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12/30

一台直して、見えた水の道

【前回までの人物】

・ノア:父の工房で試営業をする修理職人。荷車の修理を終え、共同井戸の不調を外から見た。

・エダ:洗濯屋。店の小さな水くみ具も取っ手が戻りにくくなり、ノアへ翌朝の診断を頼んだ。

・テッサ:エダの娘。母と店を切り盛りし、布の乾燥や配達の予定を受け持つ。

 洗濯屋の朝は、戸を開ける前から濡れていた。

 石鹼の匂いが通りまで出ている。ノアが声を掛けると、奥で桶の底を擦る音が止まり、栗色の編み髪が戸口へ覗いた。

「ノアさん。母さん、こっちです。まだ水は入れていません」

 テッサは戸を押さえ、工具袋が当たらない幅を空けた。

 壁際の大きな貯水桶と、洗い場の槽。その間に、小さな水くみ具が据えてある。

 足元へこぼれた水が、朝の光を薄く返していた。

 エダは赤く荒れた指を前掛けで拭き、銅貨を十枚、乾いた台へ置いた。

「昨日の約束。まず、これね。朝からうちの水を全部飲んで帰る道具になってたら、そう言って」

「飲むだけなら、ずいぶん重い口ですね」

 ノアは取っ手へ目を向けた。太い管の横に、小さな魔石の受けがある。流す量を手元で調節し、貯めた水を槽へ移す仕掛けだった。

 共同井戸の深い所から水を上げる装置とは、大きさも、管の通る長さも違う。

「使う時の順を、見せてもらえますか。戻りにくい所では、それ以上押さずに」

「分かった。テッサ、いつもの分、こっちへ入れて」

 娘が目盛りを見て水を移した。

 エダが魔石の受けを開き、取っ手を引く。管の口から水が出た。途中で取っ手が一度引っ掛かり、止める方へ返す時にも、彼女の手が強くなる。

「ここ。前は、そんなに力を入れなくても、戻ったの」

 ノアは音のした位置を指し、テッサへ確かめた。

「お二人が使っても、同じ所ですか」

「はい。私が強く押せば済むと思ったんですけど。昨日は、止める時に水が飛んで」

「だから、今日は叩く前に、呼んだのよ」

 エダは自分の手を上げて見せた。

 冗談のあとで、道具から離す。その早さに、今日の仕事へ使いたい気持ちが見えた。


     *


 水を空け、力の供給を閉じた。

 残った流れが消えるまで待ってから、ノアは覆いを外す。留めは布の上へ、外した順に置いた。

 取っ手の根元に、黒い泥が輪になっていた。

 ノアが指で触れるより先に、テッサが顔を寄せる。

「砂、ですか。井戸から来た水に?」

「ここだけでは、どこから来たかは分かりません。桶の底や、この周りから入った分も、あり得ます」

 彼は布へ少し移した。

 ざらつく物と、黒い油。その下には、回る軸を受ける薄い輪があった。

 一方だけ、縁が減っている。

 取っ手をゆっくり動かすと、軸が片側へ寄り、輪の角へ触れた。戻す時には、そこの引っ掛かりをもう一度越えなければならない。

 ノアは力を足さず、止まった位置を残した。

「泥を取るだけでは、残りそうです。この輪が片減りしています。戻す方で、減っていない縁へ軸が当たる」

「魔石ごと替える話ではない?」

「今の流れでは、そこへ異常は見えていません。先に機械の方を直して、同じ量を移した時に、また見ます」

 エダが、十枚を置いた台と、開いた装置を見比べた。

 暖房具の時には、部品を待つ時間が掛かった。今度はどうなのかと、口が少し開く。

 ノアはその問いを待たせず、袋の紙へ輪の幅を写した。

「この形なら、材具店の既製品を確かめたいです。刻印を作り直す物ではありません。在庫が合えば、今日、ここで戻せます」

「合わなかったら、今日の洗いは別の桶ですね」

「はい。僕が見に行く間も、この覆いは閉じておきます。動かさず、手で移す方を使ってください」

 テッサは干し場を一度振り返った。

 それから、先に洗う束を、濡れた床から高い棚へ移した。

 直るかもしれない、の一言で、彼女の仕事が全部待つ形にはならなかった。


     *


 費用は、紙の二行へ分けた。

 交換の輪を十二銅まで。清掃、交換と確認の作業を三十銅。合わせて、追加四十二銅。

 もし現物が合わなければ、勝手な加工や追加の買物はしない。

「診断の十は、もう渡した分で、全部だと五十二ね」

「はい。追加分は、動きをお二人にも確かめてもらってからです」

「頼む。今日、水を移す方の手が戻れば、干す方へ行ける」

 エダが承諾した印を付けた。

 ノアは輪を布へ包み、工具袋を閉じる。閉じた覆いに、使わないでほしい札を置いた。

 診断十銅の入金を足し、工房の現金差は百六十四。

 追加四十二は、まだ受け取らない。

 戸を出る前に、彼は洗い場へ顔を戻した。

「昨日まで、何回くらい動かしていましたか。井戸の具合が悪くなってから、替わった所も」

「前なら、大きい桶へまとめて貯められた。今は運んでもらった分から、小分けで移してる。回数なら、増えたね」

「二回で済ませた所を、四回か、五回。全部同じ量ではありませんけど」

 ノアは、回数の横へ、母娘の言葉だと記した。

 この輪が減った理由を、それだけに決めることは出来ない。古くからの傷みもある。

 だが、昨日井戸で待っていた水は、店へ来たら、もう一度、違う手を待っていた。

 彼は、その順を、今日初めて形のあるものとして見た。


     *


 ウーヴェの店では、朝の客が釘を数えていた。

 ノアは戸の脇で待ち、先の会計が終わってから布を開いた。客は頷いて店を出ただけで、修理の話へ加わることはなかった。

「今日は、ずいぶん小さい物を持って来たな」

「水くみ具の滑り輪です。幅は、こっちへ。厚い方を測りましたが、薄い方も残しています」

 ウーヴェが、掌へ載せて光へ向けた。

 年長の材具屋の指は、薄くなった所へ行く前に、割れのない方の縁を一周した。

「古いのと同じ外径だけで選ぶと、またこっちで泣くぞ。軸の当たる幅は?」

 ノアは紙の裏を示す。

 ウーヴェは頷き、棚の小箱を引いた。

 新しい輪は、同じ色でも、端が揃っていた。二人で軸の通る内側と、受けの深さを確かめる。

「十二。紙に書いてある上限を、俺が読んで上げた値じゃないからな」

「先に値札を見ました。助かりました、そこも」

 ウーヴェの口元が、短く上がった。

 ノアは十二銅を払い、輪を別の布へ入れた。

 百六十四から十二を引き、百五十二。

 古い輪を新しい箱へ戻してしまわないよう、減った方へ依頼者の札を添える。昨日、荷車から外した歯車も、使えないと分けた物だった。

「同じ形が、また働くといいな」

「はい。でも、今度は、入れた所までで終わらせずに」

「ああ。水まで、運ばせてやれ」

 店を出ると、洗濯屋の方から、布を張る木の音がした。

 待っている人は、待つ以外の仕事をしている。

 ノアは歩く速さを、少しだけ上げた。


     *


 戻ると、テッサの袖が、肘の所で湿っていた。

 手で水を移した桶を台へ置き、彼女は、使っていない札をそのままにして道を空ける。

「こちらは、もう空です。今からなら、上の棚の分を干す前に、見られます」

「合う輪がありました。先に、取った物を見てもらいますね」

 ノアは、泥の付いた布と、古い輪を二人へ示した。

 黒い方へ触れたエダが、指を布で拭く。

「水の道具でも、こんな所は油なのね」

「軸の動く所です。ただ、水の通る筒へ、この油を付ける話ではありません。そこは、分けて拭きます」

 彼は道具を持ち直した。

 輪の座る所を清掃する。新しい物を入れる前に、軸そのものへ深い溝がないか、灯りを斜めに当てた。

 見つけた擦れは記し、今すぐ軸交換が必要な深さではないと、根拠の残る方へ書く。

 新しい輪が入ると、軸は、さっき寄っていた側から離れた。

 空で取っ手を引き、戻す。

 途中で手を緩めても、急に跳ね返らない。

 ノアはそこで、いったん手を止めた。

「空では戻りました。次は、水を通します。まず、さっきと同じ量で」

 テッサが桶の印へ水を合わせた。

 曖昧にいっぱいと呼ばず、朝に見た線まで。

 エダが、ノアの手元をよく見える側へ動く。

 力を戻し、低い動きから始めた。

 管が震え、水が、槽へ落ちる。

 ノアは動きを見ながら、エダへ顔を向けた。

「取っ手を止める時の感じは、どうですか」

「まだ私がやってないよ。あなたが、嬉しそうに持ってる」

 ノアは、自分の手を見た。

「……すみません。次、お願いします」

 テッサが、棚へ顔を向けて笑いを逃がした。

 エダも口元を上げ、取っ手を受け取る。

「いいの。嬉しい時の方を、店でも使えれば」


     *


 一回目は、エダが動かした。

 取っ手を引く。止める。手を添えて無理に戻さなくても、戻るべき所へ指が帰ってきた。

 二回目は、テッサ。

 彼女は朝に跳ねた時の癖で、少し腰を引いていた。途中でそれに気づき、足を元へ戻す。

「水、飛びませんね」

「はい。戻す時に、途中の段を越えなくなっています」

 ノアは低い方へ顔を寄せ、受けの周りが濡れていないか確かめた。管の口から落ちた飛沫と、装置から漏れた物を混ぜない。

 三回目は、テッサが量を合わせ、エダが動かした。

 続けても、引っ掛かりは戻らなかった。

 止めたあとの静けさに、外の干し場で鳴る洗濯物の音が入ってくる。

 ノアは顔を上げた。

 エダは、取っ手から手を離したまま、洗い場の広さを見ていた。

「これで、こっちに一人、張り付かなくていい」

 テッサが、濡れた袖をまくり直す。

「母さん、先に上の分を。私は、次の槽へ入れます」

「うん。ノアさんへのお金を、渡してからね」

 直った物を二人で眺め続けるより先に、店の仕事が、その周りへ戻ってきた。

 ノアには、それが嬉しかった。

 父の道具を使っていた昔も、修理が終わると、客は自分の暮らしへ帰った。今日、その背中を送り出す側に、自分の名前で立てている。


 追加の四十二銅を受け取り、控えへ日付を入れる。

 今日の入金は、十と四十二で五十二。

 輪の仕入れ十二を引いた現金の増分は四十。工房全体の現金差は、百五十四から百九十四銅になった。

 ここから家の費用や、まだ計上していない道具の減りまで消えたわけではない。全てを純利益と呼ぶ気には、もうならなかった。

 古い輪は、エダへ返した。

 泥の布は水へ流さず、ノアが作業の片付けとして持ち帰る。

「同じ戻りの渋さが出たら、押し切らずに止めてください。次に見る時、この減った向きも手掛かりになります」

「分かった。これで、井戸の方まで直ったことになれば、もっといいんだけど」

 言ったエダも、窓の外を見た。

 別の桶を載せた荷車が、通りを曲がっている。

「水を移せるようになりました。でも、ここまで来る水は、まだ待っていますね」

「来た分は、すぐ使えます。来ない分まで、空の槽を洗って待つのは、同じですけど」

 ノアは頷いた。

 今日直した輪を、大きな井戸の故障と同じ印で囲まない。

 その一方で、別の道具だから無関係だと、頁を閉じもしない。


     *


 工房へ戻ってから、ノアは紙へ三つの箱を描いた。

 井戸、運ぶ桶、洗い場。

 水の量だけでなく、待つ時間と、動かす回数を書き入れる。

 一台の部品が減る速度の外に、その一台を何度も動かす暮らしがあった。

 父の水路の図面を、脇へ置いた。

 古い図が答えを教えてくれるわけではない。洪水より前の線を、今の町へそのまま戻せば済む話でもない。

 昨日、井戸の当番は、止めるなら時刻を決めてくれと言った。

 開けてみたい、から始めるより前に、聞かなければならない人がいる。

 ノアは、市の担当窓口へ持って行く紙を、一枚だけ新しく取った。

 共同井戸の中は、未確認。

 店の水くみ具は、輪の交換と清掃で、使用者二人による連続三回の試運転を終えた。

 言える二つを、同じ強さの字で書く。

 借入の元本金貨百八十枚は減っていない。継承の書類にも、まだ署名していない。

 それでも、明日、人へ見せる物が、頑張りますの一言だけではなくなった。

 隣の通りで、布を張る音がした。

 ノアは自分の手を洗い、洗い場へ戻ったあの取っ手の、軽い戻り方を思い出した。

 指に残った油を、爪の脇まで落とす。明日、誰かの桶の縁へ触れるなら、今日見つけた泥を、自分の手で運ぶわけにはいかない。

 乾いた布へ手を移すと、開けた窓から風が入った。紙の三つの箱が、一度、同じ向きへ揺れる。

 ノアは重しを載せ、まず井戸を管理する窓口へ、話を聞きに行くと書き足した。直せると売り込む前に、今、誰が何を守っているのかを知りたかった。

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