第12話「扉よ、こっちを見て!」
オープニングテーマ「WONDER VOYAGE」
https://youtu.be/Bs0_T5g4GqI
三番目は、京介にも読むところから難しかった。
細い文字が円に沿って彫られ、その内側に動かせる舟の絵がある。舟の左右には短い板。中央の軸を回せば向きを変えられそうだ。
「これは、シェリルの番だな」
京介は一歩横へどいた。
「は、はい。そこに灯りをお願いします」
彼女は教本を開いた。
海風でめくれる頁の隅を、シェリルは膝と肘で押さえた。京介が手を貸そうとすると、包帯を見た彼女が首を振った。
まいが鏡の角度を調整した。ミエールくんは休ませ、今度はシェリルが肉眼で読みやすい光を作る。
京介は左手で地形図を畳み、白い裏面を鏡の隣へ立てた。薄い紙でも光は増えたらしく、シェリルがその方へ体を寄せる。
「ここは『舟』。その次が『波』です。あとは、割る、進むという意味に近い字……」
「波を割って進め、かな」
「待ってください。最後に短い横線があります」
シェリルは教本の書き込みを指した。
同じ線が、例文の末尾に入っている。
「その線があると、前の言葉を打ち消すんです。『舟は波を割るものにあらず』」
「舟なのに?」
「この場所の舟は、ということかもしれません」
続く文字は、もう少し残りがよかった。
『羽をたたみ、天を指せ』
京介は扉の上の彫刻を見上げた。
細い先端を上へ向けた舟。
帆にしては固そうな、金属の羽。
船底へ波が当たるつもりで見ていた絵が、頭の中で向きを変えた。京介は額を上げすぎ、後ろの岩へ髪の先を擦った。
「左右の板を内側へ。それから、先を上だ」
シェリルは文字の順に指を滑らせた。
「はい。羽が先、それから上です」
京介は左手で片方の板を内側へ倒した。もう片方へ手を伸ばすより早く、まいがそれを畳む。彼の右手が出る隙間は、最初から空いていなかった。
その状態で軸を回すと、舟の先端が真上へ向く。壁の彫刻と、ぴたり重なった。
カコン。
三番目の留め具が外れた。
シェリルが胸に本を抱きしめる。
ほっとした笑顔だった。
「できました」
「ああ。オレだったら、舟を海へ向けて、いつまでも首をひねってた」
「わたしも最初、海へ向けそうでした」
シェリルは笑ったが、教本を閉じる手は遅かった。京介は地図を立てていた平らな石を示した。
「次を読むまで、そこで休んでくれ」
「ありがとうございます。でも、今の字なら座っても読めます」
シェリルは本を膝に載せ、四つ目の装置へ顔を向けた。
マリアは円盤の舟を見ていた。
「これだけ上を向きたがる舟なら、王様と気が合うかもしれない」
京介も、空ばかり見ていた王様の顔を思い出した。
だが目の前の四つ目が動き始め、考えはそちらへ持っていかれた。
*
最後の装置は、三本の溝と、三枚の金属板だった。
板はそれぞれ台に固定され、溝の上を滑る。根元の白い印から、先の丸い印へ動かす仕組みだ。壁には目に似た小さな窓が三つ。上に小ぶりの砂時計がある。
まいが装置の横を覗いた。
「一枚ずつ運ぶんじゃ間に合わないわね。砂が落ちる間に、三枚とも向こうの印へ置くんだわ」
「昔の人は、みんな三本腕だったのか?」
「長い棒でまとめて押す台があったみたいです。ここに、もう一本の溝が」
シェリルが足元を指した。
平行に走る車輪跡の端に、折れた軸が残っていた。京介が左足で押すと、薄い錆が落ちる。
「なら、人で代わりをすればいいな」
京介、シェリル、マリアが一枚ずつ受け持つ。まいは砂時計を返すつまみを担当した。
試しに動かすと、板は途中まで滑った。
そこで全部、止まった。
砂時計の下に、赤い点が一つ灯る。
砂が落ちきると、京介の板は取っ手を握っていても戻ってきた。残り二枚も白い印へ収まり、赤い点が消える。
背後で水の音がした。さっき自分たちが残した水路の靴跡へ、細い波が入り込んでいた。
「押す力が足りないんでしょうか」
シェリルが袖を気にした。
「いや。三枚とも同じところで止まった。力で押し切る前に、止めてるものを探そう」
「砂が戻るまで、次は動かないみたい」
まいの声は装置へ向いていた。京介は包帯を上着の裾で拭い、板を止めた位置へしゃがんだ。
板の表には、小さな鏡がはまっていた。
その下に、赤い塗料の名残がある。大部分がはがれ、金属の鈍い色が出ていた。
京介は自分の朱色のヘアバンドへ触れた。
色の似た布ならある。
外して、板の前へ垂らしてみた。
壁の小窓に、細い赤い線が現れた。
「お?」
布を隠すと線は消え、もう一度見せればついた。
「見てるのか、こいつ」
マリアが小窓の前に手をかざす。板と窓の間を隠すと、線は消えた。
今度は布を鏡に映し、鏡だけを窓へ向ける。
線がついた。
「熱じゃなくて、見える赤い色に反応してる」
京介は、少し興奮した。
シェリルが装置の端の細い文字を読んでいる。
「ここに『視覚弁』とあります。目で合図を受け取る弁、という意味だと思います。その横には……『熱のある火を近づけるな。保護の閉鎖が働く』」
「本物の火は、だめなのね」
まいの声が変わった。
京介も彼女を見る。
「試すか?」
「試さない理由がないわ」
まいは一歩下がり、扇子を開いた。ブーツの踵が湿った石を踏んだ途端に身を固くしたが、足を置き直してから手を上げる。
手の先に、小さな赤い火が浮かぶ。
音はない。熱もない。
夕暮れの石壁は暗くなりかけていたが、その火が石を明るくすることはなかった。見えるのは、炎の形そのものだけだ。
京介はヘアバンドを引っ込め、額へ巻き直した。
まいの火の像が、同じ位置へ来る。
壁の小窓に、赤い線がついた。
「ついた!」
「声、大きい」
「悪い!」
まいの肩が、叱ったのか笑ったのか分からない揺れ方をした。
まいが扇子を少し動かす。火は鏡の前を通った。
映った炎を窓へ向けると、やはり赤い線がつく。
マリアの掌が鏡と窓の間へ入ると、赤い線が途切れた。手を下ろせば、線も戻る。
西日が陰り、シェリルが灯りをつけた。その光で京介の手も石も明るくなる。まいの炎は、同じ手を赤く染めることさえしなかった。
「本物の火を近づけると閉じる。でも、まいの火なら、合図だけ送れる」
「そういう注文なら、任せて」
まいが一度火を消す。
ひと息休み、扇子を閉じた。
シェリルが灯りを装置の上へ寄せる。道の端は暗いままで、まいがまぶたを何度かしばたいた。
「少し待って。三ついっぺんに作る位置を決める」
「急がなくていいぞ」
言ってから、京介は海を見た。引き返せる残り時間は、岩棚に届いた水が教えている。
「あんたの『いい』、今日は割引して聞くわ」
まいはそう言って、乾いた足場へ小石を一つ置いた。もう一つを鏡の前へ置き、立つ場所との間を自分の歩幅で測る。京介の耳が熱くなったが、彼女の扇子が描く線へ目を戻した。
京介は三枚の板を改めて見た。
それぞれの鏡の角度は違う。動かしたとき、ちょうど壁の窓へ向くようになっていた。
塗装の残る板の端も、窓の前で赤い線をつけた。擦り切れた部分を、火の像で埋められそうだった。
「動かす間ずっと赤い像を見せて、丸い印に来たところで鏡を合わせる。三つともだ」
「砂が落ちきる前にね」
まいは三枚の鏡を指で追った。一番遠いものでも二十歩に届かない。だが、京介が板と一緒に進めば、最後の窓と彼女の間に立つことになる。
「そこの取っ手、内側から持って。あんたの肩で隠れる」
「右で持つのか?」
「左のまま、横向きで押せるわ。ほら、立って」
まいは京介の肩へ触れ、向きを変えさせた。近くで目が合うと、言いかけた注意が一度止まる。すぐに彼女は扇子の先へ視線を移した。
「これなら、最後まで見える」
「分かった。この向きでいく」
シェリルは溝へ落ちた砂を、小さな刷毛で払った。マリアは板の取っ手を握り、自分の立つ場所を半歩直した。
京介はつまみのひもを手前へ延ばした。左の小指で引いて離し、その手を板へ添えれば始められる。
「いいか?」
「いつでも」
「はい」
「うん」
砂時計が返った。
細い砂が落ち始める。
三枚の板が、溝を進む。
まいの扇子がひらめき、赤い炎の列が、板の前へ静かに並んだ。
何も燃えていないのに、火が道を渡っていく。
鏡の中にも、三つの火。
途中で、まいの踵が水へ入った。
声にならない息が喉を鳴らす。火の端が薄くなり、マリアの窓の赤が細く欠けた。京介は思わず振り向きかけ、体を止めた。肩を出せば、残っている合図まで隠してしまう。
「まい。まだ、見えてる」
「分かってる……っ」
砂時計の砂が落ちていく。
まいは動かす足をそろそろと持ち上げた。扇子を高く保ったまま、踵を小石の脇へ戻す。火の列がまた厚くなり、欠けていた線がつながった。
マリアの板が溝の端へ当たった。彼女は半歩ずれて引く向きを変え、取っ手を押し込んだ。
一つ目の丸へ、京介の板が収まる。
二つ目へ、シェリル。
三つ目へ、マリア。
壁の窓が、一つ、二つ、三つと赤くなった。
砂は、まだ少し残っていた。
カコン。
四つ目の留め具が外れた。
まいが火を消すのと、扉の奥で大きな音がするのは、ほとんど同時だった。
ゴウン。
石に見えた扉が、厚い輪の中へゆっくり引かれる。
潮風とは違う、乾いた空気が流れ出した。
京介は左手を突き上げた。
「開いた!」
まいが扇子を閉じ、岩へ片手をついた。シェリルは本を抱えたまま座り込み、マリアの口から長い息が抜ける。扉の向こうで、ひんやりした空気が京介の額を撫でた。
丸い天井。壁を巡る何層もの輪。ずっと上へ伸びる線の先に、また星が刻まれていた。
暗い入口へシェリルの灯りが差す。階段の下から吹き上げる風には、潮ではない、乾いた石の匂いがした。
「……本当に、あったんだな」
叫ぶつもりだった言葉が、ほとんど息になった。
朝の紙の線が、今、目の前へ口を開けている。京介は敷居へ一歩踏み出した。
「間に合ったな」
後ろから声がした。
振り返ると、サキトとハリナが水路の端を渡ってきた。二人とも泥を膝まで跳ね上げ、肩へ担いだ縄は朝より濡れて重そうだった。
サキトは崩れた細道へ一度目をやった。
「さっきの音は、あれか」
「オレがやった。道を開くつもりで」
京介は包帯の手を隠しかけ、やめた。
ハリナは細道を見上げ、朝に折っていた図の端へ斜線を入れた。
「見張り道からの上りは残ってる。潮が下がっている間なら、こっちへ戻れる」
彼女はそれだけ教え、扉へ目を移した。
「四つとも、あんたたちが?」
「ああ。今から入るところだ」
「朝は一つも動かなかった。助かったよ、ありがとう」
サキトは輪の位置を見て、京介の顔へ視線を戻す。
「じゃ、通らせてもらう」
「ちょっと待て。オレたちが開けたんだぞ」
「だから、礼は言った」
サキトは一歩も引かなかった。ハリナも、四つの留め具の写しを開こうとはしない。
まいが二人の前へ立った。
「あたしたちが先に入る。それぐらいは待って」
「もちろん。誰も押しのけちゃいないだろ」
京介は取り分の約束をさせたくなった。だがこの扉に、開けた人間の宝庫とは書いていない。シェリルとマリアが荷を持ち直す間、包帯の下の掌が熱かった。
四人が敷居を越えると、革帽子の二人も続いた。靴音がいっせいに、石の天井へ響き返った。
*
同じころ、入り江の外では、立派な荷車が非常に立派な音を立てていた。
ガタン。ガタン。ガタガタガタ。
「プレスケ。あたくし、今、前へ進んでいるのかしら」
「車輪は前へ回っております」
「景色が変わらないわ」
「後ろの橋板が地面へ刺さっておりますので」
「それを進んでいると言わないのよ!」
からくり荷車の後部は、泥に埋まっていた。
ロクシロウは車体を支えながら、のんびり顔を上げる。
「アネゴ、降りた方が軽いよ」
サタンジョは帽子を押さえて飛び降りた。
プレスケが作動を止めようとする。泥に挟まれた板と歯車が、同時に嫌な音を立てた。
ポン!
発煙用の飾り箱が、間の悪い景気付けをした。
黒い煙が三人を包み、帽子と眼鏡と縞シャツの色を揃えた。
「……縞、見えるか?」
ロクシロウが自分の胸を見下ろす。
「輪郭から推測は可能です」
「反省会はあとよ。扉が開いているわ!」
サタンジョが指す先で、崖の内側に細い明かりが見えた。
三人は車を泥から引き出し、使えなくなった板を畳んだ。飾り箱は取り外し、部品を拾い集める。
荷車に積み直したのは、自分たちの壊れた部品ばかりだった。プレスケは曲がった軸を見つめ、いつもの自慢を一つも口にしない。
「次は荷車いっぱいのお宝よ!」
「今もいっぱいだぞ、アネゴ」
「中身に注文があるの!」
三人はすすのついた足跡を残し、ようやく入口へ向かって歩き始めた。
*
入口のすぐ内側に、長い腰掛けの並ぶ休憩部屋があった。
奥には空気の通る細い穴があり、窪んだ床にも泥はたまっていない。シェリルが扉の横の文字を読んだ。
『休む者をせかすな』
「いい部屋だな」
京介は心から言った。
座った途端、脚が急に自分の重さを思い出した。
入口からは外の夕暮れが見えた。
もう山道へ戻る時間ではない。水路の潮も、やがて上がる。今夜はここで休み、明るくなってから奥を調べることにした。
青針組は奥寄りの腰掛けへ荷を下ろした。サキトがロープを広げ、ハリナは灯具を据えて、明日の経路らしい図に線を足している。
「今夜は行かないのか?」
京介が尋ねると、ハリナは彼の顔を見た。
「水を吸った縄を担いで、初めての穴へ? 私の脚にも閉店時間がある」
サキトは片方の靴を脱ぎ、逆さにして振った。泥の固まりが一つ落ちる。
「朝は早いぞ」
「オレだって、早い」
京介は即座に返し、腰掛けから立ちかけた。ふくらはぎが引きつって座り直したところを、まいに見られた。
彼女は何も言わず、水筒を隣へ置いた。さっきまで傷を洗うのに使った水筒だ。軽くなったその重さを、京介は左手で受け取る。
地図へ鉛筆を走らせると、右掌の同じ場所が紙へ触れた。まいが顔を上げる前に、京介は左手へ持ち替える。
「道まで余分に曲げないでよね」
紙の端を押さえる指だけが隣から来た。京介は崩した細道へ斜線を重ね、そのそばに自分の名前を入れた。次の補給所へ出たら、報告しなければならない。
シェリルが薄焼きパンと干し肉を配った。彼女の灯りを休ませ、持参の灯具を中央へ置くと、四人の影が壁へ長く伸びた。
マリアはパンへ塩をほんの少し振り、昼の菓子の残りを一口食べた。
「どうだ?」
京介が聞く。
「順番を変えると、おもしろい」
「うまいかどうかじゃないんだな」
「うまい。おもしろいのも、いい」
まいが笑い、菓子の欠片を一つ口へ入れた。京介と目が合うと笑いは引っ込んだが、塩の包みは彼の方へも回ってきた。
そのあと、入口から足音がした。
すすだらけの三人が現れたとき、京介は一瞬、外に炭の山が歩いてきたのかと思った。
「ずいぶん遠回りだったな」
「優雅な散策よ!」
サタンジョは強く言い切った。
まいは黄色いガラスの包みを差し出した。
「あんたたちの忘れ物。道に置きっぱなしにしないこと」
プレスケが受け取り、包みをそっと開く。
「これは、すべて拾ってくださったのですか」
「拾わされたの。看板を戻す時間も、坂を戻る時間も、あたしたちが払ったのよ」
サタンジョは口を開きかけたが、まいが畳んだ扇子で包みを指すと、言葉を飲んだ。
「返してもらわなくても結構でしたのに」
「道標を勝手にどかした件は、次の補給所へ報告するからな」
京介が言うと、ロクシロウは黄色い包みをプレスケから受け取り、荷台の下へ入れた。もとはきれいな飾りだったガラスが、木の底で乾いた音を立てた。
サタンジョは三人で部屋の反対側を陣取った。
「お宝は譲らないわよ」
「こっちも、そのつもりだ」
京介はパンを持ったまま返した。
部屋の反対側では、プレスケが壊れた軸を膝の上で回していた。青針組の灯具は、四人が食べている間も点いていた。
やがて外が暗くなる。
波の音は遠のき、代わりに遺跡の奥から、低い風の音が届いた。
京介が灯りを少し持ち上げると、部屋の奥の壁に矢印が見えた。
「シェリル、これ、何て読む?」
彼女はパンを飲み込んでから近づいた。
ゆっくり文字をなぞり、小さな声で答える。
「記録庫、です」
マリアは顔を上げ、食べかけのパンを置いて壁へ近づいた。指でなぞりはしなかったが、矢印の先に視線を置いたまま戻ってこない。
まいは彼女を見て、青針組の地図を見た。シェリルも教本を閉じかけた手を止める。
「記録なら、賢者の石のこともあるかもしれないな」
京介が言うと、マリアは頷いた。
「朝になったら、読みたい」
「うん。朝だ」
京介は荷袋へ寄りかかった。彼の右手も、シェリルの腕も、まいの閉じた扇子も、今日はもう十分に働いていた。
マリアは最後に矢印を見て、パンのところへ戻った。
まいが伸びをし、ブーツを脱ぐ前に底を確かめる。
そこで、緑の小さな苔が一本、端についているのを見つけた。
部屋には『休む者をせかすな』と書いてある。
静かに休め、とまでは書いていなかった。
まいの短い悲鳴が、丸い天井によく響いた。
エンディングテーマ「ただいまの地図」
https://youtu.be/laoWeE9esnY




