第89話 セイリオス戦線④紅の軍
ストロピオス率いる騎兵隊が錐陣の横腹に突入した。
咄嗟に構えた楯も空しく黒マントの兵列が踏み破られる。大重量の突撃から逃れようとする者は味方ともみ合い、かえって行き場を失った。
雨で視界の利かぬ中、ただ軍馬の列が進むだけでアルシア歩兵陣は狂乱状態に陥っていた。
「このまま押し進み、敵を分断する!」
立ち塞がる敵兵の首へ槍を突き刺しながら、ストロピオスが叫んだ。後方を振り向くことなく、ただ一直線に北へ走る。
セイリオス本陣へ向かうアルシア勢の進軍は、真横から切り裂かれて停滞しつつあった。
「キャハハハハ!」
突如、甲高い声が響いた。
アルシア兵の一人が突き進む馬の首筋に食らいつき、体をひねりつつ噛み破った。
断末魔の嘶きを上げて巨躯が転倒すると曲剣を抜き、落馬した騎兵の首を掻き切る。
「ホホホホ!」
「アハハハハッ」
次第に、そこら中から同じ声が響きはじめる。
彼女らは通常のアルシア兵ではなかった。黒い鎧にマントの出で立ちは同じでも、合間に覗く体は栗色の毛皮に黒まだら。
その顔は犬にも似ているが、犬よりも鼻面が詰まり、顎は遙かに逞しい。猪犬の獣人軍であった。
「後を構うな!進め!」
背後で異様な事態が起こるのを感じてもストロピオスは振り向かなかった。
敵陣深く入り込んだ状況で、進撃を止めることは敗北を意味する。彼も、また部下達もそう考えていた。
「ブルルル……」
しかし馬は違った。あちこちから響く嬌声が捕食者の勝ち名乗りであると理解していた。
本能的に足を竦ませ、逃げ場を探す。死神の声が唯一聞こえない方向は、今来たばかりの南側。
「馬鹿者!前へ走らんか!」
怯懦の気配を悟りストロピオスが手綱を引き締めたその瞬間、馬体がぐらりと傾いだ。
しとどに濡れた枯れ草の上へ、もんどりうって倒れ込む。
「ハハハハハッ!」
笑っているのではない、吠えているのだ。
素早く立ち上がった老兵の前へ一際大きな獣人が現れる。口元から鮮血を滴らせて、プッと肉片を吐き出した。
「頭領!」「クロコッタ!」
周囲から黄色い歓声が上がった。
* * *
アルシアの先陣を食い止める鉄人たちは、前方で騎兵隊が戦っていることなど気にかける余裕はなかった。
「ダメだ、もう止められん!」
鉄人の一人が悲鳴を上げた。首と胴を鉄に護られた屈強な戦士だが、全身に血を滲ませていた。
残った鉄人は似たような者ばかりだ。無頭人の軍勢は鋼鉄の敵にとどめを刺すよりも、無視して本陣へ突撃することを選んだ。
「ブラウロン、踏ん張るんだ。僕らがここで……」
エラトスの励ましは、斧の一撃で中断された。
横薙ぎに迫る刃を、左腕で受ける。むき出しの黄金がまたも鉄斧を防ぎ止めた。
「ぐうっ……このっ!」
右脚で敵の胴体を、すなわち顔面を蹴り飛ばす。足の裏に、鼻の砕ける感触が伝わった。
「……」
エルガメネスは顔の下半分を血に染めつつも、怯むでなく退くでなくエラトスを躱して前進した。
「あっ、待て!」
しかし、エラトスの前にすぐまた別の無頭人が現れ、追撃はかなわなかった。
鉄人を切り抜けた無頭人達は、真っ直ぐ象獣人の援護に向かった。
すなわち、百狠隊への攻撃である。巨獣を取り囲む兵達へ次々と手斧を打ち込んだ。
「チッ、動ける敵がいるのか!?応戦だ、応戦しろ!」
小デイオンが苛立たしげに指示を飛ばす。大剣の一振りで、走り寄ってきた無頭人を縦に両断した。
『オオオオオ!』
その隙を突いて、デンドロンが咆哮とともに駆け出した。百狠隊の一人を鼻で捕まえ、棍棒のように振り回しながらデイオンと打ち合う。
無頭人の救援で、巨獣たちは足下を動き回る敵から解放された。幾度となく槍を刺されて傷ついた体に鞭打ち、再び進撃を始める。
ある者は恨みを込めて周囲を薙ぎ払い、ある者は存分に紅の軍を踏み殺した。
アルシア側はにわかに勢いづいていた。
「奮い立て、貴様ら!それでも我が兵か!」
崩れかかったセイリオス陣に大喝が轟いた。
鎧が白いままの兵達を押し退けて、ペリメドンが現れる。楯を持たず剣を佩かず、青みを帯びた鋼の大鎌を携えていた。
『ブオオオオ!』
黄金の仮面越しでも怒気が見えるようだったが、象の一人は怯まず突進した。
しかし、ペリメドンは一歩も退かない。
「セイリオスの心得とはこういうものだ!」
弧を描くように鎌を振るい獣人の喉を裂いた。声もなく巨体がよろめき、目標の寸前で倒れる。噴き出した血が、王の姿を紅く染めた。
『ブオオオオオン』
「大王!お見事で」
デンドロンが新たな敵を見やった隙に、デイオンが大剣を振り上げる。六牙の一本、大口の左下に生えた長牙を打ち欠いた。
やがて、凍り付いていた紅の軍が、わずかながら楯を持ち上げる。取り落とした槍を拾い、無頭人へ突き出す者もあった。
それは獣人軍が数を減らし疲弊して、咆哮の大きさと頻度が落ちていたためだった。しかしこの場においてはまさしく大王の威光と理解された。
『オオ、オオオン』
巨獣達は傷ついた者を庇い、円になって陣を組んだ。突破ではなく、防御のための陣形であった。
* * *
「う~ん……デンドロン達は完全に止まってるな」
戦場の東、アルシア陣屋では二人の英雄が戦況を眺めていた。
エウフラテスはきょろきょろとマレアの野を見渡しながら肩をすくめる。
「無頭人もいるにはいるんだがなあ。……象連中が鳴いてる近くは兵も近づけんし、早よ動かさにゃどん詰まりだぞ。騎兵隊も出てきたし危ないんじゃないか?」
暗い展望とは裏腹に、その口調は軽かった。ニヤニヤ笑いながら戦友の脚にすり寄って脇腹をつつく。
「はあーあ」
悪戯っぽく見上げる少女の笑顔から目を逸らしつつ、ティグリスは盛大にため息をついた。が、すぐに拳を握る。
「しゃあない、俺も行くか」
そう言って胸当てをひとつ叩くと、すぐさま黒鉄の鎧がどろりと溶けて形を失う。流れ落ちた虎鉄は地面に黒い淀みを作った。
淀みは湧き上がり、四つ足を形作り、やがて巨大な虎の姿に変じた。
半袖のチュニック一枚になったティグリスは、長槍をひっさげて軽やかにその背へ跨がる。
「よしよし……って何してんだ、お前」
鉄虎に騎乗したその足下で、ニキッペ、もといエウフラテスが四つん這いになっていた。
「そりゃ留守番はつまらんのだもの」
少女の姿が淡く崩れさり、横の虎に勝るとも劣らぬ体躯の獣が現れた。
年を経た大狸。褐色の毛並みは艶を失い黒ずんでいたが、緑の瞳は雨の中でも爛々と光を放っていた。




