第85話 マレアの戦い⑥遠矢の誉れ
「クソッ、しくじった!」
ダレオースが倒れた直後、ヘーロマケーが河原に這い上がった。
崩れかかった方陣を見て、瞬時に状況を悟る。王の体を丘へ運びながら、リュキオンの戦士たちは次々と牙の前に体を投げ出していた。
「遅れたか。……好き放題しやがって」
河原に転がったダレオースの大槍を掴み、走る。
傷ついた右脚が軋むのも構わず、一直線にレオニダスの元へ。
大楯を兵の腕ごと噛み千切っていたその背へ風音立てて切りつけた。
「グッ……」
堅牢を誇る黄金の外皮が裂けた。体を打つ雨粒に、たらりと赤いものが混じる。
レオニダスは素早く後ずさり、ヘーロマケーに向き直った。
「離れた!早く王を陣へ!」
「よくやった、加勢するぞオーキュステ―!」
口々に叫びながら、兵達が二手に分かれた。対峙する二人の英雄を素早く取り囲む。
しかし居並ぶ槍の援護に目もくれず、ことさらに犬歯をむき出して女傑は笑った。
「アンタの血でも意外と普通なのな」
「獣にも人にも赤い血は流れる。獣人に流れたってよかろう……見せたのは久しぶりだが」
「ラウ!」
その時。遥か東、アルシア陣の後方から雨音に混じって雄叫びが届いた。常人の耳にはあまりにか細い響きだったが、黄金の英雄達にはその正体までも察しがついた。
緑の瞳が素早くその場を見渡す。
この場で戦い、あくまでダレオースを追うか、襲撃をかけられたであろう自陣へ戻るか。レオニダスは瞬時に判断した。
一撃で囲みを破り、四つ足のままヒュポロタス川を東へ駆ける。
あっけなく背を向けた敵を、ヘーロマケーは追わなかった。その右脚からはとめどなく血が溢れていた。
戦場の外れ、蛇舌岬へと続く峡谷の、南側の尾根を背にして。
プテレアの長弓部隊はぐるりと二重の柵を築き、万全の体制で陣を張っていた。タナグラ山麓にあっては太陽神にも比する遠矢の誉れを与った一党。雨の中でも、その矢は遥か西方のリュキオン軍に届いた。
だが現在、その陣は突如南から災難に見舞われていた。
「ララウ!ラウ!」
甲高い咆哮とともに、ケンタウロスの軍勢が小川に迫っていた。
指揮官――コルデーは近づいてくる馬蹄の響きにも平静を保った。先日に騎兵隊を踏み破ったケンタウロスの存在は既に知らされていた。また、直接相対してその数がわずかに百余りであることも見てとれたのだ。
顔を覆う黒頭巾を引き下ろす。紅く艶やかな唇が露わになった。
「怯むな、落ち着いて射殺せ!数は多くないぞ!」
檄と同時に、長弓が全て南を向く。次々とケンタウロス目がけて矢が飛んだ。
だが弓兵八百の狙撃に晒されながら、倒れた者は四、五人。ケンタウロスは降りしきる雨の中でも、飛来する矢の軌道を捉えていた。
そして、弓の返礼を行う。川向こうからプテレアに匹敵する射程の斉射が降り注いだ。
コルデーの隣に立っていた男が、血反吐を吐いて倒れた。
ケンタウロスはすぐに川を越えた。先頭を走るイアトロスが二重の柵をまとめて飛び越え、プテレア兵を踏み殺す。鉄片を貼り合わせた独特の鱗鎧、軽量にして頑強な防具は、神獣の蹴りを前にしてあまりに脆かった。
「……お前が頭領だな。……またおらんのか、ティグリスというのは」
雨に濡れてますます垂れ下がった白い眉毛の奥から、色褪せた灰色の瞳がコルデーを睨んだ。
「獅子だ!」
コルデーが弓を捨て、青銅造りのねじれた短剣を抜いた時。柵を囲みつつ矢を射かけていたケンタウロスの背後から悲鳴が上がった。
黄金の巨体が、飛び交う矢をことごとく弾きながら現れ、囲みを食い破った。
「獣人だてらに英雄の器か。……虎ではなさそうだが」
イアトロスは興味深げにレオニダスを見る。たちまち目の前の獲物に興味を失ったかのように、再び柵を跳び越えた。
「名を名乗れ、獣人!」
「……レオニダスだ」
襲いかかる牙を、イアトロスは跳び退って躱す。四本の腕が二つの弓を構えた。
降って湧いたような神獣と英雄の戦いに、コルデーは即座に反応した。
「将軍を援護しろ、いつも通り矢を当てても構わない!」
* * *
リュキオンの戦闘が佳境を迎えていた頃。遠くマレアの北方、アルシアとセイリオスの戦場は、未だに目立った動きを見せていなかった。
「何だかなァ。今さら怖じ気づいたわけでもあるまいが」
アルシア方の陣屋。ティグリスがポリポリと頭を掻きながらため息をつく。
「ま、こっちからいってやるか……おい、デンドロンの奴を呼べ」
アルシア軍の兵列が揺れる。地響きをあげながら、最前の横一列に巨大な獣が現れた。
セイリオス軍に縛霊の魔術は存在しない。アルシア方は、最強の獣人軍をこちらに投入していた。
西方大陸では見られない、象なる獣の獣人達だった。




