井戸を止めない試験
【前回までの人物】
・ノア:父の工房で試営業を続ける修理職人。洗濯屋の小さな水くみ具を直した。工房の借入元本は金貨百八十枚のまま。
・エダとテッサ:母娘で洗濯屋を営む。店の道具は直ったが、共同井戸から来る水を待つ時間は残っている。
役場の机には、ノアより先に、井戸の紙が来ていた。
受付で用件を伝え、呼ばれた部屋へ入ると、窓際の机に濡れた縁の控えが並んでいた。数字の脇に、桶の絵まで描いてある。
町の行政官イリス・ヴェルンは、開いていた帳面へ細い紙を挟んだ。
「フェルド工房の方ですね。イリスです。お待たせしました」
濃茶の髪を留めた飾りは、小さな銀色の物だった。立つ時、袖へ付いた糸くずを一つ払う。書類だけを見て一日を過ごした人の袖ではなかった。
「ノアです。共同井戸の件で、相談に来ました」
「直せる、というお話でしょうか。それとも、調べたい、でしょうか」
空いた椅子を示す声は、柔らかかった。
ノアは座り、用意してきた紙を広げた。
「今、言えるのは、調べたい方です」
井戸、運ぶ桶、洗い場。
三つの箱へ、自分で見たことと、店で聞いたことを書き分けてある。
イリスは、すぐに金額の欄を探さなかった。
洗い場の箱を指す。
「こちらは、もう直した物ですね」
「はい。エダさんの店の水くみ具です。滑り輪の交換と清掃をして、使うお二人に三回、続けて動かしてもらいました。共同井戸とは、別の装置です」
「井戸の方まで同じ原因かは、まだ分からない、ということですね」
「中を見ていません。店の方も、回数が増えたことだけで輪が減ったと決めるには、足りません」
彼女は小さく頷き、椅子を寄せた。
「では、まだ言えないことを減らす相談にしましょう」
その返事を聞いて、ノアの肩が、少し下りた。
何でも出来ると言わなければ、席を貰えないわけではなかった。
*
最初の案は、すぐに、狭くなった。
ノアが、短い時間だけ外の覆いを開けたいと話すと、イリスは机の控えを一枚取った。
「その短い時間に、どこが止まりますか」
「今の繋がり方を見てからでないと……取水側まで止める必要があるかは、まだ」
「そこが分からない状態では、今日の列へ何分と伝えられません」
叱るような言い方ではなかった。
彼女の紙には、朝の当番の名と、給水を待っている区画が並んでいた。
ノアの見た列は、井戸の前だけだった。その先にある食事の火や、商店が戸を開ける時刻までは、全部見たわけではない。
「同じ通りに、別の井戸があれば、とは思いました」
「あります。ですが、そちらも今日は余裕がありません。水の量だけでなく、歩く人の数も増えます」
イリスは二つの点を、指で結んだ。
代わりの物が、同じ場所に、空いたまま待っているわけではない。
ノアは、自分の紙へ引いた太い丸を見た。
調べるために一度止める。
前世でも何度もした段取りが、ここでは、まだ段取りの入口にしかなっていなかった。
「外して保管した部品や、図面は、ありますか。今、使っていない物から見られれば」
彼の問いに、イリスが別の棚を向く。
「予備と、交換した物はあります。ただし、使える予備を、試すために傷めてよいわけではありません」
「はい。何をお借りするか、先に分けたいです。工房へ運ぶ物と、その場で見るだけの物も」
「実物を見ましょうか。午前の見回りに、少し時間を足せます」
ノアは、顔を上げた。
予算の紙を出す前に、同じ井戸の前へ立つことになった。
*
朝の井戸には、もう、順番を待つ桶があった。
桶だけ先に置いて戻った家もあるのだと、当番が説明する。人の数だけ数えて、列が短くなったとは言えなかった。
イリスは、顔を覚えている何人かへ挨拶し、取水口へ寄りすぎない所で足を止めた。
「今朝、変わったことはありますか」
「戻る時の音は、昨日と同じ。水も、これくらい。後ろへ回してくれって家が二つ増えた」
当番の手が、紙の名を二つ押さえた。
ノアは、昨日見た水くみ具の取っ手を思い出す。
似た音、と呼びたくなる所で、まず、違う形を見ることにした。
共同井戸の具は、町の人が持ち込む桶より、ずっと太い管へ繋がっていた。覆いの下へ続く刻印も、洗濯屋の物ほど簡単には見渡せない。
自分の家にある工具だけで届くかどうかも、まだ分からなかった。
「止めずに、戻る動きだけ、外から見せてもらえますか。いつもの使い方のままで」
「見るのは、構わない。急に手を出すなよ。今日は、後ろまで見えてる」
当番が顎で列を示す。
ノアは頷き、桶を置く人が動ける方を空けた。
水が、薄い金属の音と一緒に出てきた。
取っ手が戻る途中で、一度だけ、当番の肘が上がる。
ノアは、その位置を紙へ記した。部品の名前を、まだ書かない。
次の人が桶を取る。
水面が揺れ、縁から少しこぼれた。
その人は、こぼれた分より、片側へ重くなった桶を持ち直す方に息を使っていた。
十銅の修理代を払う時とは違う重みが、ノアの掌にも残る気がした。
「道具の下だけでなく、使う人の高さも変わりますね」
彼が言うと、当番は短く笑った。
「小さい子の分は、こっちが持つ。自分で出来る人まで待たせたくはないけどな」
「直ったあとも、その使い方で確かめたいです」
「直る前から、それを言ってくれるなら、覚えておくよ」
ノアは顔を上げた。
期待を渡されたのだと、少し遅れて分かった。
すぐ直します、とは返さず、紙の端を押さえる手へ力を入れた。
*
保管小屋には、外した部品を入れた浅い箱があった。
当番が棚から下ろす。イリスは、付いていた札を外さず、箱の隣へ控えを置いた。
ノアは、その順を見てから、蓋を開けてもらった。
古い油と、湿った木の匂いがする。
中にあったのは、筒の一部と、軸を支える金具、縁が不揃いな輪だった。
洗濯屋で見た物と、役目の似た所はある。
同じ寸法でも、同じ減り方でもなかった。
「こちらを、別の台へ載せてみたいです。井戸へ戻す物にはせず、外した部品として」
「それで、今の故障が分かるんですか」
イリスは、箱ではなく、ノアを見た。
「全部は分かりません。動く所の形と、引っ掛かる向きを、同じ位置から見られます。今の井戸の診断をしたことには、しません」
「では、何のために、その試験をするのでしょう」
ノアは、言葉を一度止めた。
部品を動かせば、何か分かる。
それでは、彼女がここへ持ってきた予算の紙へ、まだ何も返せない。
彼は紙を裏返し、小さな図を描いた。
「外した部材の形で、摩耗する所と、力が掛かる向きを見ます。刻印を変えず、機械の側で試せる案を、一つ作れるかどうか。作れたら、次に、現物を止めて見る必要のある所を、絞って提案します」
指で、試験の箱と、井戸の箱を分けた。
「失敗なら、使えない案を、井戸へ付ける前に一つ消せます」
イリスは図へ目を落とし、しばらく黙っていた。
外では、桶を置く音が続いている。
「結果が出ない試験と、使えないと分かる試験は、別ですね」
「はい。僕が、後から都合よく、言い方だけ変えないように、今、決めたいです」
彼女の指が、図の終わりで止まった。
「そこまでなら、費用を組む話が出来ます」
*
役場へ戻る途中、イリスは水路の壁へ目を向けた。
洪水の痕が、日向と影の境目より上に残っている。
「お父様の図面も、お持ちになったんですね」
ノアの鞄から覗く厚い紙を見て、彼女が言った。
「はい。今日の答えとしてではなく、前の形を比べるために」
「ここが今の壁と違います。洪水のあと、道を一度、内側へ寄せました」
彼女は歩く速さを落とし、図の線と、向こうの壁を見比べた。
父の線は、きれいだった。
その通りに戻せば、父の失敗まで戻せるような気が、どこかにあったのかもしれない。
ノアは、図を畳む手を少し遅らせた。
「父が見ていた町と、今の町も、違うんですね」
「同じ人が住んでいても、水の道は変わりました。私の役場の図も、全部が新しいわけではありません」
彼女は、それを、他人の不備のようには言わなかった。
「前の図と違う所を見つけたら、教えてください。書き直す方は、こちらで引き受けます」
ノアは、はい、と答えた。
父の残した物を、父を守るためだけに使わずに済む返事が、初めて出た気がした。
*
机へ戻ってから、イリスは用紙を二枚に分けた。
一枚は、外した部材の貸出し。
もう一枚は、ノアが行う小さな試験の依頼だった。
「今回は、原因を断定する本診断や、本体修理の発注ではありません。外した部材の観察と、別の台を使った動作比較、試験案の報告。ここまでで、六十銅を上限にします」
ノアは、費用の欄を見た。
自分の図を、公の仕事として受け取ってもらえる。
嬉しさが先へ出かけた所で、次の欄へ目を移した。
「新しい材料の購入は、この中で?」
「今の案では、購入せず、手元の台と貸出し部材を使うとのことでした。追加で必要なら、買う前に、別に見積もりを。六十を超えた分が、自動で認められる契約ではありません」
「はい。刻印の確認は、僕だけでは出来ません。フィーナさんへ頼む分も、ここで代わりに引き受けないようにしたいです」
「では、それは今回の範囲から外しましょう。必要になった時点で、相手の見積もりと、担当する内容を出してください」
彼女は空欄へ、短く書き足した。
仲間がいることを、いつでも無料で使える腕があるという意味にしない。
ノアは、その行を読んでから頷いた。
「提出は、三日後の午前までで、出来ますか」
「外した部材の図と、動かした条件、使えそうな案かどうか。そこまでなら。ただ、実物が割れていて動かせない場合も、最初の報告にします」
「構いません。動かせなかった理由も、結果です。貸した物を、動くように見せるために削らないでください」
「それは、しません。戻す物と、試験で触ってよい所を、今の札へ書いてもらえますか」
イリスが、手を止めた。
それから、口元を少しだけ緩める。
「そこは、私が先に書くべきでしたね」
ノアは、慌てて首を振りかけた。
でも、彼女はもう、貸出しの紙へ線を引いていた。
相手の方にも書き足す所がある相談を、失礼だったと引っ込める必要はなかった。
*
支払いは、報告を受けてから。
無断の加工や部材の持ち帰りをしないこと。気づいた破損はその時点で知らせ、次の試験へ進めないこと。
役場が貸す古い部材は、今使っている井戸の予備と入れ替えないこと。
ノアは、一つずつ、受ける仕事の範囲を読んだ。
工房は、まだ試営業だ。借入の継承へ署名したことにも、町の給水設備全部を任されたことにもならない。
それでも、今日、自分の名で引き受けられる仕事が、紙の上に一つ出来ていた。
「本体の修理になったら、また、別の工房にも話を聞きます」
イリスが言った。
「今回試した方が、そのまま全部受けるとは、約束出来ません」
「分かりました。僕の試験の結果も、比べる方へ使ってください」
答えてから、ノアは少しだけ息を吐いた。
全部自分へ来なければ、損になる気がしたのも、本当だった。
父の工房を残したい。仕事は欲しい。
その気持ちを無くした顔で、公平の話へ頷く必要はない。
「……その上で、修理の案は、僕も出したいです。試験が終わって、出せる物になったら」
「はい。私も、直る案を増やしたいです」
彼女は、最初より少しはっきり笑った。
ノアは自分の欄へ名を書いた。
借入の継承書とは、違う紙だった。
*
借りた箱は、自分で抱えると、思ったより重かった。
役場を出る前に一度置き、持つ所を替える。中の部材が動かないよう、札も元の位置へ挟んだ。
工房へ戻る途中、共同井戸の列が見えた。
朝より短くはなっている。
けれど、取っ手を戻す当番の肘は、まだ同じ所で上がった。
ノアが会釈すると、向こうも顔を上げた。
「今日は、止めないんだな」
「はい。外した物を、工房で見ます。井戸へ戻す部品を作ったことにも、まだしません」
「なら、その箱の分は、そっちで頼む。こっちは、今日の水を出す」
当番は次の桶へ向き直った。
大きな期待の演説より、その短い分担の方が、箱を持つ腕へ届いた。
工房では、まず作業台を空けた。
エダへ返した古い輪を、ここへ並べたことにはしない。昨日、手元へ残したのは寸法と記録だった。
今日借りた輪を、そちらの図と離して置く。
大きさも、支える軸も違う。
似ている所は、似ていると書く。
違う所には、別の線を引く。
六十銅は、まだ財布へ入っていない。
現金差は百九十四銅のまま。金貨百八十枚の元本も、減ってはいなかった。
それでも、机の上には、次に確かめる現物と、仕事として頼まれた期限がある。
ノアは、父の図を窓から少し離した。
横へ、自分の三つの箱の紙を置く。
井戸を止めずに始められる仕事が、今日、決まった。
町の水を全部動かすには、まだ遠い。
彼は、遠い方へ大きな約束を書く代わりに、貸出しの札を指で押さえ、最初の図へ、自分が見た輪の縁を写し始めた。




