第91話 セイリオス戦線⑥決着・合流
小デイオンが歯を食いしばって足を踏ん張ると、水が沸くように腿の筋が隆起した。雨粒がむき出しの傷を洗うにつれ、締め上げられた左脚の出血は幾分か収まっていくのが見て取れた。
深手を負わせた張本人は追撃をするでもなく、それどころかパチパチと拍手しながら若き英雄を眺めていた。
「お見事お見事。その年でひとかどの戦士ってわけだ」
渾身の力で左脚を一歩踏み出し、憎悪も露わにデイオンはその薄ら笑いを睨み付けた。
「我が兵の鎧を剥いだか。品格、性情、犬にも劣る」
答えを待たず距離を詰め、一息に大剣を振り上げる。股下から胴を両断するはずの攻撃は、しかし豪快に空を切った。
「おっとっと。拾ったのは槍だけだぞ」
肩をすくめながら、まるで戦おうとせずひらひらと逃げ回る。
鋼鉄を重ねた百狠隊の防具、その重みをまるで感じさせない動きに、デイオンはきつく眉根を寄せた。
その間にも二人の横では、轟音と威容の呪縛を放ちながら、巨象の列が突き進んでいった。石柱のような足の間を器用に縫いながら、我先にと無頭人が追従、いや先導する。英雄達の戦いに口を挟む余裕は、戦場のどこにもなかった。
大鎌がヒュウヒュウと唸りを上げて回転し、鉄虎の牙を弾く。
戦陣の中央では、打って変わって英雄の一騎打ちが繰り広げられていた。
こちらでも、やはり獣人軍のことは見送った。大地を踏みならした丸い足跡、ペリメドンはその一つにしっかと陣取って、英雄と神獣に向き合っていた。
「神獣殺し!下郎が余の前に立つな!我が身はアゴモスの血統、大なるセイリオスの王であるぞ!」
長槍の突きを鎌の刃ではね返す。次いで飛びかかる黒鉄の獣を伏せ気味に躱しつつ、石突で下から顎を打った。
攻撃をいなされたティグリスは、すぐに反転して体勢を整えながら喉を鳴らした。
「その割にゃあ手下が少ないな?そちらさんはだあれも来んじゃないか」
その言葉は真実だった。
並の兵は象の咆哮で動けない。貴重な精鋭達も、巨体と無頭人の対応にかかりきりだ。
そして、恐怖が遠ざかればアルシアの歩兵もやってくる。
両軍の空白に取り残されて、ペリメドンは密かに歯がみした。未だ敵の雑兵が殺到しないのは咆哮の余波か、騎兵隊の戦果か。しかし次第に迫り来る漆黒の楯列は、もはや猶予が少ないことを示していた。
「一刻も早く獣を殺し、陣を組み直せ!」
眼前の敵から視線を外さず、大音声で命を下した。
百狠隊は、主命を忠実に実行した。無頭人を公然と放置し、紅の軍を踏み潰して進む巨獣の足下へ無謀にも入り込む。我と我が身が押し潰されることを承知で槍を突き出した。
矢継ぎ早に繰り返される自殺、そのうちのいくつかは三重の鎖帷子と肉厚の外皮を貫いて、特大の心腑に穴を開けた。
最精鋭を道連れに、大精鋭が倒れ伏す。咆哮はやがて途切れがちになっていった。
「横を見るな、後ろを見るな!」
くすんだ毛皮を赤いまだらに染めながら、デンドロンが叫んだ。百年来の同胞を踏み越えて、ひたすら前進する。
そして。
『ブオオオオ!』
七人の大獣人が快哉を叫ぶ。今、白亜の兵列に大穴が空いていた。
「さァ、仕上げだ!」
ティグリスの号令で錐陣が走る。
「おのれ!」
ペリメドンは怒号を発したが、その場に留まろうとはしなかった。あっさりと背を向け、崩れた自陣へ駆け出した。
「おいおい、そりゃあないって……」
鉄虎がその背に迫った瞬間、大鎌が動いた。振り向かぬままに背後を薙ぎ払う。ティグリスの、野太い首のある位置へ。
チュニック一枚の無防備な体へ刃先が触れかけた刹那、鉄虎が虎鉄に戻った。どろりと溶けた黒い塊が持ち上がり、必殺の一撃を防ぎ止める。
「おお怖い怖い。やっぱりこのくらいの不意打ちはせんとなあ」
鎧になった虎鉄を纏い直しながら、ティグリスが笑う。その声も、手元に残る鉄壁の感触も無視して、ペリメドンは駆け戻った。
* * *
先鋒の大役を果たした象獣人は、希少な同族をさらに減らそうとはしなかった。一塊になって無人の野を進み、十分に距離をとって己が戦功を見守る。
事実、もはや彼らは必要なかった。南北に割れたセイリオスの陣は、その傷が塞がらぬままアルシアの突撃を迎えた。
「陣を戻そうと思うな!入り込んだ異形どもを除き、こちらだけで立て直せ!」
南の塊では、自ら先陣に立ってペリメドンが紅の軍を叱咤する。黒の大楯を切り払いながら、真紅の両眼は忙しなく辺りを見回していた。乱れに乱れた兵列の内には手斧を振るう無頭人、西の野には動かない巨獣軍、そして東からは黒装の大軍勢。趨勢は明らかだった。
その時、耳障りなラッパの音が響いた。
「新手だ!南から!」
誰かが叫ぶ。確かに遙か南の大平野から、緩やかな草原の起伏を越えてアルシア兵が湧き出していた。
黒雲のような敵影に、周囲から悲痛な嘆息が漏れた。
しかし、ペリメドンはすぐにその動きのちぐはぐさに気づいた。統率が乱れ、高揚が失せている。まるで今の自軍のような。
「あれは猟犬ではない!逃げる兎だ!」
その言葉を裏付けるように、新たな敵軍の一角がどっと崩れる。深緑の大猪が、長牙に二、三人を引っかけて姿を現した。




