第92話 逃げる者、追う者
私達は終始優勢だった。オドゥスを敵陣深く進ませれば、リュキオンの戦士達が先を争ってアルシア兵を蹂躙した。雨の垂幕で敵陣の向こうは見えないが、なぜだかもう矢も飛んでこない。味方は方陣を解き、散らばってそれぞれ獲物を探していた。
いよいよ兵列の底が見えようかといったとき、どこかで妙に甲高いラッパが鳴った。
途端に敵兵がどっと動き、南から黒雲のような集団が押し寄せてきた。
「いけない……『陣を組め!敵に備えろ!』」
それぞれ戦っていた冶金兵たちが渦中を抜け出して、青銅の壁を作る。リュキオン兵も、新手に備えて大楯を構えた。
しかし、敵兵はこちらをあからさまに避けてそのまま北へ逃げた。目の前にいた者達も戦いを放棄してしまう。
「背を見せおったぞ!敵を逃がすな!」
呆気にとられていると、遙か前方から威勢のいい叫び声。テリメネスだ、先頭きって切り込んでいたらしい。遁走するアルシア軍を嘲笑うように、あちこちから雄叫びが上がる。
「追いたいようだな。我々はどうする?」
「……テリメネスさんが指揮官です。あの人が行くなら私達だって行かないと」
じっとり濡れたオノスの馬身をきつく腿で挟んだ。
ヘーロのことが気にかかる。レオニダスに勝てただろうか。ただ南からも敵兵が逃げているのだから、右翼の戦況も盛り返しているはずだ。
『追え!北へ向かう!』
オドゥスが牙を振り立てて方向を変えた。冶金兵がその後に続き、人形兵が私の、というよりオノスの足下を護る。味方が勢い盛んに戦ってくれるから、まだ私の兵達は丸々残っていた。
* * *
マレアの野を走るうちに、背後に味方が増えていく。右翼が合流しつつあるらしい。
緩やかな傾斜を乗り越えると、雨霧に霞む北の戦場が見えてきた。
「白い方が友軍だったか?散々だな」
オノスほど目のよくない私も、すぐに同じ感想を抱いた。黒装のアルシア軍は長く縦列を伸ばしながらひた走る。迎え撃つ紅の軍は真っ二つに分断され、それぞれ持ちこたえるので精一杯といった戦況だ。
「セイリオスに加勢する!走れ!」
先頭から飛んできたテリメネスの号令が、いきり立った兵の足をますます速めた。
「一度後続を待って隊列を整えた方がいいと思うがな。あれらは味方ではあっても身内ではなかろう?無理に急ぐこともない」
オノスの呟きは妥当だったが、指揮官が命を下した以上軍は止まらない。
「でも、勢いを殺さない方がいいかもしれないし……」
言いながら、左に佩いた短剣の、白木の柄を握りしめる。何より私も行きたかった。
波立つ心は戦の高揚、鳥肌が立つのは武者震いの証。自分にそう言い聞かせる。
絶対にいる。理由もなくそう確信していた。
「先に道を作れば大丈夫、です!」
先をゆくオドゥスがさらに速度を上げた。アルシア兵の背に追いつき、吹き飛ばす。
明らかに無茶な突進でも、既に骸の肉は忠実に実行した。
(死者を辱めるなかれ。神の法はどうした、それでも巫女か)
心のどこかで声がする。
うるさい黙れ、今は非常時なんだ。血脈の紐帯だって神の法だ。オルテギアを焼いた相手がそこにいるんだぞ。
雑然とした思考は轟く喚声に遮られた。王と父祖の名を叫びながら、オドゥスの空けた穴にリュキオン兵が殺到する。猪馴らしを称える声もいくらかこだましていたように思う。
追い立てられたアルシア軍はそのままセイリオスの横っ腹に突撃した。南北に分断されていた陣形の、南側の部隊へ。
幸い、私達の追撃に当の部隊も呼応した。雄叫びを上げて黒の兵団を押し留める。しかし元々前から押されていたところ、新たに敵を迎えて陣は悲鳴を上げていた。
『オドゥス!急いで!』
一刻も早く敵を追い散らし、セイリオスと合流しなければならない。テリメネスもそう考えたのか、味方全体が一気呵成に殺到した。
そして黒い鎧の壁が崩れ、戦塵にまみれた白い兵装が見え始めたとき。もんどりうってオドゥスが転倒した。
(あ……)
転がった体の前脚がおかしい。一本はへし曲がり、一本は千切れていた。
それでも踏ん張り、地に頭を擦り付けてなお突進を続けようとする、その残った後脚も長槍が薙いだ。人の胴より太い骨があっさり破壊される。
今度こそオドゥスは倒れ伏した。まだもがいているが、もう立てない。
「ホントに死体を動かせるのか。便利なもんだなァ、おい」
こちらの勢いを殺したその男は、すぐに後方の私に目をやった。
「だいぶん与霊の魔術が上手くなったじゃないか。元は縛霊が専門なのに」
白いものが混じった長髭を震わせて、どんぐり眼が楽しげに笑う。
敵味方が入り乱れる周囲の惨状など意にも介さず、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
「ティグリス!!」
せり上がる熱で頭が痺れる。
そう、上手くなったのだ。あの時よりもずっと。
『冶金兵!』
二十体全てが一斉に動き、仇を取り囲んだ。




