らかくなった。

 ノアは紙を開かず、卓の端へ置いておく。目の前では、既に別の仕事の相談が始まっていた。

「持つ所を太くすると、今の指で掛かる?」

 フィーナが木の欠片を一本添えた。母親は握って確かめ、首を少し傾ける。

「これは、角が当たる。長いのはいいけど」

「じゃあ、丸くする。紐の輪なら?」

「引く時に箱ごと持ち上がらないかしら」

「下も押さえる所が要るか」

 ノアは工房の道具を思い浮かべた。大きくすれば使いやすくなる、と一度は考えたことがある。けれど、太くするだけでは、角の痛みも、箱が浮くことも消えない。

「箱の底に、重いものを入れる方法もあります。ただ、運ぶ時は重くなりますね」

 口を挟んでから、二人へ顔を向ける。

「すみません。使う場所が、ここだけなのかと思って」

「寝台の脇へも持っていくんです。中身は、重くしたくないわ」

 母親は箱を自分の膝へ引いた。中には、縫いかけの小さな布が入っていた。

 フィーナが、その布を持ち上げる。

「これ、また縫ってたの。休む時間に」

「休んでばかりだと、同じ窓しか見ないでしょう」

「休むのは必要」

「分かっています。だから、少し縫ったら箱へ戻すの。その箱が閉まらないから、困ってるのよ」

 言われて、フィーナは口を結んだ。

 それから、困ったように笑う。

「……そっか。途中でやめられる蓋が要るんだ」

 大きな魔道具を直す時の声ではなかった。娘が母の小さな不便を、やっと一つ掴んだ時の声だった。

 ノアは、その言い方を覚えておきたいと思った。


 母親が先に休むと言い、フィーナは盆と掛物を運んだ。

 ノアは玄関の段差の所まで戻り、呼ばれるのを待つ。庭では、乾かした布の影が細く動いていた。

 戻ってきたフィーナは、腕まくりを片方だけ下ろした。

「待たせたね。で、井戸の刻印?」

「はい。これが写しです。現物では、ここの続きが見えませんでした」

 フィーナは、紙の線より先に、未確認の文字を見た。

「磨いてない?」

「はい。僕が削って、あなたへ見せたいものまで取ってしまうと困るので」

「そこは、残して。何のための線か分かってから触りたい」

 彼女は紙を傾けた。窓の光へ向ける癖は、細い刻みを見る職人のものだった。

「これだけだと、私も直せるとは言えないよ。表の線を真似して彫れば済む物じゃなさそう」

「診てもらうところから、お願いしたいです」

「明日の朝なら、三十分。最初の確認だけで二十銅。彫り直しや材料は、その後に別で出す」

 ノアは額を聞き、紙の余白に書いた。

 町からは、報告後に支払う小試験の対価として、上限六十銅が示されている。そこから、確かめる手を一人増やすのに二十銅。

 小さいとは言えない。

 けれど、分からない線を分かった顔で削る方が、高くつく。

「二十銅で、最初の確認をお願いします。明日の朝、工房で。作業を増やす時は、先に相談する形で」

「うん。その三十分が終わってから決めよう」

「役場への報告は三日後の午前です。明日は、試験台へ繋ぐ前の確認だけにします」

「分かった。それなら、午後の予定まで持っていかれない」

 フィーナは紙の端へ、待つ場所ではなく時間を書いた。母の世話を理由に曖昧にするのでも、仕事が来たから全部空けるのでもない。

 ノアは、さっきの蓋を思い出した。

「王都では、こういう線ばかり彫っていたんですか」

「こういうのも。もっと小さくて、嫌になるくらい細かいのも」

 彼女は右の親指を人差し指へ擦り合わせた。

「最初の月はね、同じ曲線を百本彫って、一番ましなのを一枚だけ見せた。残りは、先生に見つかる前に裏返したかった」

「百本の後でも、ですか」

「百本あると、失敗も百種類くらい見つかるんだよ」

 ノアは笑った。フィーナも笑ったが、その指は、紙の縁を撫でたまま止まった。

「帰る時、悔しかった」

 風で、干した布が窓枠に触れた。

 フィーナはその音を見に行かず、手元の線へ目を戻した。

「もう少し、向こうで仕事を取れるところだったから。家からの手紙を読んで、帰るって決めたのに、決めた後も悔しかった」

「お母さんが……」

「うん。具合が悪くなって。でも、母さんのせいだって話にはしたくない」

 ノアが何かを言う前に、彼女は少し強く言った。

 その強さに、ノアは口を閉じる。

 自分も、父が残したものを重いと感じる日がある。だからといって、その重さを、父の悪さにしてほしいわけではなかった。

「王都へ戻りたいんですか」

「仕事は、したい」

 フィーナは、そこだけ迷わず答えた。

「戻るかは、まだ。ここで刻印の仕事が取れたら、それは私の仕事になるでしょう。王都へ帰るまでの、つなぎじゃなくて」

「はい」

「だから、明日の二十銅。知り合いの手伝いって言わずに、出してくれてよかった」

「まだ、払ってはいません」

「知ってる。明日、忘れないでって話」

 少し尖った声に戻ったので、ノアは今度こそ笑えた。

 フィーナも肩を落とし、息を吐く。

「ここにいるとさ、母さんの娘にはなれるんだけど。それだけになりそうで、焦る日もある」

「さっきの蓋を見ていて、僕は、あなたが職人だと思いました」

「蓋ひとつで?」

「ひとつで。僕なら、開けて渡して終わっていたかもしれません」

 フィーナは、家の奥へ目をやった。

「私も、だよ。母さんに言われるまで、開けてあげればいいと思ってた」

 誇らしげに胸を張るのではなく、少しだけ口の端を引く。その表情に、ノアは、仕事の話をしに来てよかったと思った。


 帰る前に、フィーナは端材の上へ短い線を引いた。

 箱の蓋へ、すぐ何かを彫り始めるのではない。指を掛ける部分を、紙で丸めて確かめるためだった。

「ノアさん、これ持ってて。こっちが動かなかったら、母さんの指が掛かるか見たい」

 机の上で紙が滑らないよう、ノアは端を押さえた。

 彼女が丸めた紙を置き、少しずつ角度を変える。道具の名を教える声より、今は、ここで離れないか、と確かめる声の方が多かった。

 隣の部屋から母親が顔を出したので、フィーナがすぐ立つ。

「起こした?」

「お水。ついでに、それ、見てもいいかしら」

 母親は自分で椅子へ戻り、紙の取っ手を触った。まだ固定されていないので、フィーナが箱の脇を押さえる。

「このくらいなら、掛かる。でも、毎回あなたに押さえてもらうわけにいかないわね」

「下に滑りにくい布を敷くか考える。今あるもので試して、それから作る」

「作りすぎないでね。大きな箱は要らないから」

「分かってる。中身より蓋の方が立派になっても困るし」

 母娘が同じ所で笑った。

 ノアは、取っ手より先に、閉じた時の隙間を見た。紙の丸みが、布を挟まず、外へ残っている。

「閉めた後も、ここが見えると良さそうですね」

「どこを持つのか、分かるから?」

 母親に訊かれ、ノアは頷いた。

「はい。暗い時に、手探りで縁を探さなくても」

「それは、助かります。昼間も、掛物に隠れると探すのよ」

 彼女自身の使う場所の話が、また一つ増えた。

 ノアは、町の井戸の図を思い出す。

 繋がっている線だけを見ていては、桶を持って帰る人が見えない。箱を開けられることだけを見ていては、途中で縫うのをやめたい人が見えない。

 魔道具は、中にある線だけで働くのではなかった。

 母親は水を飲み、今度こそ休むために立った。

「明日は、娘の仕事をよろしくお願いします」

「こちらこそ。僕の分からない所を、見てもらいます」

 フィーナが少し眉を寄せる。

「母さん、私が頼まれた仕事だよ」

「ええ。だから、明日の朝は、あなたの支度を先にしてね。私の分は、起きてから相談するから」

 その返事に、フィーナは、うん、とだけ答えた。


 工房へ戻ると、窓の下の布は乾いていた。

 ノアは箱の蓋を開け、借りた輪をもう一度見る。写しにはなかった細い傷が、斜めの光の中で浮いた。

 明日までに、勝手に磨かない。

 試験台の寸法は、自分で確かめる。

 フィーナに頼む所と、自分の仕事を、別々の紙に書く。

 台へ輪を載せる前に、ノアは空の木枠を置いた。手を伸ばすと、奥の留め具へ届く。その姿勢のまま紙へ書こうとすると、肘が箱へ当たった。

 箱を右へ移す。すると、今度は光が自分の背で遮られる。

 前の人生の作業場でも、道具を増やすほど仕事が速くなるわけではなかった。それを知っているつもりで、今日も、自分が立てる場所だけを空けていた。

 ノアは台を少し窓へ寄せ、二人分の幅を取った。借りた輪には触れず、紙と物差しだけ置いて、横から覗けるか確かめる。

 明日、フィーナが違う所に立ちたいと言えば、また動かせばいい。

 今から全部を決めるより、動かせるようにして待つ方が、今の自分にはできそうだった。

 現金の差引は百九十四銅のまま。明日の診断二十銅は、まだ支払っていない。役場からの六十銅も、上限であって、今日の売上ではない。

 父の借金百八十金の数字は、その紙の外に残っている。継ぐと決める署名も、まだしていない。

 それでも、明日の朝に呼ぶ職人の名前は決まった。

 ノアは試験用の台を壁際から引き出し、相手が立つ場所を空けた。

 端材が一本、転がってきた。手に取ると、切り口の角だけが固く当たる。

 フィーナの母親が、角が痛い、と言った声を思い出し、ノアはそれを、自分の道具箱の横へ置いた。

 直せるかを見に来る人のために、まず、仕事のできる場所を作ろう。

 明日の三十分は、その人の時間なのだから。

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