第87話 セイリオス戦線②異形の役割
『ブオオオン!』
口元を染める血にもデンドロンは動揺していなかった。鼻で槍を引き抜き、ボキリと折り捨てる。
「……なら!」
エラトスは即座に父の槍を拾い、投槍器の革紐を巻きつけた。狙うは一点、深緑の瞳。
だが槍を放つ間もなく、毛むくじゃらの鼻が横殴りにエラトスを吹き飛ばした。
「クッ……」
衝撃に呼吸が止まる。何とか足から着地し、膝をついて息を吐いた。幸いなことに、黄金の骨格は粉砕されず主を護っていた。
『バオオオオ』
獣人軍は孤軍奮闘のエラトスへもはや目もくれず、セイリオス本陣へ進撃を再開した。
* * *
「こう降ってると見づらくていかんなァ」
アルシアの陣屋。顔の前に手のひらを構えながら、ティグリスがぼやいた。秋雨に煙る眼下の野では、進撃する巨影が遠く霞んでいた。
「もうトシか?嫌だねえ」
「……お前だって似たような歳だろが。いい加減そのカッコやめろ」
「クックッ。ン~どれどれ?」
渋面の戦友をよそに、エウフラテスがぐっと首を伸ばした。少女らしい大きな瞳を見開いて、うんうんと頷く。
「まあ順調順調。だが白い連中じゃなくて、妙なのが前に出てるな。手足に鎧?でも付けてんじゃないか、やけに光っとる」
「ほーん、そりゃ鉄人っぽいな……ってことはお前の同郷か」
節くれ立った指が黒光りする胸当て――虎鉄を撫でる。重厚な黒鉄は、さしたる反応も見せず鎧の姿を保っていた。
その時、ふとエウフラテスが感嘆の息を漏らした。
「おおっ、イキのいいのが。デンドロンの足下で動いてやがる」
「そりゃあ大したもんだ。きっちり片付けてやらンと」
笑みをこぼして、大きく息を吸い込む。黒装の英雄が号令を飛ばした。
「象に続け!敵陣を穿て!」
万の軍勢が錐形にまとまりながら、濡れた草原を走り出した。
* * *
「大王!」
象達の背中へ殺到する敵の群れに、小デイオンが真っ先に反応した。足を踏みならして従兄に迫る。
「私が前へ出ましょう。ここで敵を食い止め、同時にあの錐陣を左右から食い破るのです」
「ふうむ」
ペリメドンはふと真っ赤な顎髭を撫でた。若く短慮なこの従弟にしては真っ当な提案だった。
何より、もはや策を考える時間はない。獣人は鉄人を蹴散らし、すでに紅の軍と接していた。
歩兵は轟く咆哮に立ちすくんだまま、踏まれ投げられ恐慌状態だ。
「ぬかるなよ。止まらなんだら喉元食い破られて終いだ」
「ハハハッ!」
釘を刺された小デイオンは高らかに笑い、握り拳で純白の胸当てをドンと叩いた。
「ここには王も私もいるんですぞ。三巨頭のうち二人までも揃って、獣なんぞに遅れを取りましょうや?」
すぐさま大剣を担ぎ、歩兵の列をかき分けて敵へ向かった。
「来い、ライラプス!全員だ!」
本陣の周辺を固めていた巨体の兵達が、槍を掲げて後に続く。
ペリメドンはその出陣を見送りつつしばし瞑目した。が、すぐに腕を振り上げて伝令を用意させる。
「騎兵隊、集めい!ストロピオスはおるな?」
巨獣は初めからセイリオス本陣を目指しており、ことさらに鉄人達と戦おうとはしなかった。それでも通過した後には鉄人の半数以上が物言わぬ血溜まりに変わっていた。
「フー……フー……」
傷口に流れ込む雨だれを、むしろ歓迎しながらエラトスは立ち上がった。もはや象どころではない、見渡す限りの敵勢が、まさに彼の元へ殺到しつつあった。
先頭を固めるのは、顔も体も革鎧で隙間なく覆った奇怪な一団。手に手に斧を持って真っ直ぐ駆けてくる。
「立て!戦うんだ!」
エラトスは新たな敵を睨み付け、槍を握って周囲の味方を叱咤した。
「僕ら軍神の一族だろう!?いつも言ってたじゃないか!」
『ブオオオオ!』
その場にはまだ轟音の呪縛が鳴り響いていたが、鉄人達は震える足を懸命に動かした。絶対の縛りへ抗い、投槍器を構え直す。
それは彼らの力量を遥かに超えた偉業であった。もはや視界から象が過ぎ去ったためか。あるいは一族の象徴、伝説の黄金人を目の当たりにしているためか。
「投げろ!」
号令をかけつつ、エラトスは父の槍を放った。
過たず、先頭の敵兵に命中する。覆面ごと脳天を貫き、勢い余って首が落ちた。
「……え?」
だが、突進は止まらない。それどころか、血の一滴も流れなかった。
首なしの兵はそのまま巨躯を反らせ、体重を乗せて手斧を振り下ろした。
ガッ。
エラトスは左腕を差し出してその一撃を受け止めた。ますますよく見えるようになった金色の骨はいささかも傷ついてはいなかった。
そして気づいた。なめし革の鎧には、胴体の部分に並んで二つ、小さな穴が空いている。その奥から、黒く無機質な瞳がエラトスを見据えていた。
鉄人達が敵を迎えている背後では、巨獣が紅の軍を蹂躙していた。
『オオオオオオ!』
木の葉のように人間が宙を舞う。厚い猪皮を重ねた大楯は春の雪より脆かった。それでも兵達は動けないのだ。ただ自分が死ぬ番を待つしかなかった。
「怯むな、軟弱者!」
その時、獣人の咆哮に匹敵する大音声が轟いた。
西方最大国の最精鋭、百狠隊を引き連れて小デイオンが前へ出る。
その背を見て、立ちすくむセイリオス兵の目に希望が宿った。
「気負えよ、我が兵ども!紅の由縁を示せ!」
若き英雄は自身より大きな鉄剣を軽々振りかぶった。
純金を纏わせた柄を握りしめ、手近な象獣人へ突撃する。ちょうど目線ほどの高さに合った膝へ、腕も折れよと叩きつけた。
『オオ……オオン』
岩のような肌に一撃で深い亀裂が入り、乳白色の骨が覗いた。左前脚を折るようにして、巨体が崩れ落ちる。




