第11話「お宝よりも苔がこわい」
オープニングテーマ「WONDER VOYAGE」
https://youtu.be/Bs0_T5g4GqI
まいは、一歩も動かなかった。
京介が先へ行っても動かない。戻ってきても動かない。水路の幅を小枝で示しても、首だけがゆっくり横へ振られた。
「ここを通れば、扉まで近いんだって」
「あたしの足が通りたがってないの」
「水は足首までだぞ」
「深さの話はしてないの」
まいのブーツの先から一歩向こうで、苔が水に揺れている。
淡い緑と濃い緑。その上に光る緑が重なり、水の下で一斉に揺れた。
シェリルが横からそっと水路を覗く。
「この苔は、危険なものですか?」
「触ったらどうこうって種類じゃない。もちろん食ったりはするなよ」
「食べません!」
返事をしたのは、まいだった。
マリアは水路の縁にしゃがみ、指先で小さな石を一つ押した。水の中へ落とすと、下流へ流れる前に、苔の房に引っかかった。
「つかまえるのが、上手」
「ほめなくていいのよ、そんなもの!」
京介は地形図を見た。
水路の右には、古い細道があった。人の手で積んだ石垣の上へ、後から土砂が載ったらしい。道幅は狭いが、苔のない乾いた面が扉の近くまで続いている。
ただ、その途中に崩れた岩が張り出していた。
「あっちなら、濡れずに行けるかもしれない」
まいの顔に、光が戻った。
「どうして最初からそっちを言わないの」
「ふさがってるからだろ」
「どかせばいいのよ」
まいの目がシェリルに向く。
シェリルは岩へ近づく前に、足元を確かめた。
「持てるかどうかより、立つ場所の方が心配です」
京介もしゃがんだ。
細道の縁にある土が、指で触れただけで崩れる。大きな岩を持って動いたら、その重さが全部足場へかかる。
「だめだな。シェリルが強くなっても、道まで丈夫にはならない」
まいは水路を見て、細道を見て、最後に京介のポーチを見た。
「岩がなければ、通れるのよね」
京介も、同じことを考えていた。
崩れてきた岩と土の向こうには、積まれた石垣が見える。道を支える面は残っているように見えた。学校で道を開いたことのある岩と、色も層の重なり方もよく似ている。
「……どかせると思う」
「思う、なの?」
「この島の岩だぞ。見たことはある」
言い切ると、まいは黙った。
青針組はもう帰り道を探している。こちらは四人分の図と道具を持って、苔に追い返されている。京介はポーチへ手をやった。
古代の扉から離れた崩土へ使う。人の姿がないのを見届け、三人と荷を岩陰へ退かせた。京介も距離を取ってから、学校で検査を受けたダイナマイトを一本使った。
ドガーン!
入り江の水面が震え、崖から鳥が飛び立った。
粉塵の向こうで、予定していた一度きりの音とは違う、低い響きが続く。京介は反射的に腰を浮かせた。足元へ伝わった揺れで体が傾き、岩へついた右の掌に、鋭い痛みが走った。
細道が、端から崩れていた。
岩が落ち、土がほどけ、その奥から黒い穴が口を開く。地図に細く描かれた線は、向こう岸に半分を残したまま消えていった。
京介は息を吸った。粉っぽい空気が喉へ引っ掛かる。
「空洞が……」
まいが彼を見た。苔を見たときのように声を上げなかったのが、かえってこたえた。
「支えるところが残ってるって、思ったんだ」
「聞いたわ」
道の断面から砂が落ち続けていた。扉を調べたあとの、乾いた帰り道が消えていた。
「悪かった」
京介は右手を握りかけ、途中で開いた。掌の付け根寄りに、赤い線が一本走っている。ついた岩の尖りを見て、ようやく何をしたか分かった。
まいの視線がそこへ落ちた。
「手、出して」
「これぐらい――」
「出しなさい」
彼女は扇子を腰へ差し、京介の手首を取った。さっきまで怒っていた指が触れると、京介は痛みより先に身を固くした。
シェリルが水筒と清潔な布を出す。京介は差し出された水で傷を洗い、動く指を順番に曲げた。深くはない。親指も動く。それなのに、拳を作ろうとすると掌がつれ、思った以上に顔へ出た。
まいの手が止まった。
「動くなら、わざわざ強く握らなくていいでしょ」
「分かった」
京介が返事をすると、まいは目を伏せて布を巻いた。耳飾りがすぐ目の下で揺れる。結び目を作る指の動きを見ていたら、まいが顔を上げ、京介は慌てて崖へ視線を逃がした。
「……水が、減ったな」
「減ったわよ。布も使った。道もなくなった」
京介は水筒の栓を左手で締めた。謝り直そうとしても、さっきと同じ音しか出そうになかった。
「ここから戻るなら、さっきの谷を上って見張り道か。暗くなる前に上まで行かないと」
「あたしに選ばせるの?」
「そういう意味じゃ――」
「苔が嫌だって言ったけど、道を壊してくれとは言ってない」
まいの声が、そこで初めて揺れた。
京介は口を閉じた。シェリルが荷を持ち直し、マリアは水面から出た石を眺めていた。二人からも返事はなかった。
「オレは、扉へ行きたい」
京介はようやく言った。
「今の水位なら、底の石を踏んで渡れる。帰りはこの道が満ちる前か、明日の引き潮を待つ。乾いた抜け道は……もう使えない」
「わたしも、印を見に行く」
マリアは自分の荷を肩へ掛けた。シェリルは教本を布の内へ入れ、口を結び直す。
まいは長く水路を睨んでいたが、やがてブーツのひもへ手を伸ばした。
「先に行って。あたしは、あたしの踏む石を選ぶから」
京介は頷き、地図の細道へ斜線を引いた。右手に握った鉛筆が震えたので、途中から左手で線を太くした。
*
京介は水路へ入る前に、靴のひもを結び直した。
長い枝を左手に持ち、一歩先へ突き立てる。足首の少し下に冷たい水が当たった。包帯を巻いた右手は、ジャケットの前に引っ掛けておく。
「ここは硬い。石が続いてる」
京介が指した位置を、シェリルが教本をしまったまま目で覚える。まいは、その石と次の石の間だけを見ていた。
「……見えてるか?」
「必要なところだけ見てるのよ」
扇子を額の前へかざし、まいは苔の揺れる水面を視野から追い出していた。
マリアはロングスカートの裾を帯へ少しまとめ、まいの後ろに立った。
「緑の石は滑る。白い筋のある石は、乾いた部分が残っている」
「その分類、助かるわ」
「右のものは、よくぬめっている」
「余計な情報まで足さなくていい!」
京介は先を向いたまま、まいの足音を待った。水路いっぱいのほしぶどうを想像すると、もう急かす気にはなれなかった。
通路が低くなったところで、水が一つの場所にたまっていた。横幅は人が二人並ぶほど。深くはないが、古い木片と落ち葉が絡まって足元を隠している。
まいのブーツが、ぴたりと止まった。
「そこは無理」
「端なら――」
「心の端まで行き止まり。無理」
京介は壁の側を調べた。
水路の脇には、小さな排水口がある。鉄ではない鈍い色の格子に、枝と泥が詰まっていた。その手前へ積もった落ち葉が水をせき止めているのだ。
「こいつをどかせば、水は抜ける」
「緑のものを、取るのね」
まいは口にするだけで顔をしかめた。京介が手を伸ばしかけると、布包帯の白さが目に入る。
「その手を突っ込まない」
まいは彼の枝を取り、格子の前へ引っ掛かった葉を手前へ寄せた。濡れた塊が持ち上がった瞬間、琥珀の目が限界まで細くなる。
「ああ、まとまって来た。そういう協力はいらないのよ……!」
「そこ、枝が引っ掛かってるだけだ。根の方は残していい」
「それを先に言って!」
京介は口をつぐみ、枝の向きを指で示した。
だが太い枝が、格子の下に挟まっていた。
「わたしが、少しだけ持ち上げます」
シェリルが言った。
「手伝うぞ」
「京介さんは、その木をお願いします。枝は、まいさんに抜いてもらえますか」
差し出されたくさび形の木片を左手で受け取り、京介は平らな石へ膝をついた。まいは格子の隙間へ枝の先をかけ直す。
シェリルが息を整えると、ローブの肩の布が少しだけ張った。両腕が格子を持つ。
重い金属が、ゆっくり上がった。
「すごいな」
「動かせます。でも、早く……」
シェリルの声が短くなる。まいが引いた枝は一度ねじれ、格子に残った。京介は木片を持つ左手を浮かせたが、シェリルの膝が震えたのを見て、そのまま待つ。
「抜けなさいよ、この、しつこい!」
まいが腰を引くと、太い枝が泥の固まりごと外れた。京介は木片を差し込み、格子の重さがそこへ乗るまで手を添える。シェリルが腕を下ろしたのは、十四呼吸目だった。
水が、ごぼりと音を立てた。
みるみる低くなる水面に、平たい石の並びが現れる。
苔そのものは残っていた。だが、踏む場所がはっきり見えた。
「通れるわ」
まいが、ひどく小さな声で言った。
そのあと、まいはシェリルへ菓子の包みを差し出した。
「先に食べなさい。さっき買った菓子」
「……ありがとうございます」
シェリルは石へ座り、洗った指で菓子を割った。半分を口へ運ぶ途中で、腕が膝へ落ちる。京介が顔を見ると、彼女は笑おうとして、菓子を飲み込む方を先にした。
荷物は、一度に渡さず、岩棚に引っかかっていた乾いた平たい板へ載せて運ぶことにした。板にはひもを結んだ。転んだとき、地図や本まで水に落とさないためだ。
しかし低い溝が一つ残り、板を向こう側へ引くひもが、途中の出っ張りで引っかかった。
京介が回り込めば外せる。まいはそのために一度戻らねばならない。
「サイコロ、使う」
京介が言うと、まいは荷袋から顔を上げた。
「また、急ぐために?」
「シェリルを戻して、もう一度持たせたくない。オレが回れば外せるけど……まず一回、ここで使う」
まいの返事を待ちながら、京介は乾いた石の上へ二個のサイコロを出した。
彼を中心に五歩ほどの範囲には、荷を載せた板がある。三人はその外の岩棚で待っていた。風でも浮遊でも板が遠くへ行かないよう、ひもの端を岩の根元へ回しておく。
「出たあとで、やり直しはできないわよ」
「分かってる」
京介は板を進めたい方へ体を向け、左手を開いた。
「賽の目ギャンブラー!」
サイコロWが、乾いた石の上を転がる。
二と、二。
四つの点が、夕方の光の中で止まった。
風が、京介の正面へ押し出された。
板の上に載せた袋が膨らみ、ひもの引っかかりが少しだけ浮く。板が、つっと向こうへ動いた。
「よし!」
ただし風は、そこで終わらなかった。
ゾロ目だった。
十二秒ぶんの風に、板はすいすい進む。京介は左肘へひもをかけ、体を後ろへ引いた。反射的に添えた右手が痛み、すぐに離す。岩へ回したひもが張ったところへ、荷袋の背に干していた替えの靴下が、風に追われて飛んできた。
靴下は見事に板へ着地した。
正確には、まいの荷袋の取っ手へ着地した。
「あんた!」
「荷物の追加だ!」
「追加料金を取るわよ!」
風がやんだとき、板の先は向こうの石へ乗っていた。袋から垂れた靴下だけが、まいへ手を振るように揺れ続ける。
京介は二個とも左手で拾い、サイコロのポーチへ戻した。壁へ肘を添えながら、自分も細い石の列を渡る。まいは靴下を小枝に引っかけ、できるだけ長い距離を保って返してきた。
「ありがとうな」
「何に感謝されているのか、考えたくないわ」
全員が通ったあと、京介は枝を使って格子のくさびを横から抜いた。まいは水路へ戻りかけていた最後の葉を拾い、岸の枝山へ放る。
「助かった」
「その格好で戻ってこられても、困るからよ」
まいの目は包帯に向いていた。京介が何か続けようとすると、彼女は先に歩き出した。今度は、自分で石を選んで。
*
扉の前に立ったころ、太陽は崖の西側へ傾いていた。
正面は人の背丈の倍以上ある。丸い枠の内側へ、舟と星が彫られていた。
舟は奇妙な向きだった。
細い先端を、上へ向けている。
「嵐でひっくり返った舟か?」
「ひっくり返っていたら、船底が見えると思います」
シェリルが答える。
まいは舟の左右に伸びた細い形を指した。
「帆じゃないわね。縁がまっすぐすぎる」
「板?」
「金属の羽、みたい」
マリアが静かに言った。
京介は、さっき飛んだ海鳥を思い出した。
舟があんなふうに飛ぶだろうか。京介は彫刻の先端を見上げ、つられて空へ目を向けた。
扉の下には四つの丸い留め具が並んでいる。
一番左は波の印。次は手と輪。三番目は文字。最後は三枚の細長い板と、目のような模様だ。
留め具は壁の中へつながっており、持ち出せそうにない。
「四つとも順に外すのね」
まいが継ぎ目を見て言った。
最初の輪から隣へ細い溝が延び、内側の棒が次の輪を止めていた。
波の輪の下には、水のたまった浅い皿があった。左と右に小さな排水口。中央のつまみを動かすと、どちらかへ流せるようになっている。
左右の口に、波の形が刻まれている。朝の銅貨と同じ、線が細くなる刻み方だった。
さらに、扉の脇には小さな窓があり、外の入り江が見えた。
たんなる景色を見る窓にしては、低すぎる。
「これ、外の水の動きを見ろってことだ」
京介は窓へしゃがんだ。
水面の白い泡が、左から右へ通った。
「右へ動いています」
シェリルが言う。
「一回待つ」
京介は昼の観察を思い出した。
波が崖で返ると、泡は一度止まり、逆に流れた。さらに待つと、まとまった泡が、ゆっくり左へ抜けていく。
「左。引いてる潮は、左へ抜ける」
まいが銅貨を出して照らし合わせる。
「刻みも同じね。迎える水じゃなくて、送る水」
京介はつまみを左へ倒した。
皿の水が細い溝へ流れる。
波の輪が、四分の一だけ回った。
カコン。
隣の留め具から、小さな棒が引っ込む。
「一つ!」
京介が拳を握る。
右手の指に痛みが走り、京介は作りかけた拳をほどいた。
「一つでそんなに喜んでいたら、あと三つで声が枯れるわよ」
まいがそう言いながらも、次の留め具へ顔を寄せた。京介は笑いかけ、その肩越しに崖を見た。開けたはずの道の代わりに、灰色の断面が西日を受けていた。
*
二つ目の留め具には、見事な金色の取っ手がついていた。
丸く磨かれた石が中央にはまり、周囲の模様だけが不自然なくらいきれいだ。
まいが、さっと一歩近づいた。
京介は咳払いした。
「調べるための一歩よ」
「まだ何も言ってないぞ」
まいはミエールくんを出した。
残る西日の筋へ鏡を置いて光を導き、取っ手のまわりを覗く。ぜんまいの短い音が、静かな入り江に響いた。
「ほらね。丸い飾りの縁に、鋳型の合わせ目がある。ガラスを流して作ったのね。あと、下の輪に細いひもがつながってる」
「また三人組か?」
「違うわ。ひもも輪も、ずっと古い。上の箱へ続いてるの」
京介は取っ手から壁を見上げた。
梁の奥に、蓋つきの木箱があった。箱の底にはたくさんの小さな穴。古いが、最近も水に濡れた跡がある。
「引いたら、水か」
「泥水ね。入り江の底からくみ上げたものなら」
まいは穴の真下から、さっと身を引いた。京介も半歩横へずれる。
シェリルが足元を指した。
「こちらの小さな踏み板にも、手の印があります」
金色の取っ手とは反対側に、灰色の石の板がある。飾りはなく、端だけがすり減っていた。
まいはそこへ小枝を近づけた。
「引く方じゃなくて、支える方。上のひもをたどって」
京介は目で追った。
金色の取っ手のひもは、箱の蓋へ。
灰色の踏み板の棒は、留め具の下へ。
「箱を開けずに、留め具だけ動かせるか」
「そこを踏んで。手は使わなくていい」
まいが足で板を押すと、留め具の棒が浮いた。京介が踏み役を代わり、深く沈ませる。
「そのまま。あたしが輪を回す」
泥水の箱は動かなかった。
留め具だけが、ゆっくり解ける。
カコン。
今度の音を聞くと、まいは金色の取っ手へあっかんべえをした。
「きらきらしてれば何でも引っ張ると思わないことね」
「最初の一歩は速かった」
「マリア、記録するところを選んで」
京介が足を外すと、踏み板はゆっくり持ち上がった。留め具は開いたまま、泥水の箱だけが頭上で波の音に合わせて揺れている。
まいが先へ行きかけ、ふと振り返った。
「手、また握ってたでしょ」
「つい、な」
「……左だけで喜びなさいよ」
京介は左の拳を半分だけ持ち上げた。まいはそれを見届けず、もう次の文字へ目を移している。許されたのかと思いかけた期待を、京介はその拳と一緒に下ろした。
エンディングテーマ「ただいまの地図」
https://youtu.be/laoWeE9esnY




