第84話 マレアの戦い⑤雨は天から涙は目から
マレアの野に雨が降りはじめた。畢宿の涙と呼ばれる晩秋の長雨。その最初の滴が、東西の決戦場をひたひたと濡らしていった。
「獅子の娘とは。どこのだ?」
「どこだっていいだろうが。どうせアンタ覚えてないだろ」
ヘーロマケーと会話しながら、その実レオニダスは全く彼女を相手にしていなかった。流星のような殴打に鈍い痛みを感じながら、しかしただダレオースに向かう。
速度においてこの女戦士は自分に勝ると、彼は認めていた。先にリュキオンの総大将、この戦場で最も重要な敵を仕留めようという判断は至極妥当だった。
「むっ……重いな」
だが、ダレオースは致命の攻撃を捌いていた。
左腕にはめた丸楯、狼を描いた鉄の防壁を軽々と操り、獅子の爪牙をいなす。鋼を裂くレオニダスと相対して楯が役を果たしているのは、ひとえに彼の技量によるものだ。
「野人の類だったか、オーキュステ―」
猛禽さながらの視線はレオニダスのみに向けたまま、会話に加わった。
「だがその見事な金髪、神与の輝き。一国の王族でもそうはおらん」
言いながら爪を楯で逸らし、黒槍を突き出す。右の前脚、肩先の毛皮が僅かに裂けた。
「捨て子か、追放者か。人に生まれながら獣に育てられたか?獣人でもあるまいに不運なことだ」
「やかましい!」
ヘーロマケーはレオニダスの呟きを遮り、背から一本の矢を抜いた。その鏃は、ヒュドラの毒を受けた青銅羽。
黒槍が付けた傷口、血も流れ出ない程度の裂け目をめがけて突き出す。
「……むっ」
だが、金獅子はその時初めて回避を試みた。咄嗟に体をねじり、脇腹で矢を受ける。万全の外皮は青銅を容易く砕き、最も危険な毒すらも遮断した。
「チッ、いいところで」
「厄介なものだ。さっさと片付けたいのだが」
レオニダスは大きく飛び退き、川を背にして低く構えた。
「四つ足の姿というのは、どうにも小回りがな」
猫背が盛り上がり、前足が地を離れる。黄金の威容が直立していった。
やがて獣は獣人となり、鈍く光る緑の隻眼が二人の英雄を見下ろした。
「これで戦うとしよう」
すくい上げるように下から爪を振るった。標的が咄嗟に両脇へ飛び退いた後には、深々とえぐれた大地。
大小の礫がはじけ飛び、うちの黒く艶やかな丸石が一つ、周囲を取り巻くリュキオン兵の肩を打ち砕いた。ストラトスという名のその戦士は奥歯で舌を噛みつつうずくまり、王の戦に口を挟む無礼を免れた。
「どうなってんだ、ありゃ」
毒づきながら、ヘーロマケーは敵の立ち位置を確認する。水面の間際、川の流れが時たま足を洗うほど。
河原へ来た時点で王の意図は了解していた。そして、即興の作戦は実を結びつつあった。
だが、レオニダスは川を背にして、二人を同時に視界へ入れている。隙を生む必要があった。
「オーキュステ―!」
その時、ダレオースが槍と楯を投げ捨てた。居並ぶ兵が一瞬呆気にとられる。
だがレオニダスは即座に攻撃を――繰り出そうとした。
「よしきた!」
全速力で、最速が駆けた。黄金の右脚に組み付き、すくい取る。
「そうらあッ!」
雨だれの踊る水面へ、諸共に飛び込んだ。
雨がヒュポロタス川に泥を流し込み、いくらか勢いを増していた。
濁った水流の中で、ヘーロマケーはレオニダスの背にとりつき、長い足を胴に巻き付ける。腕は首に回し鬣を掴み、全力で首を締め上げた。
「ゴボッ……」
口から気泡を吹き、レオニダスがもがく。
振り回した爪が、胴を捉えた脛を掻いた。
「……ッ」
僅かな接触で容易く骨まで達する痛みにも、ヘーロマケーは手を放さない。
ただ、考えてしまった。今なら肩の傷に毒矢を刺せるのではないか。この怪物と息比べをするより、そちらの方が確実ではないか。
僅かな迷いの代償か、決まり切った結果であったのか、その瞬間に黄金の巨体は変形していた。
膨れ上がる頸椎が首絞めを弾き飛ばし、四つ足が川底の砂利を踏みしめた。
河原ではダレオースが再び武具を構え、油断なく川を睨んでいた。
「上がってこないぞ!」
「仕留めたか!?」
周囲では兵が囁き合っていたが、彼は水中で蠢く者の気配を感じ取っていた。
不安を裏付けるように水面が波打つ。
「ゴオッ!」
濁流を纏って金獅子が姿を現した。勢いそのままに、ダレオースへ跳びかかる。
熟練の英雄は冷静に、獅子の攻撃に対処した。
みるみる狼楯を削りとる猛撃にも怯まず、何とか身を躱し続ける。
だが、がむしゃらに突進するレオニダスを単独で防ぎ止めるには限界があった。
そして何より、攻撃を防いだところでもはや逆転の手立てが見いだせなかった。
「……くっ」
楯が真っ二つに割れる。爪が深々と、ダレオースの胸を抉った。
胸当ては用を為さず、裂け目からみるみる鮮血が流れ出す。
「ダレオース様!」「大王!」
とどめの一撃から咄嗟に王をかばった兵が二人、大楯もろとも引き裂かれた。




