直した荷車が、水を運ぶ朝
【前回までの人物】
・ノア:父の工房で営業を試す修理職人。マリナの巻取器を直し、単体での手回しを終えた。
・マリナ:河港の運送業者。修理費百銅のうち六十銅を前払いし、荷車での確認を待っている。
・エダ:ノアが暖房具を修理した洗濯屋。店の仕事を娘と切り盛りしている。
荷車へ戻すと、巻取器は、工房の台にあった時より小さく見えた。
大きな車輪。厚い荷台。縄の擦れた横木。
ノアは外した時の印を確かめ、取付けの留めへ手を掛けた。自分の直した物の外には、まだ、直していない車全体がある。
朝の川風が、黒い髪の間を通った。水面から上がる冷たさに、油を拭いた指先が少し縮む。
「今日は、車の方が迎える番ね」
マリナが、荷台の脇へ置いた木箱を足で寄せた。藍の短い上着の下で、袖がもう肘まで上がっている。
「お願いします。まず、昨日と同じ印の所へ。縄は、まだ繋がないで」
「うん。こっちの車輪は止めてある。手を離しても動かない方」
彼女が車輪の前後を示した。
ノアは、自分の袋を通路の外へ移す。取付けの下へ指を入れたまま、相手に車を動かしてもらう手順にはしなかった。
留めを締め、軸の向きを見る。
空で回すと、川の水音に混じって、小さな歯の音が続いた。
昨日、工房で聞いた静けさと同じだった。
だが、ノアは、そこで顔を上げなかった。
左右へ寄せた時の隙間を、もう一度見る。支え輪を替えたあとでも、取付け側で軸を押していれば、同じ所から減り始める。
「今、どこが気になる?」
「この端です。車へ締めた時だけ、寄らないかを。……今の所は、空いたままです」
「じゃあ、私が回す。昨日の跳ねる場所、手が覚えてるから」
マリナの指が取っ手を握った。
一周して、もう一周。
彼女は、途中で力を足さなかった。
手へ返る物を探す顔を見て、ノアも余計な説明を止めた。
*
縄を繋いだあとは、空の荷台から始めた。
擦れて白くなった所をマリナに教わり、裂けた部分がないか、ノアも目を寄せる。
左へ動かし、戻す。次に右。
マリナがいつも載せる箱を、軽い物から順に使った。持ち上がった荷の下へ二人が入る必要はない。止める場所を決め、横から、動きと音を見る。
縄が張ると、巻取器の台座へ力が掛かった。
ノアの喉も、一緒に細くなる。
回っていた歯が止まる。
荷は、そこで待った。
「……戻ってこないね」
「はい。右へ寄せた時も、見ます」
もう一度、荷を下ろす。
置き直して、同じ順を繰り返した。
止まっている物を見て、安心したいだけの時間にはしない。動かし、止め、また動かせるかまで、依頼人と一緒に確かめる。
最後の箱が地面へ戻ると、マリナが取っ手から手を離した。
口元が、ようやく大きく上がった。
「よし。これなら、今日は、車の仕事を頼める」
ノアも、息を吐いた。
直った、と自分が一番に言いたかった。だが、使う人のその声を聞く方が、胸へ長く残った。
外した歯車と輪を、布の上へ並べる。
マリナは欠けた一片を見て、次に、新しい部品の入った側を見た。
「こっちは、返してもらう。使わない方が分かるように、包んで置いとくね」
「はい。今後、同じ音が出たら、無理に回さず止めてください。今日の所と違う原因の時も、あるので」
「それは、船でも同じ。直した舵があれば、帆まで破れないわけじゃない」
彼女は控えを開き、残りの四十銅を数えた。
ノアも受け取り、完了した確認と、支払いの日を並べて記す。
工房で残っていた現金差は百十四。今日受け取った四十を足して、百五十四銅。
診断十銅も、昨日の前払い六十も、もう一度は足さない。
金貨百八十枚の元本から、勝手に引いた額でもなかった。
「船の便は、まだ積んだ返事が来てない。そっちは、分かったら知らせる。でも、この車は、先に使う」
「今日は、何を運ぶんですか」
「最初は、空の桶。帰りは、水」
彼女が荷台の横を開ける。
同じ形の桶が、伏せて三つ、重なっていた。
*
井戸へ行く道は、朝の買い物より桶を持つ人の方が多かった。
ノアは道具を工房へ戻す前に、マリナの車と並んで少し歩いた。見送るつもりだったのが、桶の行き先を知りたくなった。
橋の手前で、車がゆっくり止まる。
共同井戸の周りへ、列が出来ていた。
水は、出ていないわけではない。石の周りには、いま汲めた分の飛沫が残っていた。
上の筒から、一筋、桶へ落ちる。次に、音が細くなり、途中で切れた。
手を止めた人が、取っ手の辺りを見た。
ノアは、昨日の工房で聞いた、遠い軋みを思い出した。近くへ来ると、そのあとに、空を擦るような音が付いている。
「前は、朝のこの時間なら、三つまとめて汲めた。今は、一つ待ってる間に、仕事が一つ遅れる」
「井戸の底で、水が減ったんですか」
「私は、底まで見てない。車で運ぶ方が増えたのは、確か」
マリナは、知らない所まで答えなかった。
ノアも、彼女の一言を原因の欄へ入れず、運ぶ仕事が増えた方へ残した。
井戸の当番が、空いた桶を横へ寄せる。袖を留めた手には、順番を記した細い板があった。
「今、二つ目を待ってる。荷車は、あっち側へ止めて。歩く人が通れなくなる」
「分かった。桶だけ先に下ろすね」
車が動くと、列の間に道が出来た。
ノアは当番の邪魔にならない所へ立ち、取っ手と筒のつながる部分を見た。外から分かる留めに、すぐ切れた所は見当たらない。
だが、中が無事だと、その見え方だけで答えられるはずもなかった。
「いつも、同じ所で止まりますか」
「それが、同じなら言いやすいんだけどね。朝は出た。さっきは半分で細くなった。休ませると、また上がる時もある」
「動かす人が替わった時にも?」
「替わっても、なる。重い桶を運ぶ方は、別の人へ頼んでるけど」
当番は、いっぱいになった桶を、一つずつ順番の板と見比べた。途中までしか入らなかった桶も、列の最後へ戻してはいない。
「半分で終わった人の分を、先に足す。空の桶と混ぜると、誰が待ったか分からなくなるからね」
ノアは、板に刻まれた短い印を見た。水の出方が不安定でも、順を見失わないための仕事は続いている。
「使わない時間を作るなら、皆さんへ先に伝える必要があるんですね」
「そう。汲めると思って来て、空のまま帰るのが、一番困る。見るなら、時間を決めてからにして」
その間にも、次の桶が石へ当たった。前の人が濡れた縁を拭き、持つ人へ渡す。マリナは車輪を止めたまま待ち、頼まれた水以外を、先に積もうとはしなかった。
水が上がるまでの時間と、出来た分を運ぶ時間。ひとまとめに遅いと言ってしまえば、働いている手まで見えなくなる。
ノアは、手を伸ばしかけて止めた。
共同井戸の一つを、見たから直せると思うのは早い。列の先で水を待つ人にとっては、試しに開けてみる時間も、今日の待ち時間になる。
持ってきた工具を出す前に、彼は、井戸の周りを見直した。
どこを止めれば、誰の桶が空いたままになるのか。
工房の台には、載っていなかった物だった。
*
「あら、ノアさん。車の方、もう戻ったの?」
列の少し後ろで、エダが手を上げた。
白髪の混じった茶色の髪を、いつものように小さく結んでいる。桶の持ち手には、洗濯で荒れた指を守る布が巻かれていた。
ノアが頷くと、彼女は、マリナの荷台を見て息を吐いた。
「よかった。それが使えなかったら、今日は、もっと運ぶ手が減ってたね」
「洗濯の水ですか」
「そう。飲む分は先に確保してる。でも、洗う方を後へ送ると、乾く時間がなくなる。朝に洗えた物を、昼から洗ったら、同じ日の仕事じゃなくなるのよ」
ノアは、前に直した暖房具を思い出した。
布の間へ風を通し、火が途中で消えずに使えるようになった。それがあっても、洗う前の水が届かなければ、竿へ掛ける布は増えない。
エダが、少し苛立った顔で井戸を見た。
「火の方が落ち着いたと思ったら、今度は水。洗濯物だけ、よその町へ歩いていってくれれば楽なんだけど」
「桶の方も、そうしてくれたらね。車の出番がなくなると、私は困るけど」
マリナが空の桶を一つ下ろす。
エダも、小さく笑った。
笑ったあとには、どちらの桶も空いたままだった。
「今日は運んでもらう分を増やした。娘に、全部の桶を任せるわけにいかないから。運び賃は掛かるけど、引き受けた布は返したい」
「昨日も、そうだったんですか」
「昨日は一回。今日は、あと一回頼むかもしれない。布の量を見てからにする」
ノアは、すぐ、安く運べる仕組みを作ります、と言いかけた。
マリナの車を、昨日まで自分も預かっていた。それを使い、彼女は今日、人の仕事が止まらない分を運んでいる。
運ぶ対価を無くせば解決する、という話ではない。
水を汲む所で余分な待ちが生まれ、その分が、運ぶ回数にも乾かす時間にも乗っていた。
「僕、井戸の中身は、まだ分かりません。でも、何が待つことになるかは、今日、ここで見ました」
「見てくれたなら、うちの桶も忘れないで。店にある小さい水くみ具の方。あれも、最近、取っ手が戻りにくいの」
彼女の指が、空中で小さな円を描いた。
共同井戸に付いた大きな装置ではなく、店で使う道具の話だった。
*
ノアは、道の端へ一歩寄り、エダの話を聞き直した。
いつから、どんな使い方で、何を持ち上げる時か。
洗濯の桶へ水を移す時、引いた取っ手が途中で渋くなり、戻す方へも手を添えなければならないという。
ノアは、その場にない物を、井戸と同じ故障の印で繋がなかった。
「店の物なら、まず、そちらを見せてください。診断と見積もりで十銅。直す費用は、そのあとに返事をします」
「暖房具の時と、同じ順ね。今日、すぐ来られる?」
ノアは、袋の工具と、井戸の前の列を見た。
朝の作業の控えも、まだ工房へ戻していない。
「今日は、戻る時刻を決めてからにしたいです。明日の朝なら、洗う前に。今夜、無理に動かし続けずに済みますか」
「うん。今日は別の桶で移す。遅くはなるけど、壊して水をこぼすよりまし」
「では、明朝。現物を見てから、直せるかを伝えます」
「お願い。十銅は、その時、渡す。今、財布を出すと、列の方を見失うから」
彼女が前へ少し進んだ。
ノアも、十銅を受け取った欄ではなく、訪問の欄へ書く。
明日の仕事が一つ出来ても、今日の財布へは、まだ増えない。
井戸の取っ手が、もう一度動いた。
さっきより太い水が落ち、人が桶を少しずらす。
出た、と誰かが顔を上げる。
喜びのあとに、いつまで続くかを気にする目が残った。
ノアは、その目を覚えて帰ろうと思った。
*
マリナの桶が積まれる頃には、川の風が少し温かくなっていた。
彼女は縄を掛け、直した巻取器を回す。
止める位置で、取っ手が止まった。
桶の水が揺れ、すぐ静まる。
「今日の最初の荷。ちゃんと、持ってくれた」
ノアの胸へ、朝の嬉しさが、違う形で戻ってきた。
工房で音が消えた所から、ここまで繋がっている。
歯車を一枚替えただけで町を救ったわけではない。でも、その一枚が、今日、水を運ぶ人の手へ戻ったのは、確かだった。
「運んだあとも、夕方までに、気になる音があったら教えてください」
「分かった。井戸の話まで、車の不調へ書かないでね」
「はい。帳面も、別の頁にします」
彼女は、そうして、と頷いた。
荷車が動き出す。車輪の音に、桶の水の音が付いた。
ノアは工房への道を戻り、入口で、靴へ付いた井戸の泥を落とした。
台の上は空いていた。
昨日まで巻取器があった場所へ、今は、朝の確認を終えた控えを置く。
残り四十銅を受領。現金差百五十四銅。
その下には、別の欄を作った。
エダの水くみ具。明朝、診断。十銅は未受領。
共同井戸は、外からの聞取りのみ。原因は未確定。
書き終えても、耳の奥から、朝の軋みは消えなかった。
父の帳面を開けば、似た装置の図はあるかもしれない。だが、明日会う道具は、明日、自分で見なければならない。
ノアは袋を開き、今日使った工具を拭いた。
水が来たら出来る仕事を、待っている人がいる。
次に戸を叩かれる前に、そのことを知っている朝になった。




