第86話 セイリオス戦線①最大の一族
蛇舌岬へつながる二筋の尾根。アルシア勢は北の峰の終端、糸杉の森を背にした丘へ本陣をおいていた。
ティグリスは、背もたれもない小さな木椅子に腰掛け、雲霞のごとく広がる自軍の陣容を見下ろす。この日、セイリオスを迎え撃つ軍勢は三万余。
万の兵列にあって、最も巨大な精鋭二十名が進み出た。象の獣人軍は、すでに獣の姿になっていた。顔から背にかけて三重の鎖帷子を着込み、深い緑の瞳は遥か前方、白装の軍勢を睥睨する。
「いいのか?虎の子の部隊だろ?」
「……ああ?」
突如、陣屋に少女が現れた。健康的な栗色の髪を後ろでまとめ、くりくりとした黒い瞳が愛らしい。
戦場には明らかにそぐわない、キトン一枚の可憐な姿にティグリスはかぶりを振って嘆息した。
「ああ、お前エウフラテスか。……シュミ悪いぞ、もっと化けるモンあるだろ」
「なんだ、せっかく会わせてやったのに。お気に入りなんだろ?お前も、太后もさ」
少女――ニキッペの顔がニンマリと笑みを形作る。
「アイツにだいぶ似てるもんな…………それで、いいのか?狸ほどじゃないが、象の獣人なんてそうそういるもんじゃないぞ。減ったら損だぞお」
「狸の獣人が貴重なのはお前のせいだろ……。デンドロンの奴が戦いたがってたし、まあ初っぱなから度肝を抜いてやるのもいいさ。そのお嬢ちゃんはここにゃいないだろうし」
やがて、アルシア兵が後方へ下がった。
残された二十人の中央には六牙の白象デンドロン。齢二百を数える古老にして、アルシアの部隊長。
旱魃に見舞われた大地のごとき無毛の同族とは違い、彼は全身が豊かな体毛に覆われていた。かつては初雪よりも眩しく白かったその毛皮は歳月を経てくすんだ灰色に変わったが、磨き上げられた闘志は些かも衰えない。
いつも通り敵を蹂躙すべく、大股で一歩を踏み出した。
* * *
「なんだあれは、牛か?猪?いや……」
地鳴りと共に迫り来る巨獣の列を、セイリオス戦陣の奥からペリメドンは胡乱な目で眺めた。
象という名は知らずとも、鉄を着込んだ規格外の体躯が危険であることは明らかだった。
「大王、あれしきの獣ごときこのデイオンが……」
「馬鹿者」
横から口を挟んだ従弟を一喝する。
「我らの三万を見て真っ先に出してきたのだぞ。相応の自信があるに決まっとろうが」
すぐさま伝令を呼び寄せ、指示を飛ばした。
「紅の軍を下げろ!鉄人どもを出せ!」
ステュムパーロスは軍神の庭。彼の地に生まれる生命は生まれながらに武具を纏う。
人間も例外ではなく、体のどこかに金属の肌を持って生を受ける。
彼らは鉄人と呼ばれ、銅牆鉄壁の生物を相手取るのが常である。鎖帷子で武装した象すらも、大きいばかりで普段見慣れた狩りの対象とそう変わらぬように思われた。
今、白マントを翻して退いていくセイリオス軍と入れ替わりに、百名余りの鉄人達が獣人軍の前に立った。手に手に猪革の投槍器を構え、鎧の切れ目、大木のような膝に狙いを定める。
「投――」
『ブオオオオオン!』
鉄人の頭領が号令を下すより早く、デンドロンが咆哮した。
『ブオオン』『ブオオオン』
周りの獣人達も同調した。槍は一つも飛ばなかった。
象の獣人は獲物を縛る。その巨体を前にしてその叫びを聞いた者は、身を竦ませずにはいられない。最大の種族が受け継ぐ必殺の武器であった。
『ブオオオオ』
デンドロンの前脚が、凍り付いたままの頭領の頭上へ落ちる。鉄脚の異名を持つ歴戦の狩人は、岩を落とされたような衝撃に声も出せずひしゃげた。
「なんと……」
ペリメドンが絶句する。
蟻でも潰すように蹂躙される鉄人の姿に、後方のセイリオス軍は慄いていた。
「軟弱な!獣の咆哮ごときで足を止めるとは!」
小デイオンがひとり気炎を上げた。愛用の大剣を地面に突き立てる。
「落ち着けと言うのに。……仕方ない、弓で狙うとしよう」
血気に逸る若輩をたしなめながら、胸の内では人柱の数を計算していた。そもそもが馬鹿げた巨獣である上に、分厚い鎖帷子だ。矢を降らせて仕留めるまでに、どれほどの兵を踏み潰されるか。
その時、ペリメドンの目に一人の鉄人がとまった。
前線の惨状の中、動いている者がいた。
その青年は頭領の息子だったが、鉄人の中では爪弾きだった。体のどこにも、鉄も青銅も見えなかったためだ。
しかし今、父親を踏み潰したその隣で。デンドロンの三対の牙、その一本が、投槍器を振り上げたままだった息子の左腕を裂いた。
裂かれた腕は光っていた。彼は、骨が黄金だったのだ。
一瞬のうちに、青年は己の英雄たる資質を悟った。同時に、父が肉塊に変わったことも。無数の呪縛を振り切って、夢見た名乗りを口にした。
「アルカスの子エラトス!ステュムパーロスの王!」
流血する傷口を燦然と輝かせ、細くねじれたトネリコの槍をデンドロンの口元へ投げ込む。槍は唇を裂き、右上の牙の根元へ食い込んだ。




