第88話 セイリオス戦線③犬の牙、蛇の牙
三重の鎖帷子を容易く両断し、小デイオンの大剣が倒れた巨獣の頭蓋を叩き割った。
「エルノス!」
低くかすれたしわがれ声でデンドロンが叫んだ。
象の獣人は数が少ない。たった今殺されたのは、齢五十を迎えたばかりの若武者だった。
『オオオオオ!』
最大の軍勢が憤怒の咆哮を上げた。牙を振り上げ、足を踏みならして大地を揺らす。
硬直した紅の軍が地震を受けてパタパタと崩れ落ちた。濡れた枯れ草に尻もちをつき、槍を取り落としても、兵達には指一本動かせない。
デンドロンが哀れな獲物の一人を鼻先で掴み上げ、振り回してデイオンへ投げつける。怒り心頭に発してはいても彼は冷静だった。目の前の将が咆哮に屈しない英雄であること、デンドロン自身ですらその間合いには入り難いことを見抜いていた。
「いちいち吠えおって。やかましい獣どもだ」
矢のように飛んできた兵を、デイオンは拳ではたき落とした。切らなかったのは味方に対する彼なりの気遣いだったが、殴られた兵は地面に転がり、畢宿の涙に打たれてピクリともしない。
『ブオオオオン!』
「小賢しい!」
雄叫びとともに次々と人間が放たれた。今やデンドロンはなりふり構わずこの一人に注力していた。
その甲斐あってデイオンの足が止まる。
「ライラプス、何をしている!」
焦れたような号令に、白装の巨兵団が散開をはじめた。
セイリオス市民四万から選び抜かれた百狠隊。彼らは恐怖を前にして凍り付くだけの雑兵とは違う。西方最強を課されたその力量と矜持が、どうにか足を動かした。
白土で塗り上げた鉄楯を次々と投げ捨てて、獣人軍を囲む。おぼつかない足取りで巨体の突進を躱しつつ、胴を巻く鎖帷子の切れ目を狙って槍を突き出した。
咆哮にふらつく槍は満足に狙いが定まらず、大半は鉄を擦るだけに留まった。だが中には、運良く脚の付け根を貫く穂先もあった。
『オオオ!』
鳴り止まぬ咆哮の中、十九人の地均しが新たな敵に向けられた。だが百狠隊はただ死を待ちはしない、この状況にあっても何とか動く。そのうえ、散らばって狙いを分散しているのだ。
デンドロンの足下にも、四人の百狠隊が群がっていた。左右から繰り出される槍が、鈍い鉛色の毛皮をわずかに赤く染める。
蠅を払うように彼らをたたき伏せ、少しずつ接近してくるデイオンに投げつけながら、デンドロンは密かに焦っていた。
本当なら、真っ直ぐセイリオス王へ向かって踏み潰しているはずなのだ。こんなところで足止めを食うなどあってはならない。
「後続は!無頭人どもはまだか!」
その時、進撃する象獣人の後方は混戦の様相を呈しつつあった。アルシア勢の突撃を防ぐため、両翼を展開していた白マントの楯列も中央へ集まり、ただ一点を両軍が争っていた。
だが巨獣軍の真後ろ、轟音が体の芯を呪縛する場だけは違う。
槍を投げれば隅まで届くほどの空間で、なお動く命は二種類。一方はエラトス率いる鉄人の生き残り。
そしていま一方は、両手に斧を振るう異形の軍勢。
「胴だ!こいつら胴に顔があるぞ!」
エラトスが声高に警告を発した。彼は投槍器を捨て、直接槍を振るって戦っていた。
「みんな、のぞき穴を狙うんだ!」
革鎧の中央、漆黒の瞳を目がけて槍を突き出す。鉄人の投げ槍は鎧持つ獲物の急所を突くための武器、細く鋭い穂先は吸い込まれるように一点へ向かった。
しかし異形の戦士は巨躯の割に素早かった。横っ飛びに躱され、渾身の一撃は脇腹の留め皮を裂くのみに留まった。
繋ぎが外れて垂れ下がった鎧を、首なしの戦士は自ら引き裂いた。裸の上半身が露わになる。
現れたのは見事に均整のとれた筋肉美。胴体に巨大な顔さえなければ、エラトスも見惚れていただろう。
「初めて見たよ。……面白い体をしてるんだな」
少しだけ視線を落として、その顔に話しかけた。
だが相手はしっかと唇を引き結んだまま何の反応も示さない。無言で両手の斧を振り上げた。
「無視か?……いや聞こえないのか、耳がないもんな」
跳び退って再び槍を構えつつ観察を続ける。
目も鼻も口も揃っているが、側面には特に何もなかった。
「……」
実際には、その男エルガメネスは話しかけられた内容を完璧に理解していた。聴力を持たない無頭人に生まれながら、彼は類い希なる努力で音声言語を習い覚え、読唇術による聞き取りすらも身につけた。
しかし、この場に対話は必要ない。
革鎧の弱点が暴露された今、数を恃みに押し切るのみ。エルガメネスはそれだけを考えていた。
無頭人は背後を振り向けない。ゆえに後退を考えない。ただ眼前の敵へ向かう。
「……くうっ!」
矢継ぎ早に繰り出される左右の斧を躱しながら、エラトスは次第に後ろへ押されていった。
視界の端では、仲間達も似たような状況だった。
幸い現状の敵は無頭の軍団のみだったが、彼らだけでも残った鉄人よりは多く、また力に溢れていた。
「踏ん張るんだ!今崩れたら終わりだぞ!」
若き英雄の檄にも、もはや応える者は少ない。狙い澄まして革鎧の穴を貫いても、すぐさま次の斧が降ってくるのだ。
まだ立っている鉄人は、急所を鎧に護られて生まれた、幸運な戦士たちだった。
「……破られるな」
遥かに後方、セイリオス本陣。ペリメドンは、膠着する象獣人の進撃に隠れて新手が迫りつつあることを感じていた。
「急げよ、馬ども。奴らの横っ腹踏み破るのだ」
呟いて黄金の仮面を被る。眠るように安らかな顔は、ステュムパーロスの聖地から奪った黄金人の首と囁かれていた。
「余に続け!何としても敵勢を押し返す!」
ペリメドンが自ら出陣した時、アルシアの錐陣を左右から挟む形で、騎乗の戦士達が放たれていた。
南を駆けるのはセイリオスの騎兵隊。
「敵は縦に伸びておる!疾く進め!楯列を整える隙を与えるな!」
地面を擦るように左手の長槍を低く構えながら、先頭の指揮官が吠えた。
肥満体と見えるほどに逞しい肉体は、戦わずしてその剛力を悟らせる。
「鎧を紅に染めよ!敵の血を啜れ!」
彼の名はストロピオス。先王アゴモスの代から仕えるセイリオスの重鎮、髪も髭もすっかり白くなって未だ現役であった。
「鋭牙なるべし!」
「鋭牙なるべし!!」
喊声の尾を引きながら、白騎兵が飛沫を上げて濡れた草原を駆け抜けた。




